アメリカンムスリムについて考える

10月8日 
「あれ!来たんだね」
アハメが私を呼びとめた。ダリア・ムガヘッドというイスラム教徒の女性研究者による無料講演会の会場でのことである。ダリア・ムガヘッドは、ISPUというワシントンにある研究機構の研究者で、中東のイスラム教世界やアメリカにおけるイスラム教徒(アメリカンムスリム)などを中心に幅広いリサーチをし、オバマ大統領時には大統領のアドバイザーを務めたり、講義無料配信サイトTEDで講演したりと、近年目覚ましい活躍をしている女性著名人である。ウィスコンシン大学では時々こうした面白そうな無料の講義が行われるのだが、私はひょんなことからこのイスラム社会についての講義に興味を惹かれ、先週末の日曜日、午後に一人でその講義の行われる会場に来ていたのである。
中東社会やイスラム教に詳しいわけではなく、ただ面白そうだし英語の勉強になると思って紛れ込んだのだが、やはり会場には大勢のアラブ人と少しの白人がいるだけで、アジア人はほとんど来ていなかった。なんとなく「部外者感」のある中で、ヒジャブをまとった美しいアラブ人女性たちに促されるままに受付を済ませると、思いがけずコーランに関する分厚い本を無料でもらい、それからクッキーやらコーヒーやらのサービスを受けたので、私はなんだかすっかり嬉しくなって会場の中をウキウキと歩き回っていたのだが、そんな時にアハメが私を呼びとめたのである。
「一人で来たの?」とアハメが言うので、私はそうだと頷くと、アハメは従兄弟と来たのだと言って、ちらりと後ろを振り返った。見ると、アハメの斜め後ろにとびきり可愛い顔の男の子がニコニコとこちらを見て座っていた。アハメが彼の隣に座ったらいい、と勧めてくれたので、言われるままに私はアハメの真後ろの、その美しい男の子の隣に腰を据えた。会場の前から三番目のど真ん中である。しかも後から気付いたが、最前列に座るダリア・ムガヘッドの父親の二つ後ろの席だった。その上、アハメはちょうどその父親と話しに来ていたダリア・ムガヘッドを指さして「彼女だよ」と言って振り返ると、私をそのままダリア・ムガヘッドに紹介し、講義前の忙しい彼女とのツーショット写真まで撮ってくれたのだった。
私は舞い上がってしまい「ダリア・ムガヘッドと知り合いなの?」と勢いよくアハメに聞いたが、アハメは「知らない」とあっさりと答えた。そして「彼女はとても有名な人なんだよ。僕はもう何度も彼女の講義には行っているよ」と得意気に言うと、「あ、彼女の父親とは知り合いだよ」と付け加えたので、私は少しだけ安心した。なんでも、ダリア・ムガヘッドの父親はウィスコンシン大学の教授だそうで、アハメはマディソンにあるモスクで彼と知り合いになったのだと言う。それから講義が始まると、アハメはすぐさま自身の携帯電話を取り出し、そのまま講義を録音し始め、ときおり映し出されるパネルの写真を熱心に撮り始めたのだから、私はその勤勉ぶりにも驚かされてしまった。ただでさえアハメは宿題に追われる学生生活を送っているのに、休日にわざわざ従兄弟を連れて講演会に来て、記録までしているのである。
「分からないことがあれば、なんでも従兄弟に聞いたらいい」ともアハメは言ってくれたので、私はダリア・ムガヘッドが登場する前に壇上に上がった人のことについて、何度か隣に座るアハメの従兄弟に質問したのだが、彼はそんな私の質問にすべて、申し訳なさそうにはにかみながら「知らない」と答えると、とびきりチャーミングに笑った。

そうして始まった講義は、基本的にはアメリカに住むイスラム教徒たちに関する彼女が行った膨大なリサーチからはじき出されたアメリカンムスリムへの「差別」や「偏見」に対する訴えのようなものがメインだった。私はこの講義で初めて「イスラモフォビア」という言葉を知ったのだが、それはイスラム教徒が危険だと思い込んだ「イスラム恐怖症」のことを意味し、そうしたイスラモフォビアが暴力を産むのだとダリア・ムガヘッドは強調した。
「イスラム教徒を名乗ってテロを起こした人を本当にイスラム教徒だったと思うか?」あるいは「キリスト教徒を名乗ってテロを起こした人を本当にキリスト教徒だと思うか?」という二つのアンケート調査では、圧倒的にイスラム教徒を名乗って起こしたテロを「本当にイスラム教徒だと思う」と答えた人が多いという結果もパネルに映し出されたし、ヒジャブを付ける女性への偏見に対して、ムスリム女性たちの意識調査のデータをもとに、彼女たちは決して強制されてヒジャブを付けているわけではなく、信仰心とアイデンティティからヒジャブを付けるのだと、自身のヒジャブを手で整えながらダリア・ムガヘッドは結論付けた。
「イスラム教徒たちは決して危険ではない」そんな当たり前のようなことを、さまざまなデータや調査、彼らを取り巻く環境のリサーチなどを通じて言葉に置き換えて行くダリア・ムガヘッドをアハメの背中越しに見ながら、私は昔、「マディソンではそんなに差別を受けないけれど、フロリダに行ったときはすごく差別をされたわよ」とサウジアラビア人のダラルが言っていたのを思い出していた。

ダリア・ムガヘッドの白熱した講義が終わり、その後は質疑応答の時間に移った。可愛い中学生くらいのアラブ人の男の子がダリア・ムガヘッドに「神様は男の人ですか?女の人ですか?」と聞く微笑ましいシーンもあったのだが、私はそろそろ帰らなくてはいけなかったのでアハメとその従兄弟に挨拶をすると、そっと会場を後にした。
会場の外に出ると、エントランスには色とりどりのヒジャブをつけた美しい女性たちが輪になってお喋りをしていた。そんな華やかな女性たちを追い越しながら、ふと、私はアハメももしかしたら差別や偏見にさらされて、祖国では感じることのない嫌な思いをしたことがあるのかもしれないのだな、と考えていた。ダイヤモンドと金の会社を経営する家の子供であり、何不自由なく天真爛漫に育った大金持ちのアハメだが、祖国を出さえしなければ味わうことのなかった思いもたくさん経験しているのかもしれない...。いつも優しくてご機嫌なアハメのことを思いながら、私はこの日、人一倍熱心に講義に耳を傾けているアハメの真面目な後ろ姿が、目に焼き付いて離れなかったのだった。