ボードウェルが照らした

10月20日
齢七十を過ぎた今でも、デービッド・ボードウェルは現役さながら、世界中で活躍を続ける映画理論家だった。長年ウィスコンシン大学で教鞭を取ってきた彼は、コミュニケーションアーツという学部の映画学の分野に大きく貢献した人物でもあり、現在もウィスコンシン大学の映画学の授業では、ボードウェルの本が教科書として扱われることがよくあった。去年までコミュニケーションアーツで学部長を務め、前回の滞在で私に聴講の許しをくれていたカプレイ教授もまた、かつてはそのボードウェルの生徒だった人物である。
だから、私がいつもマディソンに戻ってきて良かったと思うことは、このウィスコンシン大学の「映画を学ぶ」ことへの素晴らしい環境だった。カプレイ教授はもう退官していたけれど、カプレイ教授の紹介で私は相変わらず、週に二日、九月から始まった映画学の講義へ聴講に出かけていたし、公共図書館にあるお宝のような映画のDVDを借りてきて観ることにも日々忙しかった。
大学内にある映画館ではやっぱり毎週あらゆる映画が無料上映されていて、中には全米公開直前のものや公開後一週間しか経っていないような新作映画まで、誰でも無料で観ることが出来た。日本だと単館の小さな映画館での上映を待つか、DVDを買って観るしかない、あるいは観ること自体が不可能なものなども、ここマディソンに居る限りいくらでも無料で観る機会があったので、映画が好きな私にとって、マディソンはこの上ないパラダイスだったのである。

だけどその一方で、現在子育て中の身としては、そんな大好きな映画に費やす時間を捻出することが大変な仕事であるのも事実だった。講義に行くために子供を預けるとなると、朝からそのための準備に神経をとがらせることもあり、授業では毎週課題映画があるので、それを図書館で事前に借りてきて夜な夜な家で鑑賞することもなかなかハードなことだった。
秋から新しく聴講に行くようになった講義は、ベン・シンガー教授というカプレイ教授よりはいくらか若い、素晴らしい先生だったのだが、カプレイ教授の時のような小規模な授業ではなかったので、私は日々の疲れとあいまって、なんとなくこの授業への不満を抱えてしまうことも少なくなかった。その上幼い息子は、預ける度に大泣きして私の首にしがみついてくるので、その姿を毎週見るのも辛く、「ここまで大変な思いをして映画を学ぶ必要があるのだろうか?」という問いがゆっくりと頭をもたげてくることがあり、そうなると、映画を観ること自体が苦しいという思いに変わって、ついにはしばらく映画を観たくもない、授業も行きたくないという気になり、子供を預けるところまで行ったのにバスに乗らなかったということが一度だけ起こったのだった。

「せっかく聴講の機会を得た授業をむざむざ棒に振ってしまい、いい聴講生ではなくなってしまったかもしれない...」一度の挫折とはいえ、そんな風なことがあると、あとはもうなんだかやさぐれながら九月が終わり、悶々としながら日々を送っていたのだが、そんな十月初旬のある日、私は久しぶりにお世話になったカプレイ教授から、一通のメールを受け取ったのだった。

それは、その次の週に大学で行われるシンポジウムに参加するので、その日に時間があればお茶でも飲まないか?というカプレイ教授からの嬉しいお誘いのメールだった。もちろん私は小躍りしながら指定された日にコーヒーショップへと出向いたが、嬉しいことはそれだけにとどまらなかった。というのも、カプレイ教授はそうして一年三か月ぶりに再会した私に会うなり、「コミュニケーションアーツの仲間で月に二、三度行われる映画のシンポジウムに参加したらいい」という、素敵な提案をしてくれたからである。
「確か、来週はデービッド・ボードウェルの回だったはずだよ!」
そう言うと、カプレイ教授はまた、そのシンポジウムのメーリングリストに私を加えてもいいとまで言ってくれたので、私はすっかり有頂天になり、次の週、またいそいそとウィスコンシン大学のコミュニケーションアーツの学部へと赴くと、そこで生まれて初めて、この世界的に有名な映画理論家であるデービッド・ボードウェルの講義を聞くという機会を得たのだった。

素晴らしい講義だった。『ジオメトリーとしての映画』と表されたそれは、多角的な語り口で書かれたフォークナーなどの「文学作品」と照らし合わせ、そうした文学を原作として作られた映画が、どのような表現方法で多角的な構造として表現されているか、ということを目まぐるしく検証していくとてもスリリングな内容であり、またその面白さもさることながら、私は初めて体験するボードウェルの、その膨大な知識量と発想力、それからあふれ出るエネルギーにただただ圧倒され続けていたからである。
いったい、この人のこのパワーはどこから来るのだろうか?
「ボードウェルは退官して何年も経つのに、本を出版し続けているんだよ」そうカプレイ教授は言ったが、その言葉の通り、ボードウェルはとてつもなく精力的だった。彼はあらゆる映画、あらゆる文学を網羅していたし、その体中からほとばしる映画への情熱は熱く、若々しく、そして眩しかったので、私はその眩しい光に照らされて、思わず自分の存在の小ささが浮き彫りになるような感覚を覚えずにはいられなかった。会場に居る誰もが、ボードウェルの発表に関心を寄せているのが分かったし、それほどまでに、ボードウェルは圧倒的な知的存在感を放っていたのである。

「ボードウェルはいつも新しいものを次々に発表するんだよ」
講義が終わり、カプレイ教授は無邪気にそう言ったが、私はなんだか分からない焦燥感に駆られながら、先月末に自分が一度でも「映画を学ぶ」ことへの意欲を失っていたことを恥じ、反省せずにはいられなかった。
「面白かったです。でも、私はもっともっと勉強しないといけないと思いました...」
私がそう言うと、カプレイ教授は面白そうに私を振り返って笑った。
会場の前の方では、せわしなくボードウェルが知人たちと盛り上がっているのが見えた。とても楽しそうだった。だけどそんな心地よい興奮の残る会場をあとにしながら、私はこの日、自分の中で消えかかっていた映画への情熱が再び、静かに舞い戻ってくるのを感じていたのだった。