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パニカとトニのこと

  5月10日。タイ人のパニカが結婚した。語学学校のすぐ近くにある州議事堂の中で、パニカはとてもカジュアルな結婚式を挙げた。新郎はずっと一緒に暮らしていたアメリカ人のトニである。同席者は語学学校のフロントデスクで働くタイ人のプンとその夫のケビン、それから語学学校の友人である私と韓国人のユン、そして結婚式の進行役の女性の五人だけである。私とユンはたまたま式の前日にパニカとメールをしていたことで知らされただけだったので、もともとは契約書に立会人としてのサインが必要だったプンとケビンだけの予定だったのだろう。結婚式というよりは、結婚の手続きに立ち会うという感じで、10分ほどで終わった。だけどそんなあっさりした式にも関わらず、私は一年以上友人だったパニカの晴れ姿を見て、込み上げてくるものをおさえることが出来なかった。

 私がパニカに出会ったのは去年の三月だった。パニカはタイでアメリカ人のトニと恋に落ち、彼を追いかけるようにして去年の春にマディソンにやってきたのである。34歳だった。なかなかいい年齢である。だけどパニカはタイでの仕事を辞め、いつタイに帰国するのか、帰国してから何をするのかも何も考えずに、ただ時間とお金の許す限り、トニのアパートから語学学校に通っている無鉄砲な子だった。その上、勉強熱心なタイの生徒が多い中、パニカはびっくりするほど勉強嫌いだった。熱心に英語の勉強をしないので、喋っていても何を言っているのか分からないのがパニカの特徴で、「何を言ってるのか分からないから、付き合いたくない」と陰でパニカの事を悪く言っている女の子も居たし、恋人であるトニでさえもパニカが喋るのを黙って聞いた後に、「何を言ってるのかぜんぜん分からなかったよ。」と優しく囁いていることがあった。誰もパニカが英語で何を話しているのか理解できなかった。だけどパニカは英語が上達したいわけではなくて、ただトニと一緒に居たくてマディソンに居るだけの愛に生きる女性だったので、パニカの純粋な愛の前には、「語学習得」というものは何の意味も持たなかったのかもしれない。

 が、語学学校に通っている限り、そんな綿菓子のような甘いことは言ってはいられなかった。私たちの通う学校はアカデミックなコースを取ると、山ほど宿題が出る。パニカは毎日厭々ながら宿題をこなし、時にクラスをリピートしながらも少しずつ英語を上達させざるを得なかった。だけど勉強嫌いのパニカである。だいぶ英語が上達したところで、もうアカデミックなコースを取るのを辞め、宿題が出ない簡単なクラスばかり取るようになった。600のレベルまで進むと、次は大学進学レベルの700の最終クラスとネイティブが通う「ティーチャー・トレーニングプログラム」が残されているのみだったからだ。パニカはそんな上級のクラスに行って毎日宿題漬けになる気なんてサラサラなかったのである。

だけどそのうち、パニカは簡単なクラスをすべて取ってしまい、セッションの始まりにいつも、フロントデスクでうつむきながら、次のセッションで取る授業を悩むようになった。アカデミックではないクラスはどれも二度ずつ取ってパスしたのだとパニカは暗い顔で言った。でもビザの関係上、パニカはフルタイムで授業を受けなくてはいけなかったのである。私はそんなパニカに、近くのコミュニティカレッジに進学したらどうか?と勧めたこともあった。コミュニティカレッジなら語学学校よりも授業料は安く厳しくないのが特徴で、多くの生徒が語学学校で600をクリアした後に進学している。けれど私がその話をしているのを、毎回パニカにアカデミックなコースに進むように指導しているフロントデスクのプンに聞かれてしまい、「パニカはまず英語を勉強すべきなのだ。一年近く居てパニカは全然喋れるようになっていない。勝手なアドバイスはするな。」と、なぜか私一人だけあとでプンに怒られたことがあった。

結局パニカはぐずぐずと遊びのような授業を何度もリピートして、先の見えない恋の終焉を先延ばしにしていた。私はそんなパニカに何度も「トニと結婚したら勉強しないでずっとマディソンに居られるよ」と言ったことがある。トニ本人にも言ったことがある。そう言うと、パニカはもちろん結婚したそうに微笑んだが、トニの方はすこし様子が違っていた。トニはずるい男だったのである。トニはいつもパニカに「先のことは分からない。」とか「来年、君はタイに帰ってるのかな?分からないけど。」などと言って、自分たちの関係を曖昧にしていた。トニはとてもハンサムで頭の切れる男だったが、私はそんなことをパニカに言うトニを、密かに残酷な男かもしれないと思っていた。だらだらと月日だけが過ぎ、パニカは35歳になってしまったからである。私は、毎度暗い顔をして授業の予定を作るパニカを見ながら、彼女はいずれタイに一人で帰るのだろうと思っていた。アメリカでしたいことがあるわけではない。お金も時間もそろそろ限界だろう。誰もがそう思っていた。そしていよいよ、トニと別れてタイに戻るだろうと思われたころ、パニカは妊娠したのである。

今日、少し膨らんだお腹を抱えて、白いワンピース姿で州議事堂にトニと手をつないで現れたパニカは、とても美しかった。予期せぬ出来事のため、親戚や友人などのほとんど居ない寂しい結婚式だった。進行役の女性も、ぼさぼさの髪の毛に普段着というカジュアルな恰好で、州議事堂の渡り廊下に着くと「この辺でするのはどう?」と言った。それでもパニカはすごく幸せそうにトニにぴったりと寄り添い、州議事堂の渡り廊下でトニと向かい合わせになって立った。私たちが見守る中、進行役の女性がトニに「パニカを妻とし愛し続けますか?」と問いかけた。パニカは震えながら恐る恐るトニを見つめた。トニは「イエス、アイドゥ」と静かに、だけど優しくパニカに言った。パニカの目から大粒の涙が次から次へとこぼれ落ちた。「宿題が好きじゃない」と言ってフロントデスクでうなだれていたパニカの姿が私の脳裏をよぎり、私の目からも涙があふれてきた。だけど今日、どんな形であれパニカの愛は成就したのである。九回裏、パニカは黙って愛の逆転ホームランを見事に打ち放ったのである。

(余談だけどパニカはやっぱりもう少し英語を勉強するべきだった。肝心なところで進行役の英語が聞き取れず、誓いの言葉をうまく言えてなかったからだ。でもとても素晴らしい結婚式だった。)

カプレイ教授の退官

4月27日。「今日だよ!」教室に来るなりカプレイ教授が私に言った。もう三回ほど言われているので忘れるはずがないのだけれど、私は「四時からですよね?」と確認する。カプレイ教授は大きく頷いて「ルーム4070だからね。」と念を押した。忘れるはずがない。今日はカプレイ教授の退官の記念講演会の日なのだ。最初にそのことを言われたのは3月の上旬のとある授業の日だった。授業の始まる直前に教壇から私を手招きして呼び寄せ、カプレイ教授は今日の講演会の日程を個人的に教えてくれたのである。そして「デーヴィッド・ボードウェルも来るよ。」といたずらっぽく言った。それはマディソンで映画好きを気取っている人なら誰もが知っている名前である。もちろんマディソンでなくても、映画好きを気取っていなくても、知っている人は知っている有名人である。日本でも何冊か彼の本が翻訳されて出版されているし、ウィスコンシン大学の映画講義のいくつかは彼の本を中心に展開されている。デーヴィッド・ボードウェルはウィスコンシン大学が世界に誇る映画批評の生きた権威であり、ウィスコンシン大学の映画を学ぶ豊かな環境に大きく貢献した人なのである。

だけどデーヴィッド・ボードウェルが来るということよりも、私はとにかくお世話になったカプレイ教授の退官の記念講演会なのだから、今日は雨が降ろうが槍が降ろうが這ってでも講演会にはいかないといけないと思っていた。ただ、カプレイ教授が毎回私にしかアナウンスしないので、一瞬同じクラスのベリチアンナに今日の講演会の連絡メールのようなものが生徒たちには送られていたりするのかどうか確認しようと思ったが、前回のチチカット・フォーリーズのようなことがあってはいけないと思い辞めておいた。いったいどんな講演会なのかもよく知らないけれど、カプレイ教授が熱心に誘ってくれるのだから行かないわけにはいかない。わくわくしながら、私は3時半頃に大学に到着し、会場に向かった。そこはよく知っている会場で、ウィスコンシン大学の内部に併設されている歴史ある映画館である。

会場に入るといきなり私はデーヴィッド・ボードウェルに出くわした。というよりも、デーヴィッド・ボードウェルと一人の助手しかいない。そして何やら大きな声でスクリーンをチェックしている。恐ろしすぎて私は引き返し、何度も女子トイレと会場の入り口のあたりをウロウロと往復し、やはりもう一度出直そうと決意したところでカプレイ教授が現れた。「すいません、早く来過ぎて…」ごにょごにょと言い訳をしている私に構わずカプレイ教授は「こっちこっち!」と言って私を会場に招き入れた。そして逃げ出さんばかりの私の手を取って中に連れて行くと、私をボードウェルに紹介してくれたのである。「ボードウェル!こちらは日本から来たセイコだよ。素晴らしいシネフィルなんだ。」デーヴィッド・ボードウェルは作業の手を止めて、面白そうに私の所に駆け寄って来ると、「日本には四度行ったことがあるよ。」と言った。が、私はもう他にどんな会話をしたのか覚えていない。

始まって気付いたが、集まっていたのは完全に関係者だけだった。生徒など一人も来ていない。ほとんどがウィスコンシン大学のフィルム学に関わるカプレイ教授の素晴らしい同僚やTA、少数の親族と一人のカメラ小僧だけだった。退官の記念講演会と言えば、私は内田先生の講演会のようなもの(沢山の取材陣や卒業生が集まり、講演そのものがまるっと一冊の本になったりするもの。)を想像していたので、きっと講演会というよりは内輪のイベントのようなものだったのだろう。とてもアットホームでカジュアルなものだった。だけど、私はとにかく自分が場違いではないかと思い終始、恐縮しきりだった。カプレイ教授はデーヴィッド・ボードウェルと私を引き合わせた後、今度は奥さんのベティ・カプレイの所へ私を連れて行き、紹介してくれたからである。また、講演が始まると冒頭の挨拶で沢山の関係者にお礼を述べたのち、最後の方で「それから」と言って「皆は知らないと思うけれど、あそこに座っているセイコにもお礼を。日本から来た素晴らしいシネフィルです。」と私をまた大々的に紹介してくれたのである。いくつもの目が私に注がれ、知らない人がこちらを向いて「ハーイ」と手を振ってくれた。デーヴィッド・ボードウェルも見ている。私は恥ずかしくて恐縮して、ぎこちなく笑うしか出来なかった。

まったくもって不思議なことだった。なぜカプレイ教授は、何の関係もない部外者の私に、こんなにも良くしてくれるのか。白井君がウィスコンシン大学に二年間留学することになり、目的もなくウィスコンシン州マディソンにやって来たただの映画好きの主婦である。大好きな映画学を盗聴することに生きがいを見つけ、三セメスター、カプレイ教授の恩恵にあずかり、その合間に子供を産み、産んでもなお授業に通ってきたよくわからない日本人がもの珍しかったのかもしれない。あと一週間でカプレイ教授の40年の教員生活は終わる。そしてまた、あと二か月で私たちのマディソンでの生活も終わる。だけどカプレイ教授は講演会の後、「日本に帰っても連絡を取り合おう」と言ってくれた。人生というのは本当に不思議で何が起こるか分からないものだ。私はマディソンに来て今日と言う日ほど、それを噛みしめた日はなかった。