年の瀬に

12月29日。
 始まってしまうと、フードパントリーでのボランティアの仕事は想像したよりもはるかに簡単な仕事だった。なぜなら私が奉仕する木曜日のパントリーは、シニア向けの配給日だったため、他の配給日とは少しだけやり方が違い、配給物資の集められた倉庫が開放されるようになっていたからである。だから、普段はスタッフが一人ひとりとコミュニケーションを取りながら物資を手渡して行く仕事のはずが、木曜日のパントリーでは、シニアの受給者たちが勝手気ままに倉庫に入って必要な物資を取っていくようなルールになっており、他の曜日に比べると仕事量が圧倒的に少なかったのである。
 そんなフードパントリーで私が一緒に働くことになったのは、バーブというコミュニティセンターの近くに住むボランティアの老婦人と、インターンとして働いている学生のアレックスという若い男の子だった。だけど老人たちは時間になったらぞろぞろと倉庫に入ってきては自分たちでせっせと物資を取っていくので、この小さな倉庫にスタッフ三人はいささか多いようにも思えた。幸か不幸か、アレックスは若いのに働き者だったし、彼は一度に何人もの老人とコミュニケーションを取って精力的に活躍したので、英語のあまり話せない新人の私が出来たことと言えば、狭い通路の中で縦横無尽に歩き回る老人たちをひたすら華麗によけることと、アジア人を珍しがる老人たちに「セイコです。日本人です」と何度か名乗ったことくらいだった。
 
バーブという老婦人のスタッフはもう半年もこのシニアのパントリーでボランティアをしており、出入りする老人たちのことを熟知していた。だから彼女は時折私に「あの人は糖尿病よ」とか「あの人はいつも帰り際にサインするから、帰るときは注意して」と耳打ちしては、コーヒーをすすりながら注意深く受給者たちを観察していた。ただ、バーブはピーナッツバターの数に関して少しうるさく、初日だけでピーナッツバターの数が減っていることに四度も怒りをあらわにし、「泥棒がいる」とまで言う過激な面があった。
 そんな厳しいバーブのこともフォローしながら、学生のアレックスはアジア人の十歳も年上の私にとても気を使ってくれる優しい青年だった。彼はいつも私が聞き取りやすいようゆっくりと話してくれ、バーブが早口で何か言う度に「今の分かった?」と確認しては、「つまり、バーブは三人子供がいるんだけど、三人目は女の子だと思って居たのに、男の子だったんだよ」と、再度分かりやすい英語にかみ砕いて話した。それからバーブがピーナッツバターを独り占めした犯人について言及すれば「誰かが多く取ってしまうと、もっと多く必要とする家族向けのパントリーの日に、その家族に渡らないということが起るんだよ」とバーブの言ったこと以上の説明をし、ついでに「ところでチキンとビーフの違いは分かる?」と私に尋ねるのだった(分からないように見えたのだろうか...)。
 だけどこのバーブの「ピーナッツバター問題」は、初日のうちに、いつの間にか「肉問題」へと発展しており、あるスタッフから「一人一つと決められている肉を二つ以上鞄にしのばせた人物を見た」と言うタレこみによって、急きょバーブ、アレックス、タレこみスタッフによる緊急会議が物々しく開催され、それは初日の私にとってちょっとスリリングな時間でもあった。

「次回からは受給者たちが何を取ったか確認するという方策に変わったよ」
アレックスは緊急会議中に「どうせアレックスが後から教えてくれるだろう」と思ってぼんやりしていた私に、やっぱりきちんとかみ砕いて報告するのを怠らなかった。そして「誰かが独り占めしたら違う曜日でもっと物資を必要とする家族に行き届かなくなるんだよ」と、「ピーナッツバター問題」の時にも聞いたような内容を再び説明すると、いかに一人でも多くの恵まれない人に限られた物資を平等に分け与えることが大切かということを私に教えてくれたのだった。

「聞いたわよ!フードパントリーの仕事、すごくよくやってくれてるんだってね!!」

シンシアというコミュニティセンターのスタッフからそう声をかけられたのは、そんな初日から二週間ほど経った頃、年末のイレギュラーなパントリー受給日に受給者として出向いたときのことだった。もともとシンシアに「ボランティアで働きたい」と相談し、「自分を変えたい」だの「挑戦したい」だのと恥ずかしいことを言った私だったのだが、初日は基本的に老人をよけているだけだった上に、二回目は車のパンクが原因で新人のくせに大幅に遅刻して仕事に行った私である。まだ二回しか働いていないとはいえ、どう考えても役に立ってないと思われたのに、シンシアから「よく頑張ってくれてありがとう」と言われると、私は思わず恥ずかしさで顔を赤らめずにはいられなかった。
「自分なりに頑張ってます!」
すっかり舞い上がりながら、私はまたついつい張り切ったことを口走っていた。すると満足そうに頷きながら、シンシアは「そういえば日本語を教えてよ。ハンバーガーって日本語でなんて言うの?」と言った。もともとシンシアは父親が日本に仕事で住んでおり、私に日本語を教えて欲しいと言ったことがあったのである。
少し考えながら、私はそんな彼女に向かって「HA・N・BA・A・GA・A」と言った。するとすかさずシンシアは「一緒じゃん!」と、お腹を抱えて笑った。
「じゃあバイバイは?」
「BA・I・BA・I」
わざと私がそう教えると、シンシアはやっぱりすごく面白がって「それも一緒かい!」と呵々大笑した。あまりにもシンシアが笑ってくれるので、私がついでに「トマトはTO・MA・TO」と、配給物資のトマト缶を指さしながら調子に乗って言い添えると、シンシアは「文化というのは混ざっていくとは知っていたけど、文化の融合がここまで進んでるとは思わなかったわ!」ととても楽しそうに言った。

そんなシンシアと笑顔で別れると、私はセンターを出て、両手いっぱいの配給物資を持って車に乗り込んだ。コミュニティセンターから私の家までは車で十分ほどの距離である。今年、マディソンは12月末とは思えないほど暖かかった。来月になればもう少し寒くなるのだろうか?そんなことを考えていると、いつの間にか来年こそはもう少しボランティアで役に立てるようになろうという考えが沸き起こっていた。それはごく自然な思いだった。それからふと、シンプルに、私はあのコミュニティセンターがとても好きだと思ったのだった。