12月11日(日)
学会に出席するために金曜日の夜からアトランタにいる。
毎年12月にアメリカで開かれるこの学会は、本当はニューオリンズで行われるはずだった。しかし、ハリケーンカトリーナ襲来のためにニューオリンズでは開催不可能になり、アトランタが代替開催地となった。
学会は四日間の日程で開かれていて、本日が二日目。僕は初日に早々とポスター発表を終えたので、後はのんびり勉強するだけである。
せっかくアメリカまで来たのだから、少しくらい観光でもしてみようかとも思ったのだが、残念ながら、このあたりには面白そうなところが全く無い。こう言っては悪いが、代替開催地としてすんなり決まるくらいだから、アトランタはあまり人気のある場所ではないのかもしれない。治安も決して良いとは言えないみたいだ。
初日の土曜日は、同じ研究室のY田先生と共に朝8時に学会場へ行ってポスターを貼った。ポスター発表者は、朝のうちに所定の位置にポスターを貼り、夕方6時から7時30分までポスターの前に立って質問に答えなければならない。口演発表より気楽と言えば気楽だが、一人ひとりの質問者に差し向かいで対応することになるので、それだけ突っ込んだ質問を受けることになる。質問者が多いと対応が大変だし、逆に質問者が少ないと、人気の無いフリーマーケットのようで寂しい。
同行のY田先生も、初日にポスター発表だったので、二人でお互いのポスター貼りを手伝って、20分ほどで作業を終えた。同じ医局で別の研究室の(ややこしくてすみません)K先生たち一行も、同じ作業をしに来ていた。
ポスターを貼り終えた後は、Y田先生と別れて午前中の講演を聞きに行った。初日と二日目にプログラムされている講演には、”Education Program”と、”Scientific Committee Sessions”があり、前者は主に臨床的な内容を、後者は基礎研究についての内容を扱うことになっている。どちらにしても、1時間45分の講演時間の中で、各分野のエキスパート3人が、30分ほどの講演を行うことになっている。16から17題の講演が同時並行して行われるので、どの講演を聞きに行くか決めるだけでひと仕事である。
ほぼすべての講演は、時間を変えて2回ずつ行われるようになっており、聞き逃す可能性が減るように配慮されている。最近は、日本の学会でも、教育講演などで同じような形式をとることが多くなってきた。ある製薬メーカーのメールマガジンでは、今回の学会開催にあたり、有名な日本の臨床医に依頼して、『学会、私ならこう回る』という特集を組んでいた(こんなの、瞬間に「削除済みアイテム」だけど)。午前中は、白血病についてのEducation Programの一題目だけ聞いてから、クロマチン修飾についてのセッションへ移動した。
お昼にベンチでマフィンと小さなりんごを食べた後でポスターを眺めに行き、午後からはES細胞についてのセッションを聞いた。午前中は体調もよく、割と集中して話を聴いていたのに、午後になると、講演開始10分ほどで、突然に強烈な眠気に襲われた。泥のような眠気が全身を覆い、しばらくすると吐き気まで催してきた。人間は極端に眠くなると吐き気を催すらしい。アトランタの午後3時は日本時間の午前5時。ふと周りを見てみると、僕の視界に含まれていた日本の大学教授は全員居眠りをしていた。えらい先生方も時差ぼけには勝てないらしい。時差ぼけに勝てなくても十分有能な人間が偉くなっているということもいえるのかもしれない。いえないのかもしれない。
講演のプログラムが終了した6時からはポスター討論の時間が始まる。夕方6時からのポスター討論時間では、何人かの研究者から質問を受けた。発表内容の急所をやたら厳しく突付いてくる女の人がいて、逃げ切ろうとしてもなかなか許してくれない。もしかしたら、と思って尋ねてみると、やはり研究内容が少し競合しているグループの人だった。「あなたの論文をとても参考にしました」というと彼女は、「面白い内容ね。パブリケーションを楽しみにしているわ」と言って、去っていった。
その後もポスターの前に立っていたら、I先生が僕のポスターのところに来てくれた。I先生は、前の医局の先輩で、僕が医者になりたての頃からお世話になった人である。今はインディアナポリスの大学に留学をしている。二人で、発表内容について話をしていたら、O先生もやって来た。O先生も同じ医局の一年先輩で、今は大学病院の病棟責任者をしている。I先生は日曜日に口演発表が、O先生は月曜日にポスター発表をすることになっている。5年前までは同じ大学病院で働いていた3人が、それぞれ異なる研究室から演題を出して、はるか遠いアトランタに集まっている。当たり前と言えば当たり前だが、感慨深いと言えば感慨深いことのような気もする。
一緒に働いていた頃、僕たち3人は「三兄弟」と呼ばれることがあった。勿論血が繋がっているわけではないし、顔かたちだって全然ちがう。しかし、白衣を着て病棟の廊下を歩いていると、後姿がよく似ているらしく、お互いに間違われることがあった。
長男のI先生はK教授の一番弟子だった。患者さんの信頼が厚く、後輩の面倒見が良い。学生時代はサッカー部のキャプテンだった。次男坊のO先生はとにかく元気がよい。勢いで仕事をしそうな印象を受けるが、実は堅実派でもある。今回の学会に出した演題も、症例が少ない巨赤芽球性貧血のデータをこつこつと貯めて形にしたものである。そういえばこの人も学生時代はラグビー部のキャプテンだった。そして、三兄弟の末っ子は僕である。いまさらどうこう説明することもないが、ときどき各方面の信頼が厚いことだけは明記しておきたいと思う。今まで隠していたわけではないが、僕は、学生時代にクリケット部のキャプテンをしていた。大学3年生の頃に僕が創部した。創部早々から活動休止状態が2年ほど続いたが、大学5年生の夏休みにロンドンまでクリケットのボールを買いに行き、帰国後に部会を開いて、「諸君、これがクリケットのボールである」と、赤いクリケットボールを見つめながらビールを飲んだ。僕以外の正式部員は、後に沖縄旅行を共にすることになる北君だけだった。他には数名のマネージャーがいたように記憶している。
この日は、一時間30分のポスター討論を終えた後で、二人の兄とY田先生と一緒にご飯を食べに行った。留学中のI先生の強い希望により、アトランタ郊外にある焼き鳥屋へ行った。アトランタの焼き鳥屋「JINBEI」には、入り口に赤提灯がつるされていて、店内には演歌が流れていた。小鉢に盛った塩辛をつついたり、焼き鳥を歯でしごきながら熱燗をすすると、まるで日本にいるみたいだった。インディアナには焼き鳥屋が無いそうで、I先生はとても喜んでいた。Y田先生も、2年前に留学から帰ってきたばかりなので、話の内容は留学中の生活や仕事についてのことが多かった。
2時間ほどの食事を楽しんだ後で、タクシーでダウンタウンに戻ってきた。近くのホテルに泊まっているO先生が僕の部屋に遊びに来て、一緒にウイスキーを飲んだ。30分ほど話をして、O先生は帰った。楽しくてあっけない夜だった。感じたのは良い方のあっけなさである。