変わらないもの

8月19日
二度目となるマディソンでは、前回暮らしたアパートと同じ通りに面したクラシックなアパートに居を構えることになった。内装も前のアパートによく似た古めかしいアパートである。がらんとした部屋には、日本から持ってきたトランクが三つと、事前に送っておいた段ボール箱が三つ入り、それからすぐにマディソンに暮らしている日本人の友人に、この夏に帰国した日本人家族から譲り受けた家具などを運び込んでもらった。もちろんリビングにダイニングテーブルはないので、ご飯は段ボール箱をひっくり返したものをテーブルがわりにして床で食べるしかなかったけれど、二度目ともなると、引っ越しのいろいろなことが想定の範囲内だった。
着いてすぐの買い出しも、どこで何を買ったらいいか分かりすぎるほど分かっていた。だいたい目をつぶっていてもたどり着けたのではないかと思うほど、マディソンは何も変わっていなかった。もちろん、アパートの前のビルが大がかりな解体工事をしていたり、近くのモールにお洒落なアップルストアが出来、マディソン中にご当地キャラクターであるバッキー君の巨大な置物が出現していたりと、細かな変化はあった。だけど、基本的にマディソンはマディソンのままだった。道の広さだったり、ゆったりとした車の流れだったり、道を歩く人々の優しい微笑みは相も変わらず健在していたのである。
 
あまりにも何も変わらないので、私はすぐにマディソンの日常に溶け込むことが出来たが、着いて早々に、語学学校時代の旧友達からウェルカムバックのメールをもらったことも心強いことの一つだった。タイ人のパニカはさっそく会おうと言ってくれたので、私は時差ボケも修正できぬまま、到着三日目には近所に住むパニカの家に出向いてゴーヤチャンプルのようなタイ料理をご馳走になった。それから大好きなサウジアラビア人のアハメも、渡米二日目の夜に「明日の夜にディナーでもどう?」というメールを送ってきてくれた。極貧のためディナーになど出かけられる身分ではない私は、アハメのこの誘いに「ちょっと引っ越したばかりで忙しい...」と言って断りを入れたが、優しいアハメは「それなら何か手伝えることはない?」と嬉しい申し出をしてくれ、すぐにその週末、私はアハメに車を出してもらっていくつか用事を済ませることになった。

土曜日。アハメは前日に約束した時間よりも一時間半遅れて、陽気に私のアパートまで車で迎えに来てくれた。もちろん、アラブ人の習性であるこの大幅な遅刻も想定内だったので、私はむしろ予想を裏切らなかったアハメに感動すらした。いや、そんなことよりも、久方ぶりに見るアハメがすっかり太り、貫禄のあるアラブ人になっていたことの方が驚きだった。喋り方もなんだかアメリカンガイである。車を降りる時も、私の座席のドアを開けてくれるという成長ぶりである。三年前、出会った頃の舌足らずで出来の悪い十代の可愛いアハメは影も形もなかった。これが祖国を離れ、異国で三年間揉まれた成果なのだろうか?確かまだ二十二歳かそこらのはずだったような...と思いながら、私は人知れず、少しだけ後退したように見えるアハメの額の生え際にも着目せずにはいられなかった。

だけど、そんな風に成長したアハメが示してくれる献身ぶりにも、私はまた驚きと心からの感謝を抱かずにはいられなかった。マディソンでは車が無いと何かと不便である。来たばかりで車の購入まで至っていない私たちにとって、車を出してくれる人というのはアッラーよりも上の存在に思えるのである。お昼前から夕方まで、アハメはご機嫌に車を飛ばしてマディソン中をあっちへ行きこっちへ行きし、私たちの用事に根気強く付き合ってくれた。一つ用事が終わると「次はどこへ行ったらいいんだい?」と聞くので、私たちは神のようなアハメにすっかり甘え、主要な用事をいくつか済ませることが出来たのだが、帰り際になるとさすがにアハメは少しだけ疲れた様子を見せた。
「疲れた?」
何だか口数が減ってきたので、私はアハメにそう尋ねた。実は、このときになって初めて私は、アハメはもしかするとお腹が空いているのかもしれない、と思い当たって心配になったのだった。
というのも、この日、午後1時を過ぎたあたりで、アハメが「お昼ご飯はどうする?」と聞いてきたのだが、貧困層でランチを外で食べることの出来ない私たちは「食べてきた」と答えてしまったからである。アハメはすると、「それなら僕はブランチを食べたから大丈夫」と言ってそのまま運転を続けたが、その後、中古車屋さんに入ると、お店に置いてある無料の水を全速力で取りに行き、それをゴクゴクと勢いよく美味しそうに飲んだ。
そしてそれ以外はアハメの様子に特段の変化は見られなかった。アハメは終始穏やかでご機嫌にふるまっていたので、私にはその突き出たお腹の減り具合をうかがい知ることは困難だったのだが、しかし、後になるとアハメはやっぱりなんだか元気がなくなってきたようだったのである。
「大丈夫?」
私が聞くと、アハメはハッと驚き、「何?僕?」と聞き返した。
「なんでそんなこと聞くの?」とアハメが聞くので、「だって、いっぱい運転してくれたから」と私が言うと、アハメはにやりと笑い、「全然疲れてないよ」と言った。
私は、サンキューと何度もお礼を言いながら、こんなに良くしてくれたお礼をもっとアハメに伝えたいと思っていた。アハメが今日一日付き合ってくれたことで、私たちがどんなに助かったか...。だけど、そのお礼として私たちがアハメに差し出すことが出来たのは、白井君が仕事場から貰ってきたフリーのオレンジが三つと、「何かあった時のために...」と思って日本からスーツケースに滑り込ませていた「寿司の消しゴムセット」のみだったからである。
アハメは寿司型の消しゴムをしげしげと眺め、オレンジは日本から持ってきたのか?と尋ねたが、私たちはその期待にすら応えられずに「ノー」と答えた。

だけどアハメが変わらずマディソンに居てくれて良かった、と私は心から思っていた。優しいアハメ...。アハメは今も変わらずマディソンに居て、そしてやっぱり魅力的なアラブ人のアハメのままだったのである。