われらが不満の夏

7月22日(金)

昨日のメディアは、「夏休み初日」の子どもたちの様子を報じていた。

あのなあ、こちとらまだ夏休みじゃないんだけどよう。

全国的には、20日(水)に終業式を迎えた小中学校が多いようである。

浜松市は、「授業時数確保」の名目で、来週火曜日(26日)が1学期の終業式である。

昨年度、浜松市の中学校の年間授業日数は200日であった。今年度は、それより3日多い203日である。

1年間を見通した際に、始業式と終業式の日時は休日や祝日に大きく左右される。

今年は、夏休みが短くなった代わりに、冬休みが長い(12月24日〜1月9日)。これは、例年の3学期始業式の日時が土曜日と重なり、さらには成人の日も加わったためである。

また、3学期の修了式も例年より3日ほど遅くなった。春分の日が途中に入ったためである。

授業日数が3日長いというのは、けっこうゆとりをもって教育課程を編成することができるため、教務としてはありがたい措置である。

限られた授業日数の中で、あれこれやりくりを考え、むりやり行事等をはめ込んでいくことを考えれば、授業日数は多い方が組みやすい。

それはいいのだが、夏休みに入るのが遅いというのはよくない。

だいたい、梅雨が明けて、朝からクマゼミがしゃあしゃあ鳴いている中を汗を拭き拭き登校し、エアコンのない教室で授業を受ける生徒の苦痛を想像してほしい。

本校などは、夏休み前の最終週は、授業を45分の短縮日課で午前中のみ行い、午後は三者面談を組んでいるので、炎暑の時間帯に授業を行うことはない。

たぶん、浜松市の多くの中学校では同様にしていると思われるが、もしもそうでない学校があったとしたら、生徒たちの授業へのモチベーションは相当に低下しているであろうことは想像に難くない。

「暑さと寒さと、あなたはどちらがより我慢できますか?」と尋ねられれば、手前などはためらうことなく「寒さでえす!」と答えるであろう。

これは、手前だけの勝手な言い条ではなく、かの兼好法師ですら「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にもすまる。暑き頃、わろき住居は堪へがたきことなり。」(『徒然草』第五十五段)と申し述べておられるではないか。

この日本の気候風土を考えてみても、「暑き頃、授業をするは堪へがたきことなり」なのである。

来年度から、浜松市では各小中学校で始業式・終業式の日時を決定できるようになるそうだ。もちろん、その決定は校長先生が行う。しかし、具体的な意見具申は教務主任が行うようになるであろう。

少なくとも本校は、梅雨明けと同時に夏休みを迎えるような教育課程を考えることとしよう。

<追陳>

地方紙の書評欄で紹介されていた『英語を学べばバカになる−グローバル思考という妄想−』(薬師院仁志/光文社新書)を読了した。

好著である。

題名がややエキセントリックであるが、副題が示すように、アメリカ主導の「グローバリズム」の危険性を論じたきわめてまともな袖珍である。

筆者の主張は、ほぼ以下の部分にまとめられていると思われる。

「いずれにせよ、日本における国を挙げての英語一極集中化が、どれほど日本を救いがたくアメリカナイズしてきたか、もはや明らかであろう。それは、半ば無意識のものだ。しかし、日本に英語ばかりを広めるということは、アメリカ発の情報ばかりを仕入れ、他の言語で表現された知識から疎外され、国際的にも孤立してゆくことにつながる。これからの日本人がアメリカ頼みだけで生きてゆけるならともかく、そうではない以上、英語一極化がどれほど危険なことか、しっかり理解しておく必要があろう。一人一人が自ら進んで英語熱に加担することは、皆で赤信号を渡っていることに他ならないのである。」(176頁)

目からウロコが何枚も落ちた。英語の先生と言わず、多くの人たちに一読をお薦めしたい。