ドラッグとはなにものなのか?

11月24日
 コロラドなどのいくつかの州を別にすれば、マリファナは今もアメリカの多くの州で使用を禁止されており、ここウィスコンシン州マディソンでも違法ドラッグの一つだった。だけど私の知る限り、アメリカ人の友人の多くがマリファナに関してとてもカジュアルだったし、その使用に難色を示す人でさえも「マリファナは煙草に比べると(中毒性が低いので)さほど危険ではない」と言うのを何度か聞いたことがあった。好きか嫌いかは別として、あるいは違法であるかどうかは別として、「ドラッグを使用したことがあるか?」と質問すると、たいていの友人達は「使用したことがある」と当たり前のように答えたし、夜のバーなどで飲んでいるとふと、どこからともなくマリファナの強い匂いが漂ってくることはマディソンであっても稀なことではなかった。
 だから、私がマリファナやその他のドラッグに興味を持ったのはごく自然な成り行きで、多くの友人達がそんな私に独自のドラッグとの関わりについて語ることにいささかも躊躇することはなく、「マディソンでもどこでも手に入るから、使いたかったら使わせてあげるよ」とのオファーを受けることさえあった。

 中でもテリーという男の子は、ドラッグにちょっと詳しい友人の一人だった。彼はワシントン州に住んでいたことがあり(ワシントン州ではマリファナは合法である)、そのころはほぼ毎日マリファナを眠る前にたしなむのが日課だったそうだが、そんな彼の実姉は昨今全米でブームを巻き起こしつつあるCBDオイルのビジネスに今年になって着手したという筋金入りだった。ちなみに、CBDというのはマリファナの成分に含まれるカンナビジオールという成分のことであり、不眠症や免疫システム、ホルモンバランスを整える効果があることから、2014年にコロラド州がマリファナの合法化に踏み切ったのをきっかけにして注目されるようになり、今ではオイル、コスメ、レストランやカフェのメニューでその名前を頻繁に見かけることがあった。
 だからマリファナには心身ともにリラックスする効果があるのだと言って違法ドラッグに対して肯定的な意見を述べるテリーは、ドラッグが全て危険であるわけではないと、あるときその高い医療的効果について教えてくれたことがあった。とりわけ数年前、テリーはひどいうつ病に悩まされていた時期があり、そんな折に南米のペルーで経験したという強烈な幻覚剤"アワヤスカ"による神秘体験は、その地獄のような日々から彼を救い出し、「これまでのクソみたいな人生を一変させた」のだと彼は語った。
 もちろんこの"アワヤスカ体験"はテリーに限ったことではなく、南米で古代よりシャーマンなどによって使われているアワヤスカをはじめとするさまざまなサイケデリックなドラッグが、その高い医療的効果の側面を期待され、うつ病やてんかんなどに苦しむ人の希望となって、世界中の人々を魅了しているのは有名な話だった。だけどこれまで全くドラッグ文化に精通してこなかった私としては、テリーの言うように、そうしたある種のドラッグを通じてその後心穏やかに、再び自分と世界を愛するようになるというポジティブな逸話などは目から鱗の落ちる話ばかりであって、だから私はこのごろ、いったいドラッグとは何者なのだろうかと考えるようになっていたのだった。

 そんなある日のことだった。
「くそ!あいつらコカインでもやってたんじゃないか?」
と、友人のアレックスが悪態をついたのは、とある飲み会の帰り道でのことだった。
「どうだろう、コカインをやっていたのかな。匂いはしなかったけど...でもやってた可能性はあるな...」
 そう答えたのは、これまたドラッグに少しだけ詳しいイーサンという青年である。イーサンもアレックスも、その日、初めて知り合いになったエドとマノというカップルが、その飲みの席で突如ハイテンションになったことについて話していた。
 エドというのは、かつてホームレスをしていたという壮絶なキャリアを持つ若い男の子で、マノはそんなエドを誇らしげに見つめる一見すると普通の、可愛らしい女の子だった。二人とも最初こそとても好感の持てる若者達だったのだが、夜も更け、お酒が進んでいくうちに、マノはトイレから戻る度にどんどん陽気になり、どちらかというとその陽気さは煩わしさを伴って、時々冗談ながらも挑発的に近距離で汚い言葉を吐いたり、妙な踊りを踊るようになっていった。その一方、エドはマノとは逆で動きが鈍く、ふんぞり返ってよく分からないことを淡々と喋り、一人でくだを巻いてはビールを煽るようになっていたのだった。

 「ドラッグをやったらあんな風になるの?」
 この夜、ハイとダウンになったマノとエドの言動を振り返りながら私がそう尋ねると、イーサンは少しだけ考えて、「人によるけど、その可能性は高いね」と言った。「もちろん、酒に酔っていただけかもしれないけど...」と。
 だけど、アレックスもイーサンも、そして私でさえも、その日のあのカップルの常軌を逸したテンションに心穏やかではなく、アレックスは帰る道すがら、やっぱり「あの子はトイレで薬をやったに違いない」と何度も言った。
 とりわけマノのテンションの高さは、私達のテンションから圧倒的にずれていたし、私も思い返すと何度かマノに至近距離で「ファッキン・ナンバーワン!」と叫ばれることがあった。もちろんマノもエドもいい人で、陽気だった。だけどその笑顔の中にはどこか私達を怯えさせる狂気をはらんでいて、その二人が放つ圧倒的な高揚感は何か別のところで生み出されているもののようだった。
 もちろんそれがドラッグだったのかどうかは、誰にも分からなかった。二人はただ単純に酔っぱらっていただけかもしれなかった。だけど大切なことは、そこに私たちを置き去りにする圧倒的な違和感があったということであり、そしてその違和感こそがアレックスやイーサンに「ドラッグを使用したのではないか?」と言わしめたことだったのである。

 近年、アメリカではゆるやかにドラッグへの認識が変わりつつあるようだった。そしてその流れはここマディソンでも時々感じることが出来た。ネガティブな意見もあれば、ポジティブな意見もあった。テリーのように治療として必要とするケースも数えられないほどあった。CBDブームや合法化へ向けての活動もさかんに行われていたし、治療や神秘体験といったキーワードを通じて、私自身のドラッグへの認識も少なからず日本に居たときに比べると変化したように感じることもよくあった。
 だけどこの日、エドとマノのテンションに違和感を覚えながら、私はこの違和感こそが、ドラッグに注意深くあらねばならない所以なのではないかと思っていた。手放しで得られる高揚感や多幸感に現実の鏡を照らし合わせるとき、私達の中に一抹の不信感が芽生えたのだとしたら、それは決して見過ごしてはいけないものであり、それこそがドラッグの怖さなのだと、改めて私はそう感じていたのだった。