イルカ

12月24日
 ここのところ、イルカについて考えている。
 きっかけは、カナダのイルカに関するドキュメンタリーを、友人のアレックスに紹介されて観たことだった。カナダのある入り江に迷い込んだ一匹のイルカを巡り、市民団体と政府による攻防を描いたそのドキュメンタリーは、イルカと言う生き物が知的で友好的、そして感情を持った人間と同じ生き物であるという前提とともに、人間の残忍さや無理解をあぶり出しつつ、最後はイルカの死をまるで家族の死のように悼む人々が流す多量の涙の映像によって美しく締めくくられていた。そんなドキュメンタリーを上映しながら、アレックスは終始映画の中のイルカの可愛さに悶え、人間の残忍さに激怒し、かと思えば、最後はイルカの死に悲しみにくれるという百面相を見せ、私もなんとか彼の手前、最初はカナダの市民団体と政府との攻防に色々と映画への共感を示すことができたが、終盤の重々しいイルカの(人間による)葬式が始まったあたりで、ついに堪えきれずに吹き出したしまったのだった。
 
 一度吹き出してしまうとすぐには止めることが出来ず、私はアレックスの冷ややかな視線を痛いくらいに感じながらも、ただ心の底から「ソーリー」と言いながら、へらへら笑うことしか出来なかった。そうでなくても私は反捕鯨映画『ザ・コーブ』にも爆笑してしまうという非常識で無慈悲な人間だった。ベジタリアンの友人が「動物たちには感情があるんだ」と言えば、またクスクスと笑って友情を失いかけたことも多々あるような薄情な人間である。
 だけど一方のアレックスはというと、"元ベジタリアン"という肩書を持つ、私とは全くの真逆の人間だった。彼は環境問題のために部屋のエアコンは常になるべく使わないよう心掛けていたし、室内温度15度でこの極寒のマディソンの冬を乗り切ることを最終目標としていた(だから、彼の家はいつも寒かった)。お気に入りのクリームにミンクの油が使われていると気付けば「知らなかったんだ...もう二度と買わない...」と言ってしょげた上に、「そのクリームのメーカーを教えて欲しい」と言う非情な私に向かって「教えたら絶対買うだろうから教えない!」と憤り、蚊に刺されても絶対に蚊を殺さないと発言する、そんな心優しい人間だったのである。
 
「ごめんね、私はなんというか...どうしても、動物にシンパシーを感じることが出来ない人間でして...」
 まき散らしてしまった笑いを回収すべく、この気まずい雰囲気をなんとか取り繕おうと私がそう言うと、アレックスはうつむきながら「別にいいよ」と言った。
「君が悪いんじゃない。ただ、君は知らないだけなんだから...」と。

 しかし確かに、部屋には再び気まずい雰囲気が立ち込めていた。自分の薄情さを何とか挽回しようと焦りつつ、だけど同時に私の脳裏には、その重苦しい空気は少し前にも体験したのではないかという既視感がよぎっていた...。そう、確か、少し前にもどこかの飲みの席で、アレックスとこうした問題を巡って、シリアスな雰囲気になったことがあったのである...。

"なぜ、肉を食べてはいけないと思うのか?"
"なぜ、捕鯨してはいけないのか?"
 あの時も私とアレックスは、とあるバーで飲みながらベジタリアンを巡ってそんな風に話し込み、私は初めて、彼から『種差別』という言葉を教えてもらったことがあったのだった

 種差別...それはすなわち、倫理学者ピーター・シンガーによって提唱されたヒト以外の生物への差別を意味する言葉であり、アレックスは「動物だから食べてもいい」という私の血も涙もない意見に対して真向からこの『種差別』という言葉を突きつけて反論したのだった。
 そしてあの時も、アレックスはその後「別にいいよ」と私に言った。
「君は彼らが感情的な生き物だって知らないだけだから」と。
 そして彼はこう続けたのだった。

「捕鯨は伝統だって言う人も居る。だけどその伝統が間違っている時だってある。アフリカでは2000年近くもの間、女性器切除の風習があり、麻酔無しの手術によって感染症や激しい痛みや後遺症、さらには死ぬケースがあった。この非人道的な行為によって実に多くのアフリカ女性が苦しんでいたけれど、それもまた長く行われていた風習であり文化と主張する人達が居た。そして彼らはそれが間違っていると知らなかった。...もちろんアメリカだってそう。少し前まで黒人を殺しても何の問題はなかった。黒人は人間だとみなされていなかった。だけど今、それらが間違っていたのだと世界が気付いた。彼らは知らなかっただけ。そういった認識は時間をかけて、少しずつ変わっていっていくものなんだ」...。

 この日もまた、イルカのドキュメンタリー映像を消す作業をしながら、アレックスは「別にいいよ」と悲しそうに言った。「それでも君をリスペクトしてることに変わりないから」と。
 バツの悪い空気の中で、私はもう笑わなかった。名誉挽回のために何を言ったらいいのかも分からなかったし、これは私にとって再び『種差別』について考えるチャンスかもしれないと思っていた。黒人が人間として扱われていなかった時代についても考えてみた。とすると、いつかイルカの大統領が生まれる日も来るのだろうか...。
 そんなことを考えながら半信半疑、私はこれまでの自分の認識が間違っていたのかもしれないという申し訳なさを感じ始めていた。アレックスは「君はただ、彼らが感情的だって知らないだけだから」と言う。そう、私はもしかすると、アレックスの言うように、まだイルカについて(あるいは動物たちについて)、何も知らないのかもしれない。私はそう思い始めていた。