信仰から遠く離れて

4月11日。
 「これはとてもユニークね」
 カンバセーションパートナーのニコールが、手のひらサイズのカードをしげしげと眺めながら言った。カードの表には白髪の優しげな老人の顔写真がプリントされており、『私の人生をあなたの手の中に』という聖書から引用された言葉が添えられている。裏にはこの老人の経歴とこれまでの人生がコンパクトにまとめられて印字されていた。一見、ちょっと手の込んだ大きめの名刺のようにも思えるが、名刺と決定的に違うのはこの老人がすでに亡くなっており、このカードをその奥さんから受け取ったという点だった。
 
 それはニコールに会う数時間前の出来事だった。私はこの日、中国人の友人フィミンさんに誘われ、ダウンタウンにある教会のインターナショナルランチに参加していた。
 マディソンに限らないのだろうが、あらゆる教会では定期的に様々な無料のイベントが開催され、無料でご飯を食べるついでに英会話が出来たり、友達を見つけたりする機会があった。季節ごとのイベントだけではなく教会主催で毎週英語を勉強できる無料のクラスもあるので、マディソンのアジア系の駐在妻たちの多くがこうした教会の無料クラスに通うことがあり、友人のフィミンさんもまたこの教会のボランティアによるESLクラスの生徒だったので、ある日私をこのランチに誘ってくれたのである。

 教会に着き、ほどなくしてランチが始まると、キャロルという白人の老婦人が私達のいる席についた。各テーブルには必ず一人教会関係者が座り、異国の客人達の奉仕をするのがこうしたイベントの決まりだった。
「あの人、最近旦那さんが死んだんですよ!」
 フィミンさんは日本語がぺらぺらだったので、キャロルの姿をとらえるやいなやすばやく日本語で私にそう耳打ちをしたが、キャロルはそんな私たちに挨拶をするよりも前に、手に持っていた大量の例のカードを一枚ずつ手渡すと、「主人がこの教会に来た頃はここも小さかったんだけど、彼が来て大きくなったのよ」と、物憂げに口を開いた。手渡されたカードの表で朗らかに微笑んでいる白髪の老人こそ、彼女の亡くなった夫であり、この教会の司祭であった人物だったのである。

「アイムソーリーと言えばいいんですよね?」
 英語の苦手なフィミンさんは私に日本語で確認をしてから「アイムソーリー」と恐る恐る言い、それはインターナショナルランチと言うにはなんともしめやかな幕開けとなった。
 私はキャロルも初対面なら、こういうカード(メモリアルカードと言うらしい)を遺族から貰うのも初めての体験だった。知り合いではないからと捨て置くのも気が咎めるので、このカードは大切に鞄にしまい込んで持ち帰ったが、カンバセーションパートナーのニコール曰く「こういうサイズのカードはブックマークに便利」とのことだった。

 ところで、この湿っぽくてユニークなランチタイムの経験を入れると、私がこうした教会の主催する無料食事イベントに参加したのは前回の滞在期間を含めても、五回にも満たなかった。というのも、私はこうしたイベントの最後にある宗教的な儀式(讃美歌を歌ったり聖書の勉強をしたり)が何よりも苦手だったからである。信仰心のかけらもない私にとって、「無料ご飯」や「無料学習」の背後にちらつく「宗教」という圧倒的未知の存在に、どことなく気おくれしてしまうところがあった。

 最近時々参加するようになったESLの無料クラスにも、やはり一週間のうちに何度かバイブルのクラスがあった。もちろん、参加は自由である。必ずそのクラスに出席しなければいけないということではなかった。ただ一度、「これだけ無料ESLのクラスにお世話になっているのだから...」と思い、バイブルのクラスに参加してみたことがあったが、この日のテーマは「科学とキリスト教信仰はどう折り合いを付けるか?」という難しいものだった。そして「この世の全ては神が作ったものなのです」と、普段英語を教えてくれる先生から涼しい顔で教えられるのは、やはり私にとってある種ショックなものでもあった。
 同じ教会のESLクラスに通っているメンディという中国人の友人もまた、こうしたバイブルスタディが苦手な女の子だった。だから彼女は「自分の考えをまだ整理できていないのだけど...」と言った上で、「神という概念は古いんじゃないかな...」と終わってから私にメールを送ってくれたことがあった。今はやっぱり神ではなくて科学の時代なのではないか、と。

 だから、私はこの日のインターナショナルランチの後、このユニークなメモリアルカードを見せるついでに、私が難しいと感じている信仰という概念について率直にニコールに話をしてみた。ニコールは普段、私にほとんどそうした宗教的な話題をすることはないが、実生活では教会で聖書を教える仕事に就いている宗教家である。
「そうね...」
 ニコールは私の話を聞いて少し考えると、「キリスト教信者の多くは科学が嫌いだよね」と言って軽く笑った。だけど彼女の見解では、神と言う存在が私達に"脳を与え"、そこで私達人間は科学というものを通じて世界を理解する方法を得たのだという。
「神の存在を信じてるの?」
 失礼とは思いながらも私がそう尋ねると、ニコールは「信じてるし、キリストの存在も信じてるわよ」と当たり前のように答えた。

 だけど、目に見えない存在を信じるというのは、いったいどういうことなのだろうか?私は疑問だった。
 日本ではキリスト教系の大学に入り、大学時代にはクリスマス礼拝をし、教会で神に愛を誓って結婚した私であったが、結局そうした一連の出来事は信仰心とは無関係に、私にとってはどこまでも「イベント」の域を出ることはなかった。そしてそれは今、マディソンの教会でランチを食べ、讃美歌を歌ったとしても同じことだったのである。

 この日、インターナショナルランチのタダ飯にありついたアジア人達は、親切な信者に導かれてぞろぞろと食後の讃美歌を歌うべく別部屋へと収容されていった。こうしたイベントの最後に必ず目にする光景である。きちんと讃美歌を歌える人などほとんどいなかった。そんな信仰と無信仰の交流の間で、しかし私つい、そのすべてをシュールだと感じてしまうのだった。