ベイビー、オレとえんおうのちぎりをむすばねーかい

1月27日(木)

中学3年生も、そろそろ修了式を迎えようという時期になると、国語においては「常用漢字表」の中でもふだんはあまり使用しない漢字を学習する。

たとえば、古い度量衡の単位などを表す漢字である。

教科書には、「斗・升・勺・匁・斤・厘・坪・畝」などが挙げられている。

一昔前の教科書にはいっさいふりがななどつけてなかったのに、今の教科書にはほとんどの字にルビがつけてある(ちなみに、上記の語でルビのないものは「斤・厘・坪」。しかし、その斤と厘もあまり読めない)。漢字についての学習をするのであるから、ルビはついていない方がいいと思うのだが。

それはまあいいとして、次にそれらの言葉の意味を国語辞典で調べさせる。

「えっと、斗ってどういう意味だった?」
「ハイ、容積の単位、約18リットルです。」
「だね。樽に入れるんだよね。じゃあさあ、その十分の一の単位は何て言う?」
「ハイ、升で約1.8リットルです。」
「そうだねえ。一升瓶って言うもんね。じゃあその升の十分の一の単位って何て言うの?」
「…。」
「じゃあ、勺って何?」
「ハイ、容積の単位で、約0.018リットルです。」
「だったら、勺と升の間の単位って何て言うの?」
「…。」

意味を確認した生徒のノートには、「勺」の意味のところにちゃんと「合の十分の一」って書いてあるのだ。教科書には「合」が出ていなかったから関係ないと思ったのだろうか。

どうやら、彼らの中では「斗」も「升」も「勺」もそれぞれ「独立した言葉」として存在していて、「一つの言葉には対応する一つの意味がある」と思っているような節がある。

すなわち、たとえそれが日本語であっても、今まで見たことも聞いたこともないような辞書で確認しなければならないような言葉というのは、英語の単語を覚えるときのように「ある言葉とその意味は、1:1で対応している」ととらえているような感じがするのである。

そうすると、脳にインプットされる際にも、それらの言葉はひとつひとつ独立した言葉としてストックされていくのであろうか。まるで「チョコボール」のように。

ひとつひとつの言葉が「言葉群」となって、「板チョコ」のようにセットでストックされていればいいのだが、ひとつひとつの言葉がそれぞれバラバラで、「チョコボール」のような状態でストックされていると、何かを説明しようとしても「それにぴったり合う言葉」を知らなければ、まったくその説明ができないというような事態を召致してしまうのではなかろうか。

ちょうど今、中学3年生は高校入試面接試験のための「面接練習」をしている。

手前も、「疑似面接官」として3年生の面接練習におつき合いしている。

しかし、今までタメ口しかしゃべってなかった生徒が、いきなり敬語口調を駆使しようなんてとてもムリなことで、少々練習をしたくらいではそう簡単には身に付かない。

だから手前は、「大切なことは自分の言葉をどうやって相手に届けるかってこと。よく知らない敬語や用語をムリして使おうとすると言葉が出てこなくなっちゃうから、自分の知っている言葉を組み合わせて、相手に失礼のないように答えればいいんだよ。」と言うことにしている。

しかし、多くの生徒は、自分が予期していない質問(たとえば、そんなこと聞かないけど「今後日本の経済はどうなると考えますか?」など)をされると、ただひたすら沈黙してしまうのである。

ひょっとしてそれって、質問に1:1で対応できる言葉を探しているための沈黙なのだろうか。

言葉:意味=1:1と信じている生徒が、自分の表現力の拙さに業を煮やし、「よおし、オイラは表現力を高めるために、ありとあらゆる語彙をストックしていくぞお!」と決意しようものなら、国語の学習は地獄である。いずれ、「こんなにたくさんの言葉を覚えなきゃいけないなんて、もお国語なんてキライぢや!」ってことになってしまうだろう。

手前は国語の教師である。何とかしなければならない。

一つのヒントは、「古典」にあるような気がしている。

手前は、「選択国語」の授業も担当している。1年生の選択国語では、『校注日本文學体系』の『御伽草子』から「浦島太郎」を読んでいる。手前が範読し、読みの練習をして、おおよその口語訳をつけていくという内容である。ちなみに、口語訳の際には辞典類をいっさい使用させていない。だって、まったく意味の見当がつきそうもない言葉なんてあまりないからだ。「鴛鴦の契り」だの「比翼の鳥」だの「連理の枝」などという言葉が出てきたときには解説をする。中学1年生だって、それで十分口語訳をつけていくことはできるのである。

おもしろいのは、「兎やあらむ角やあらむ」という本文中の言葉から、「とにかく」につなげたり、「三十日(みそか)」から「大晦日」と関連させたりしていると、生徒の中から「なるほどお〜」という声が聞こえてくることである。

現在使用している言葉には歴史がある。ささいな古典学習から、ふだん使用している言葉と昔使われていた言葉とがつながっていくことで、その「ふだんの言葉」の色彩が変わってくるのではなかろうか。

語彙を増やしていくこともむろん大切なことであるが、ストックしてある言葉をモノクロからカラーに変えていくことも同様に大切なことであるように思う。

そうすれば、たとえ中学生の限られた語彙の範囲内で、「今後日本の経済はどうなると考えますか?」という質問にも、それなりに答えられるようになるのではないかと思うのである。