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マイアミの思い出

6月9日。「あなたの旅行の経験について聞かせてください。」というメールが悪名高きユナイテッド航空から届いた。メールの文面にある『旅行の経験』とは、数日前に家族三人で行ったマイアミ旅行のことで、『聞かせてください』とは、その帰りのシカゴ行きの飛行機のことである。もちろん、その飛行機について聞かせられる何かとは18時間近くに及んだ飛行機の遅延の話であり、ユナイテッド航空は私たち乗客にそのお詫びとして一人75ドルぽっちのユナイテッド航空の次回割引券を発行したのみだった。遅延理由は悪天候だから仕方ないのかもしれない。そもそもマイアミは雨期である。私たちの滞在中は幸運にも晴れ間の多い日が続いたが、最終日のその日は朝からどうも雲行きが怪しかった。

だけどその日、私たちは午後3時に飛び立つはずの飛行機を空港で6時間近く待ったあげく、「今夜のフライトはキャンセルで、どこのホテルももう空き部屋がありません。明日の朝9時に来てください。」という他人行儀なアナウンスと共に夜のマイアミに放り出されたのである。後から思うと、「どこのホテルも空き部屋がない」というのはユナイテッド側の法螺話だったのだが、やにわにパニックになった搭乗口では我先にとインターネットでホテルを探す人やスタッフに駆け寄る人でごった返していた。私は赤ちゃんを連れて空港で宿泊するわけにはいかないと必死でホテルを探し、一番にヒットした安宿に飛びついたのだが、その日冷静を欠いて予約したホテルは小汚く、部屋は泣けてくるほど寝苦しくジメジメしていた。だけど時計はもはや深夜を回り、外はざざぶりの雨である。疲れの取れないまま、次の日やっとのことでシカゴに飛んだ後、車で三時間かけてマディソンの自宅まで戻ってきた私たちは、楽しかったマイアミでの夏の思い出が掻き消えるほどに疲労困憊する中、ユナイテッド航空からこの一通のメールを受け取ったというわけである。

だからこの旅行の経験で思い出されるのはそんな苦労話である。そもそもマイアミでは特に何をしたということもなかったからである。私たちはマイアミビーチに行き、レンタカーでドライブをし、ホテルのプールで寝そべり、メキシコ料理やキューバ料理を食べてブラついていただけだった。ちょっと良いホテルに泊まってマイアミのダウンタウンとプールとビーチをただ練り歩いていた。マイアミは中南米からの移民が多く、ホテルの従業員やタクシーの運転手などはたいていがヒスパニック系で、そこら中でスペイン語が飛び交っていた。もちろん南米系のご飯は絶品だったけれどニューオリンズに行った時ほどの融合された濃い文化の発見を見たわけではなく、特に見るべき面白いものがあるわけでもなかった。ときどき顔の濃い白井君がそんなヒスパニック系の労働者から気軽にスペイン語で「Hola!」(こんにちは!)と声をかけられて、同業者だと思われているのが面白かったくらいである。そして最後の最後で飛行機のトラブルに見舞われたというわけである。

だけどそんな苦い思い出と共に、私たちには一つだけ忘れられないマイアミの素敵な思い出があった。最終日の前日に夕食のために夜のダウンタウンに繰り出そうとしていた時のことである。私たちはホテルのエレベーターで不思議な二人組の男性と乗り合わせた。それは背の高い紳士とその人よりは少し背の低い紳士の二人組だった。背の高い方の紳士は大柄で体格もよく、浅黒い肌のエキゾチックな顔をしたハンサムな男で、エレベーターに乗り込むと、すぐに私たちのベビーカーをひょいと覗き込んで「何か月?」と快活に尋ねてきた。エレベーター内はその二人の紳士と白井君、そして私と赤ちゃんの五人だけである。もう一人の連れの男性は、少し控えめにエレベーターボーイのようにして立っている。私は「五か月です。アメリカ生まれなんです。」と紋切型の返答をすると、背の高い男性は「それはいいね」と言って、また私たちの赤ちゃんを興味深そうに覗き込んできた。ベビーカーではついさっき寝入った赤ちゃんがいぎたなく足を広げて眠りこけている。「僕のワイフも今妊娠中なんだよ。」とその紳士が私たちをまっすぐに振り返って言った。とてもハンサムで好感の持てる顔だった。「おめでとうございます」と白井君と私が声を合わせて言うと、「君たちこそおめでとう。」と彼はさわやかな笑顔を見せた。

数十秒ほどの会話だった。そこでエレベーターが地上に着き扉が開かれたからである。エレベーターボーイのように立っていたもう一人の紳士が私たちに先に出るようにと手でドアをおさえて促してくれた。私たちはお礼をのべ、ベビーカーを押して先にエレベーターを出た。ふと振り返ると、その背の高い方の紳士が私たちとは反対方向の道へ颯爽と消えていくのが見えた。とてもフレンドリーでなんとも不思議な魅力のある人だと思った。が、それもそのはずである。その去りゆく後ろ姿こそ、アメリカ人ならば誰もが知っているメジャーリーグのスーパースター選手、デレク・ジーターその人そのものだったからである。私たちはエレベーターを降りて数分後、たまたま近くを歩いていたアメリカ人の青年にあの紳士がデレク・ジーターであることを知らされた。彼が妊娠中だと語った妻とはモデルのハンナ・デービスのことで、私と白井君はそのデレク・ジーターに偉そうにも「おめでとう」などとマイアミで先輩風を吹かせたというわけである。