最終兵器ネイサン

6月22日。一年近く語学学校に通っていて私が思うのは、授業の中で生徒が「間違える」ということが極めて少ないと言う点だ。それがアメリカ全土の教育方針なのか、それともここ語学学校でのことなのか分からないけれど、私がマディソンで出会った先生たちは、誰もが生徒の答えを否定することはほとんどなかった。どんな答えに対しても、先生たちはいったんその答えに「イエス」という返事をしてから少しずつその答えに修正を加えて答えを導いたり、もしくはその答えに新たな発見を加えたりという形で繊細に生徒を指導するのである。そしてそれはたかだか英語一つに対する教育の現場でさえそうなのである。もちろん、アーティクルに対するディスカッションにおいて、「答え」は一つではない。だから、先生たちは生徒たち一人ひとりが「独自で考える」ということを大切にしているし、一人一人の答えは違っていて当たり前だと教える。

今期、私が取った700のリーディングライティングというクラスは、特にそういう方針の強い極めて不思議なクラスだった。700のリーディングライティングというと、私の通う語学学校の最終レベルである。このクラスは他のクラスとは違って単語テストも中間テストも存在しない。その代わり、英語を学ぶというよりもむしろ英語をツールとしてクリティカルな考え方やモノの見方を言語で切り開く力を身に着けさせることを第一目的としているような、どのアカデミックなクラスとも全く違うクラスだったのである。そしてこの最終レベルを10年以上に渡り教えているネイサンは、アメリカンタフガイなロールプレイングゲームで言うところのラスボスで、彼自身はウィスコンシン大学の名門教育学を卒業している素晴らしい先生だった。

もちろんネイサンのもう一つの顔は、死ぬほど宿題を出すという面でもある。週五日あるこの厳しいクラスで、ネイサンは来る日も来る日も、私たちにこれでもかというほど大量の宿題を課した。だからネイサンの授業が始まってからというもの、私にとって週末は恐怖でしかなかった。私たちにとって、週末は「二日間の休み」ではなく、「二日間かかる宿題を課せられる日」でしかなかったからだ。そして月曜日、上機嫌に教室に現れてネイサンは私たちに聞く。「週末は楽しかった?どこかに行った?」もちろん私たちの答えは「ホームワーク」である。

だからネイサンのクラスは、やる気のない生徒は一週間もたたずに脱落してしまう。その代わり、やる気のある生徒だけが必死で毎日ネイサンの授業にしがみつく。私は、日々の記憶がないほど毎日この授業の宿題に追われていたが、気がつくと10人ほどいたクラスメイトは、最終的に6人だけがレギュラーメンバーのクラスとなっていて、そんな6人で私たちは毎日アーティクルを読み、作文を書き、エッセイを書き、プレゼンテーションをし、小説を読んだ。授業のディスカッションは、ある時はカルチャーショック、ある時はジェンダーロール、ある時はアメリカの価値観、ある時はボードゲームを通じて階級制度について、ある時はジョージ・オーウェルの『アニマルファーム』についてだった。またある時は、映画『今を生きる』のワンシーンを引用して、ネイサンは私たちにこう言った。「誰も同じではないということは、もう君たちは分かっているはずだ。一人ひとりが違う価値観のもとに立っている。だから、君たちは君たち自身として、自信を持って歩いて欲しい。自信をもって書いて欲しい。」

白状すると、二か月にわたるこの厳しい授業は面白い反面、私はすっかりボロボロになっていた。誰もが疲れ切っていたけど、余裕のない私には、毎日宿題以外は寝る以外ほとんど何も出来なかった。朝、授業に出る前に泣き、授業が終わってから泣いた日もあった。朝ごはんも昼ごはんも夜ご飯も白井君が作ってくれた。私はただ日々の宿題をこなすだけの人間だった。だけど、この先私の人生でこれほど勉強するということがあるだろうか?

今日、ネイサンの最終日を終え、心地より解放感と共に夕食を友人たちとすませると、道のあちこちで夕闇に蛍が飛び交っていた。これからひと月ほど、マディソンは蛍の飛び交う美しい季節である。来月でマディソンに来て一年が経つ。マディソンは大きな街ではない。人によっては退屈だという。だけどマディソンには蛍が舞う。リスが走る。美しい州議事堂と大学のキャンパスがある。そして、ネイサンの授業を受けることが出来る。私がこのネイサンの授業で学んだことは英語だけではなかった。それは「語学学校」の領域を超えた何物にも代えがたい価値のある経験だった。ネイサンは授業のディスカッションでは「正解」は求めない。ただ、考えようとする生徒に寄り添って叱咤激励するのである。母国語ではない言葉で書き、考え、学ぶということの困難と素晴らしさをネイサンはしっかりと教えてくれたのである。

来週から、私たちはパリである。二か月、大好きなマディソンとはお別れである。