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雪の篠山往還

12月19日(月)
6時30分にかけていたアラームで目が覚めた。テレビを付けると、大雪のニュースをやっている。名古屋には昭和22年以来だという大雪が降っている。少し迷ってから、篠山の病院に電話をかけた。電話には女性が出た。雪はそれほどでもないし、高速道路もすべて通行可能ということだった。「ノーマルタイヤだけど、車で行っても大丈夫か」と聞くと、「絶対ムリです」という返事が即座に返ってきた。顔を洗い、着替えをしながらコーヒーを飲んだ。コートのポケットにチョコレートを2個入れて、外に出た。一段と寒いが、このあたりは雪が降るほどの寒さではない。空は薄い青色をしている。頭で思い浮かべる篠山の雪景色は、どこか遠い国のことのように思える。2時間後にはその遠い国の病院で外来をしているのだと思うと、少し不思議な感じがする。
 駅に着いてホームに降りると、ちょうど快速電車が来た。尼崎で降りて、新三田行きの快速電車に乗り換える。車内は混んでいたが、伊丹を過ぎると座ることができた。手足は完全に冷え切っていて痛いほどだったが、座席の下の暖房で、足の冷感が少しずつ緩んできた。電車が宝塚を過ぎると、雪が降り始めてきた。電車の窓から眺めると、炭酸の粒のように細かい雪が横殴りに降っているように見える。電車は8時を少し回った所で終点の新三田に着いた。ホームの待合室で10分ほど電車を待った。待合室には、会社員ふうの中年男性が3人くらいと、制服姿の女子高校生が4、5人いた。座るスペースが無かったので、立ったまま外の景色を眺めた。ホームから見える店や家屋に薄く雪が積もっている。道路の雪だけが溶けて、黒々と光っている。待っていた篠山行きの電車は、緑色とオレンジ色をした旧式の車両だった。新三田の駅で、多くの乗客は降りてしまった。電車は8時12分に新三田を出発した。動き出したところで、ポケットからアルミホイルに包んだチョコレートを取り出して、口に入れた。電車は新三田までは快速で、そこから各駅停車になっていた。雪は降ったりやんだりだった。用事を思い出したので、車両の端まで移動して、電話を一本かけた。出なかったので、再度電話するというメッセージを入れてもう一度座席に戻った。電車は8時43分に篠山口駅に着いた。駅の西側の出口には階段があり、そこを降りるとバスとタクシーが停車するロータリーがある。空からは大粒の雪が降っている。地面には雪が敷き詰めれらており、人通りが多い部分だけが溶けて、ぐちゃぐちゃしている。庇がついたバス乗り場には、数人の男性がバスを待っていた。僕と同じ電車に乗ってきた人が同じところにとどまり、バスを待っている人の数が倍くらいに増えた。数分ほど待つと、どこかの会社のマークがついたマイクロバスがロータリーに入って来て、そこにいたすべての人がそれに乗りどこかへ行ってしまった。一人になってバスを待っていると、すぐに路線バスが一台来た。「○○病院には停まりますか」と運転手に聞くと、微笑んで数回頷いた。親切で頼りがいのある頷き方だった。僕以外には、一人のおばあさんがバスに乗った。礼儀正しくアナウンスをした後で、運転手はバスを走らせ始めた。
ぼたん鍋を出すレストランや、新しく建てたばかりの図書館の前を通り、バスは10分ほどで病院前に着いた。外来が始まる9時には、まだ10分ほど余裕がある。雪でぬかるんだ道路を渡り、病院の建物に入る前に帰りのバスの時間を確かめた。昼12時台の駅行きのバスは、12時10分と40分の2本しかなかった。病院の中に入ると、ロビーの長椅子には、すでに沢山の患者さんが座っていた。ほとんどが高齢者である。エレベーターで4階の医局に行くとS先生がいた。S先生は、いつもの時間通りに病院に着いた僕をみて、少し驚いた顔をした。

「大変だったでしょう」

「朝、病院に電話をしたら車では来ないほうが良いといわれたので、電車で来ました」

「車だったら大変でしたね。高速道路の出口が40分渋滞していましたよ」

ここから最寄の丹南篠山インターチェンジは、高速道路をノーマルタイヤで通行することができる最終地点であり、そこを通過するすべての車両はいったん高速道路を出てタイヤのチェックをされるということだった。冬用のタイヤをつけていない車は、チェーンを装着しないとそこから北に進むことができない。

「三田の家から、40分で病院に着くんですが、今日は1時間30分もかかりましたよ」

常勤医のほとんどが、まだ病院に着いていなかった。コートを脱いで白衣を羽織り、外来がある1階に降りるためにもう一度エレベーターの前に来た。エレベーターホールには医局の秘書さんがいた。エレベーターを待っていると、S先生も来た。

「家から1時間30分もかかったよ」

「はあ」

S先生は僕にしたのと同じ話を秘書のおばさんにした。おばさんは、「1時間30分」という通勤時間が長いのか短いのかわからないようだった。このおばさんは、仕事に関連する定型的な会話意外になると、極端に話のとおりが悪くなる。「白衣はどうやってクリーニングに出すのですか」「介護保険の書類を書いたので外来に取りに来てください」おばさんが得意な会話はこういう会話である。おばさんはいつも九時ぎりぎりか、少し遅れて仕事に来るのに、どういうわけか雪が降っている今日に限って早く出勤していた。

「いつもは家から病院まで40分で着くんだ」

S先生の説明が終わったところで、エレベーターが4階に上がってきた。エレベーターの中には、内科のK先生、小児科のI先生、あとは名前をしらない外科の先生が乗っていた。みんな高速道路の渋滞に巻き込まれて遅れたようだった。多くの常勤医は三田のあたりに住んでいて、高速道路を使って通勤しているという話を、前にK先生から聞いた。
外来診察は9時ちょうどに始めた。始まってすぐの時間は、天気のせいで来られない患者もあるかと思ったが、診療時間の予約をしていた患者は、いつものように病院へ来ていた。7、8人の診察を終えた後、10時30分頃にAさんが診察室に入ってきた。
「調子はどうですか」

「食欲があって、体調がものすごくいいです」

「それはいい」

カルテに、「体調がいい。食欲がある」と書いた。丸椅子に座ったAさんの右腕に血圧計のカフを巻いた。Aさんは70台半ばの男性で、降圧薬と睡眠薬、そして湿布をもらいに月に一度受診している。Aさんは、背が155センチくらいで、痩せている。白髪交じりの髪がすこしべとべとしている。一重まぶたの目は少し釣り目気味で細く、何処をみているのか分かりにくい。真夏以外の季節は、いつも緑色と青色の中間のようなビニールのベストを着ている。ベストは前のところがひどく汚れている。Aさんは、前任のS先生から引き継いだ患者さんの一人である。以前は、昼から酒を飲み、ときどき心身の調子を崩して入院することがあった。僕がこの病院に来たのは、S先生が大学から中ノ島のS病院に移動した昨年の九月だから、僕がAさんを診察するようになって、1年3ヶ月経ったということになる。見た目はずいぶん頼りない老人だが、月に一度の外来にはきちんと来る人なので、単純に計算すると彼には会うのはもう15回目くらいということになる。
僕がAさんを診察し始めた頃、彼はまだ酒を飲んでいた。そして外来に来るたび、「眠りが浅い」「手がしびれる」「胃の調子が悪い」と、何かしら体調のよろしくないことを訴えていた。それが数ヶ月続いた後、彼は家で酒を飲んでいて気が遠くなり、救急車で病院に運ばれてそのまま入院した。頭のCTその他の検査では特に問題が無く、一過性の意識消失の原因ははっきりしなかったが、その後の経過が良好だったため、一週間ほどで退院した。僕は、Aさんが退院後に初めて受診した時のカルテを見て、彼が入院していたことを知った。入院中に主治医をしていた常勤の医者が、退院後は引き続き僕の外来に通院するように指示したのである。Aさんは、その入院騒動依頼、酒も煙草もすっぱりと止めてしまった。別に、反省したとか、悔い改めたとかそういうことではなく、美味しいと思わなくなったから止めたと彼は言っていた。

「血圧測りますね」

正確な値は忘れてしまったが、Aさんの今日の血圧は、収縮期圧が110mmHg、拡張期圧が80mmHgくらいだった。

「お酒のみたくなりませんか」

僕はAさんに外来で会うたびに尋ねる。「煙草吸いたくなりませんか」とか「お酒や煙草をやめて調子はどうですか」というふうに聞くこともある。

「一切飲みたくありません。体が欲しないんですわ。昔はね、晩飯食べるでしょ。そのときから飲み始めて、その後もだらだらだらだら飲んでたんですよ。でも、今は一切飲みません。隣で息子がビール飲んでても、一切欲しいと思わないです。晩飯食べたらね、自分の部屋に帰ってずっとテレビみるんです。そして、9時になったら、先生からもらってる睡眠薬を一服してね、もうそれで朝までころりですわ」

Aさんが酒と煙草をやめて半年以上が経った。ずいぶん顔色がよくなった。肌につやが出てきて、頬に健康な赤みがさしている。だが、目は昔のままである。正直なところ、僕にはどうしてAさんが、あれだけ好きだった酒と煙草を止めることになったのか、その理由がわからない。彼は本当に酒と煙草を欲していないように見える。彼は、アルコールとニコチンを外から摂取しないかわりに、その類似物質を体内で産生しているのではないだろうか。だいぶ薄まりはしたが、彼の目は相変わらず妖気を発したままなのだ。
11時過ぎに外来の混雑はひと段落した。健康診断や脳ドックの内科診察の患者さんを数名診て、12時ちょうどに外来を終えた。手を洗ってから4階の医局に行き、白衣を脱いで帰り支度をして、エレベーターで1階におりた。外の雪は、朝よりもさらに強くなっていた。携帯電話には、昨日会った友人からメールが入っていた。バスを待ちながら返信メールを打ち始めた。手袋をつけながらメールを打つことができないので、左手だけ手袋をはずして、メールを打った。特別長い文章を書くつもりは無かったが、なかなか上手く書くことができなかった。だんだん左手が冷えて痛くなってきた。病院の中からおばさんが一人出てきて、バス停に来た。

「バスはまだ来ていませんか」と聞くので、

「まだですよ」と答えた。

メールの続きはバスの中で書くことにして、コートのポケットに携帯をしまい、左手に手袋を着けた。バスは定刻から5分ほど遅れて病院前に来た。バスは来た道と同じ道を通って駅まで走った。新しい図書館は、朝よりもさらに深い雪に覆われていた。駅に着くまでに、短いメールを打ち終えて友人に送信した。バスが篠山口駅についたところで240円をはらい、駅の階段を上って改札を通った。電光掲示板を見ると、名古屋行きの特急電車の案内はあるが、大阪方面の電車の乗り場がすぐにはわからなかった。しばらく立ち止まって、掲示板を眺めていると、駅員が、「大阪行きは三番のりばです」と、大きな声で案内するのが聞こえた。ホームへの階段を降りると、電車を待つ人が思ったよりも沢山いた。 
ホームには大粒の雪が激しく降っている。ホームから線路をはさんだ柵の向こう側は、道路も建物も雪で覆われている。積雪は、電車を待つほんの短い間にも目に見えて増えていくようだった。ところが、どういうわけか線路と線路の下に敷かれた大粒の砂利には全く雪が積もっていなかった。線路に降る雪だけは、砂利の隙間からここではないどこかへ吸い込まれてしまうように見えた。南北に伸びる長い線路は、そこだけが別の世界のようだった。10分ほど待っていると、電車が南側から入ってきた。電車は篠山口が終点で、ここから大阪まで折り返し運転するというアナウンスが流れた。
電車に乗ってしばらく外の景色を眺めた。そして、本を読み始めた。鞄の中にはディック・フランシスの競馬ものと、『それから』が入っていた。両方とも先週までの旅行で読んでいたもので、今朝、家を出る前に、机の上にあったものを鞄に入れてきた。文庫本を適当に開いて読み始めた。2ページほど読んだところですぐに眠くなってきた。眠気に耐える必要を感じなかったので、本を鞄にしまい、手袋をして目を閉じた。目を閉じるとすぐに眠ってしまった。もうすぐ宝塚駅につくところで、目が覚めた。宝塚のあたりではもう雪は降っておらず、地面にも建物にも雪は見当たらなかった。うとうとしながら、時々窓の外を眺めていた。電車は中山寺、川西池田に停車した後、伊丹駅に着いた。「伊丹」という駅の表示をみたら、伊丹に住んでいるM先生のことを思い出した。
伊丹駅では少し多めに人が乗った。ドアが閉じて電車は走り出した。そして、電車は、これまでにしたことのないような加速をし始めた。電車の加速によって体にかかる重力と、音量が大きくなったモーター音で完全に目が覚めた。電車は直線を加速しながら走っている。外の景色はこれまでに無い速さで流れている。ほんの少しだけ怖さを感じた。そして思い出した。高速を維持してしばらく走ると、電車は猪名寺駅を通過した。駅を通過するときもあまり減速したようには感じなかった。直線は続いている。電車は速度を維持して走り続けた。どこまでこの速度で走り続けるのだろうかと思っているところで、速度が少し緩んだ。塚口駅を通過した。駅を通り過ぎると、電車はまた少し加速した。僕は進行方向に向かって右側の窓よりの席に座っていた。何両目の車両かは覚えていないが、後ろのほうだったと思う。窓の外を見ると、直線はまだ続いていた。線路の周りは住宅街になっていて、踏切で自転車に跨るおばさんが、電車が通り過ぎるのを待っているのが見えた。窓から進行方向を覗くようにしてみると、名神高速が東西に走っているのが見えた。そろそろだった。あの事故の翌日の朝、いつものように西宮から名神高速に乗って大学へ向かっていると、尼崎インター付近の上空に、数台のヘリコプターが飛んでいるのが見えた。
電車は、もう少しで高速道路の高架をくぐるというところで速度を急に落とした。乗客全員に、「速度を落としましたよ」と伝えるような減速だった。電車は名神の高架をゆっくりとくぐった。高架の下は、ほんのわずかな時間だが、嫌な暗闇だった。高架をくぐり、景色が明るさを取り戻すと、突然、進行方向に右向きの急カーブが現れた。事故現場はここだった。悪いと思ったが、僕は体の中に何も入ってこないように心をぎゅっと固めるようにした。そして、言葉にならない感じで小さく祈った。電車の左側の窓を見ると、カーブの左側に大きな建物が見えた。その建物は、一階の部分に大きな白い板をはめていた。
カーブを通り過ぎたところで、左側の列に座っていた父娘のような二人連れが、一言二言話をした。知らない間に張り詰めていた空気が緩んだような気がした。電車は静かに尼崎の駅に着いた。多くの人が降りて、その半分くらいの人が電車に乗った。まるで生き物のようだった電車は、新しい人が乗った瞬間に表情を消した。そして大阪駅に向かって、また走り出した。

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2005年12月22日 08:35に投稿されたエントリーのページです。

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