二足の草鞋

12月10日
 11月に入り、マディソンもいよいよ極寒の季節を迎えようとしていた頃、ちょっとした出来事があった。後から思うと、それは自分自身が「貧困生活」を送っているという恥ずかしさからくる嫉妬に起因するようなことだったのかもしれないが、それでもそれは人間関係のズレや居心地の悪さが付きまとい、なんとなく心のささくれとなって自分の心の中に沈殿するような出来事だった。例えばそれは、自分自身を査定された場合に、「身の回り品」や「パートナーの収入」でしか評価されないとなると、どう考えても、私は人より分が悪いという事実による、いたたまれなさや悔しさのようなものだったのである。

 そんなちょっとしたことがあった11月のある日の夕方のことだった。くさくさしていた私の目に、ふと「ボランティア」の文字が飛び込んできたことがあった。週に二度ほど訪れるコミュニティセンターで、何やら「ボランティア」を募集していると書いてあるのである。
 ボランティア...。

 私はビザの関係上、就労することが出来なかった。そのためアメリカで血を売ることもできない呪われた身分だった。だけど、お金を稼ぐことは出来なくても、働くことは出来るのではないか...。これまでの人生でボランティアに参加したことなど無かったけれど、何故だかこの日、私は途方もなくこの「ボランティア」の文字に心惹かれ、道が開けたような、晴れ晴れしい気持ちになるのを感じていた。自分の価値を底上げしたかったからか、それとも人との比較によって沸き起こってしまったさもしい気持ちをかき消したかったのか、どちらか分からないけれど、私はこうしてその日、天啓を受けたかのごとく、すぐにコミュニティセンターのボランティアについて問い合わせをするに至ったのだった。

 それは週に二度ほど出入りしているコミュニティセンターだった。家から車で南へ十分ほどの距離にあるそこへ、私は毎週、恵まれない人に配給される様々な物資を取りに足繁く通っていた。また、金曜日には子供のために無料で児童館のようなものが開放されるので、そこも利用しており、そのうちにスタッフとはいつの間にか顔見知りになって、あるときはそのスタッフから息子に大量の古くなった衣類をプレゼントされるということもあり、かなり居心地の良いコミュニティセンターだったのである。
 
「ボランティアに興味があります」
 私はさっそく物資を受け取りに行った帰り、顔見知りのスタッフに問い合わせてみた。するとすぐに近くに居たシンシアという黒人女性を紹介され、シンシアからウェブ上でエントリーするようにと教えられた。
 どんなボランティアをするのか分からなかったけれど、私はおそらくこのコミュニティセンターで行われるシニア向けの「炊き出し」の配膳や調理のボランティアだろうと想像し、その日中にウェブ上でのエントリーを完了させた。シンシアや顔見知りのスタッフには「どうにか社会にコミットしたい」やら「今の自分を変えたい」などと熱いことを言ってボランティアに対する熱意も口頭で伝えた。あとはシンシアからの連絡を待つだけである。

 ところが、エントリーしたものの、待てど暮らせどシンシアからは一向に返事が来ることがなかった。二週間ほど待った後、しびれを切らしてシンシアに再度問い合わせると、シンシアは「モリーという女性から連絡があるはずだ」と言う。それからさらに一週間、私は我慢強くモリーからの連絡を待ったが、やはりモリーからも連絡はないのである。シンシアにもう一度問い合わせると、今度は「ビッキーから連絡がある」と言う。だけど、やっぱりビッキーからは一向に連絡は来ない。
 
 ああ、そうだ...これがアメリカ式仕事術なのだ...。私はここで初めて、アパートのオーナーがこの夏、いつまでたってもアパートのインターフォンの設定をしてくれなかったことを思い出していた。彼女はいつも「今日の午後する」と言って、したためしがなかった(結局、インターフォンの設定は二か月以上もかかった)。シンシアだって「今日の午後、確認してメールする」と言って、一度もメールをくれたことがなかった。保険会社への電話も全然つながらないとぼやいていた友達も居た。「フードシェア」というシステムを利用するために担当者へメールを送った時も、四度目のメールでやっと返事が来たことがあった。日本では考えられないが、とにかく、アメリカでは何度も何度も根気強く問い合わせをしなければ、物事が動かないことが頻繁にあったのである。
 そうして、「ボランティアをしよう」と思いついたあの11月の日から、無駄にひと月が経とうとしていた。12月に入り、もしかして自分はボランティアも出来ない身分だったのか?と、底知れない疑心暗鬼と自信喪失に日々さいなまれるようになっていた頃である。さすがに「何度もボランティアの問い合わせをするアジア人」と認識されたのか、シンシアでもモリーでもビッキーでもないスタッフからやっと、「あなたのペーパーワーク、通過しました」とのメールが私のもとに届けられたのだった。

「来週の木曜日から、フードパントリーで一緒に働きましょう」
 メールにはそう書かれてあった。
 "フードパントリー"
 それは、私にはとても馴染みのある言葉だった。というのも、「フードパントリー」こそが、火曜日の夜に私自身が足繁く通っている「物資配給」の制度の正式名称だったからである。とすると、それは私が思い描いていたような、老人に食事を配膳したり調理したりする「給食のおばさん」のような仕事ではないということを意味していた。むしろ、「フードパントリー」のスタッフを見ていると、食品に関する語彙力や、受給者との高いコミュニケーションスキルが必要とされるようなちょっと難しそうな仕事だった。

「ボランティアというのは、フードパントリーのことですか?」
 とんちんかんなメールを返すと、すぐに「イエス」、と困惑気味の返事が返ってきた。確かに、よくよく応募したページを見ると、ボランティアはフードパントリーのスタッフと書かれてある。だけど、私はもともと火曜日の需給日に毎週出没しているフードパントリーのヘビーユーザーである。となると、図らずも私は、火曜日には物資を受け取りに行くパントリーユーザーであり、翻って木曜日には、物資を分け与えるスタッフ側になる、という訳の分からないことが起るわけである。

 白井君はボランティアが決まったと報告する私に、「良かったね」と顔をほころばせながら、だけど不思議そうにこう尋ねた。
「それがずっとやりたかった仕事なんだね?」
 そう聞かれると、この一か月、「アメリカ人は仕事が遅い!」とぼやきながら、何度も何度もコミュニティセンターのスタッフにボランティアの問い合わせをしていた自分の姿が蘇ってくる。あれだけアメリカ人をせっついて手に入れた仕事である。今更、「思っていた給食のおばさんみたいな仕事じゃなかったので辞めます」とは言えるはずはないのである...。

 かくして私は、火曜日には、恵まれない"フードパントリーユーザー"として物資を受け取りに行き、木曜日には物資の受け渡し側に回ってスタッフとして奉仕するという二足の草鞋を履きこなしながら、生まれて初めて「ボランティア」という職を、ここマディソンで手に入れたのだった。