12月6日(火)
柿を持ってフリオが遊びに来た。
「このまえから『大佛供養』のお稽古が始まったんだ」
「謡曲か。いつ稽古しているの」
「運転しながらすることが多いね。下川先生に吹き込んでもらったテープを聴いて、それに合わせて謡うんだ。昨日今日は、『大佛供養』の小謡を繰り返し稽古してた」
「どうして謡を習おうと思ったんだよ」
「日曜日の朝にね、謡曲を口ずさみながら洗濯物を干したら気持ち良さそうだなあと思って」
「それだけ?」
「他に無いことも無いけど、まあそれが大きいかな」
「じゃあ、実際に洗濯物を干しながら謡ったりするんだ」
「いや、あまりしない」
「なんだよそれ」
「でも、時々はするよ。あと、実験中に口ずさむことが多いね。最近は、『メモリーグラス』か『ダンシングオールナイト』か『大佛供養』だね」
「なるほど。あ、そうだ。柿食べようよ」
「うん」
僕は柿を包丁で剥いて、八つに切り分けた。それをガラスの皿に盛り付けて、ビールと一緒に出した。柿の中にはこげ茶色の種が入っていた。
柿は甘かった。甘い柿はビールとあまり合わない。甘い柿は、蜂蜜をかけてデザートワインと一緒に食べると美味しい。
「うまい柿だね」
「柿ももう少しで終わりだね」
「先生の謡を聴いているとね、不思議な感じをうけることがある」
「不思議な感じって?」
フリオはそう聞いてから、柿を口に入れた。
「うん。先生はこちらの体が振動するほど大きな声で謡っているのにね、部屋の中がとても静かなんだ。そして、謡っている先生の体と、周りの空気との境界線がなくなる。謡っている人間はそこにありありと存在しているのに、身体と空間を隔てる境目が消失するんだ」
「それは、謡っている人間が周りの空気を自分の色に染めているということ?」
「そういう言い方もできるかもしれないけど、感覚としてはもっと控えめなものなんだ。周りを自分の色に染めるというよりも、周りに溶け込んでいくような感じだと思う」
「能は難解だな」
そう言うと、フリオは立ち上がった。
「じゃ、またね」
「柿をどうもありがとう」
玄関を開けると、冬の冷気が家の中に入り込んできた。