幻の人魚たちよ

12月2日
 
 アメリカに5年以上暮らしていて、振り返ると、実にいろんなことが出来るようになった。  
 マディソンに来た当初は一人で病院も行くこともできなかった私だったけれど、今ではどこまでも一人で出かけられるし、運転だってできる。映画やカフェはもちろんのこと、なんなら一人で飲みに行くこともできるし、外国人の友人を集めて自分だけのグループを作り、はたまたそういう友達と英語で大喧嘩した日もあった。どうしてもテラスのライブミュージックに行きたくて、一人でライブミュージックを聴きながらテラスで踊っていた夜もあれば、ジムや映画館で顔見知りになった人とそのまま他愛ない話をして友達になるのも今では朝飯前だった。だから、日を追うごとに私はなんというか、ここアメリカでどんどん強く、逞しく、図太くなったようにも思うのだが、だけどそんな風に積み重ねてきた日々を振り返った時、私はふと、アメリカ人の女の子の友人を作ることの難しさに思いを馳せることがあった。
 
 というのも、これまで私にはアメリカ人の女の友達が一人もできなかったからだ。5年もマディソンに暮らしながら、友人のほとんどはロシアやブラジル、韓国や中国といった私のような外国人か、あるいはアメリカ人の男の子だけだった。何度か、同じミートアップのグループの女の子と仲良くなろうと試みたこともあったけれど、なぜかそれは友達と言えるような関係に収まることがなかった。遊びに出かけたことのある白人の女友達も、結局それはエヴァンジェリカルのジョーダンのような宗教勧誘、あるいはその人自身が敬虔なキリスト教信者であり「異国の人を助ける」という名目の枠の中での交流で終わってしまっただけだった。
 一体、どうしてこれほどまでに普通の白人女性の友人を作ることが難しいのだろうか?ある日、ブラジル人の友人であるルアーナにこの話をすると、もう20年以上もアメリカに暮らす彼女もまた、いわゆるWASPと呼ばれる白人の女友達は一人しかおらず、だから白人の女友達を探すのはだいぶ昔に諦めたのだと語ったことがあった。彼女に言わせると、アメリカの中西部の女性というのはあまり外国人に目を向けないのだそうだ。

 確かに、学園都市とはいえ、私たちは棲み分けされた世界に住んでいた。街を歩いていると実にたくさんのバックグラウンドを持つ人種とすれ違うことができるが、その全ての人種の人々と関わり合いになれるのかというと、それは違っていた。だから生まれも育ちもアメリカである中国人のヘンリーは、逆に生粋の中国人の友人を持つ機会がほとんどない男の子で、いつも中国人の友達が欲しいと嘆いていたりもする。人口の割合で考えると中国人の友達を作るのは簡単なように思えたが、アメリカ社会で育ったヘンリーにとっては難しいらしく、しばしば彼は私から中国人の友達を分けてもらおうとしていた。
 実際、私だって異国の友達をわざわざ作らなくても生活に困ることはなかった。人と交流するのが好きだからこれまで積極的に友達を作ってきたけれど、そういうことが特に好きというわけでなければあえて友達(しかも外国人)など作らなくても生きていくことができたし、夫の白井くんだってもうずっとこちらで学生だったが、彼に友達がいるのかどうか、かなり怪しいものだった。
 だからもし、ルアーナの言うように中西部の女性というものがあまり外の文化に目を向けないタイプなのだとすれば、彼女たちが得難い存在だと言うのも頷ける気がした。そもそもアメリカ人と言うのは往々にして個人主義が染み渡っていてベタベタした関係を好まなかったし、職場やクラスでの人間付き合いを避ける傾向にあるので、よほど他の文化に興味を持つか、語学学校にでも行っていない限り、他の国の友人を見つけること自体必要だとは思わないのかもしれない。

 「それにアメリカ人の女っていうのは、君たち日本人が想定するよりも、はるかにボッシー(威張ってる)なんだよ」
 アジア人女性が大好きで、中国人の彼女を持つ友人のカイルはそんなことを私に言ったこともあった。カイルは天井を指差しながら、アメリカ人の女性のことを「君たちよりも、もっともっと、ボッシー」と表現したが、そもそもアメリカ人女性の友達を持ったことがないので、私には彼女達がどれほどボッシーなのかどうかすらわからなかった。何人かいるアメリカ人の男友達だって、ボッシーとは言わないけれど時々すごく扱いにくくて、時に、都合が悪くなるとパッとカジュアルに、しなやかに消えていったりしたので、アメリカ人の女の子ももしかしたらもっと付き合いにくくて我儘なのかもしれないと、勝手に想像したりもする。それにこれまで住んできたアパートの女性オーナーたちもかなり男まさりで話しかけるのが憚られるような怖い印象を受けることが多かったので、ボッシーといえばボッシーだったのかも知れない...と。
 だけど、私が友達になりたいと思っているのは、そういう男のように進化したボッシーなアメリカ人女性ではなくて、普通の、当たり前のようにその辺を歩いている可愛い白人の女の子たちだった。

 夏になるとマディソンのダウンタウンの芝生のあちこちでは、真っ白な肌をさらけ出したそういう女の子たちが芝生に寝そべって楽しそうに日向ぼっこをしている姿をしょっちゅう見かけた。人魚のように眩しい女の子もいれば、二度見してしまうほど太っている子もいた。それから冬になればバーで、彼女たちはやっぱりおへそなんかを出して可愛らしくビールを飲んで騒いでいたりする。こんなに白人の女の子はそこらじゅうにいるのに、どうして私は彼女たちの一人とも友達になれないのだろう?一体、彼女たちはどこに潜んでいるのだろうか?
 私は街でそういうアメリカ人の女の子を見かけるたびに、その他の男の子同様、どうしたら彼女たちとお近づきになれるのだろうかと考えていた。
 だけど積み重ねた歳月は虚しく、5年もできなかったから、今後ももう私にそうした友達ができる見込みはなさそうだった。おそらく彼女たちとは縁がないのだろう。そう諦めながら、私は今日もこの幻の人魚のようなアメリカ人の女の子たちにただ思いを馳せていたのである。