8月28日(土)
4日間にわたるセミナーも今日が最終日となった。
朝5時前くらいに窓の外から大きな音がして目が覚める。ベッドから起きあがって外の
様子を見てみると、夜通し酒を飲んでいたと思われる数名の参加者たちが、奇声をあ
げながらホテルのプールに飛び込んでいた。
セミナーの参加者は僕のように初参加の人間が多いのだが、中には何度も参加してい
る人もいるようだった。こういうリピーターたちと、事務局をしている研究者たちが
一緒になって宴会を夜通し盛り上げるのがこのセミナーの習わしになっているらしい。
僕は常連顔をしている人たちとはあまり近づかないようにして、一昨日も昨日も懇親
会場の隅の方でこっそりビールを飲んでいた。
何人かの人たちと研究や普段の生活について軽く話をした後で、話し相手がいなくな
ると、部屋に帰って本を読んだりしていた。同室のKさんは僕より少しだけ社交的な人
のようであり、いつも僕が部屋に戻ってから1時間か2時間たった後で部屋に戻ってき
た。
プールサイドに出てきている連中には女性も数人混じっていて、はしゃぎながらプー
ルに飛び込んでいる男の子(男の子と呼ぶことがすでにはばかられる年齢の者も少なか
らず混じっていたが)たちの姿を眺めたり、手や足をプールの水に浸したりしていた。
騒音で、まだ起きたくない時間に無理矢理起こされたことはとても腹がたったし、い
い歳をして、「若者が夜通し騒いで、プールで締める」というありきたりの青春ストー
リーを恥ずかしげもなく演じている男女の姿はあまりにも痒々しかった。
眠くて不機嫌だったし、もし僕の手元にロケットランチャーがあったら、プールをめ
がけて打ち込んでいたかもしれない。でも、とっても不思議なことなのだが、僕は彼
らのことを心の底から憎むと同時にどこかで許していた。「よかよか。ちょっとくら
い騒いでもよか。楽しんでおきなはれ」という気持ちになっていた。
セミナーへの参加者は基本的に1研究室から1名ということになっていて、知り合い同
士で群れるということが許されない。
誰も話し相手がいないものだから、僕のようなひねくれ者を除いて、多くの参加者は
お互い見ず知らずの人たちと、ためらうことなくどんどん話をして友達になっている
ようだった。
普段自分に張られている「できる人間」とか「だめ人間」のようなレッテルから解放
されて、わりと自由な気持ちですいすいと新しい友達を作っているように見えた。
そう思うと、普段、研究室では周りの目を気にしたり、研究上の細かい利害関係なん
かのために、素直に異性と仲良くできないまま、ずるずるとオンゴーイングで年齢を
重ねている男女が、年に一回くらい信州の山の中で恥ずかしい青春芝居をしても許さ
れるような気がちょっとだけしたのである。本当にちょっとだけだが。
腹が立っている方の僕は、同じホテルに宿泊していたゴルフ旅行の中年男性を装って、
窓の外に「おめーら、静かにしろ」と叫ぼうかと考えていたが、僕は声が高いので中
年を装うことは難しく、叫んだりしたら絶対に僕だとばれると思い、断念した。
すっかり目が覚めてしまったので、朝風呂に入りに行こうかとも思ったが、プールに
飛び込んだ後、当然風呂に入っているだろうと思われる酔っぱらい青春野郎どもとは
会いたくなかったので、仕方なくベッドの上で本を読みはじめ、いつの間にかまた1時
間ほど眠った後で、6時30分くらいに露天風呂に入りに行った。
風呂は、脱衣場におじさんが一人いるだけでとても静かだった。寝ている間の汗を軽
く流してから、誰もいない露天風呂に入った。
露天風呂の屋根の隙間から見える雲量4くらいのきれいな青空を見ながら、僕はもう一
生、この露天風呂に入ることはないかもしれないなあと思ったり、ずるずると馬齢を
重ねているのはいい年をして青春芝居を演じていたあいつらだけでなく、僕だって同
じだよなあなどと、言葉にもならない感じで考えながら、「ういー」と唸ってみたり
した。
僕は、人間というのは、ほんの一瞬の間に、全然違うことを考えることができたりと
か、それとともに唸ってみたりとか、同時にいろいろなことができるすごい生き物だ
なあと思う。なにも、オリンピックに出ている人だけがすごいわけではないと(ちょっ
とだけ)思う。
この日は午前中に8題の口演発表を聞いた。これでようやく全日程が終了である。最終
日の内容が一番面白かった。アポトーシス関連の話、肝細胞の分化成熟の話、マウ
スES細胞から脂肪細胞への分化の話などなど。
新しい情報を得られたことはもちろんだが、研究一筋でやっていこうという若い研究
者達の姿を間近で見られたことが、僕にとって、今回のセミナーで得られた一番大き
な収穫だったように思う。
当然、前からわかっていたことではあるのだが、実際に会った若い研究者達の研究に
関する知識や、思考の組み立て方、そして心構え(というか覚悟のようなもの)は、僕
のそれとは全く次元が違うものだった。
僕のように医者をしながら研究をしている人は沢山いて、それはそれで意義があるも
のだし、そういう立場でしかできない素晴らしくて、格好いい研究もあると思う。
しかし、他に逃げ場がないところで研究を続けていくというのは、職を得るという意
味でも、仕事を仕上げていくという意味でも本当に大変だと思う。おそらく彼らから
してみると、それは研究者として当然のことであり、たまたま彼らの研究分野と近い
ところに医者がいたというだけなんだろうけれども。
僕は医者をしながら研究をする人間としても、まったくコンピテントとは言えない者
であるわけだし、いつまで研究をできるかもわからない訳だが、ひょんなきっかけで
僕のような人間が、このような場所に紛れ込んで、ちょっと太刀打ちできないなあ、
と感じさせるような人たちと同じ時間を過ごすことができたのは本当によい勉強になっ
た。
僕は大学院を来年の春に卒業するのだが、この先どんな感じで仕事をしていくかとい
うことについてはあまりちゃんと考えていなくて、というか、考えても答えがわから
ず、「バッキーのおじさんじゃないが、やっぱ、いきがかりじょうだよな」などと思
いながら日々酒を飲んでいる。
セミナーに参加して、他の参加者達を天文部員だとからかってみたり、頭がいいなー
と褒めてみてたりしても、僕の将来について何らかの答えが見つかるわけではないし、
むしろ、いろんなことがしてみたい僕のような人間は結局、こんな風にやっていくし
かないよなあ、目の前に現れた仕事やお酒のグラスを丁寧に平らげていくしかないの
だなあと思ったりする。
そう思うと、なんら新しい答えは得られていないのに、ほんの数日前とはちょっと違
う高さから自分を取り囲んでいるものを見ているような気持ちになるから不思議だ。
恐るべし信州幽閉セミナー。
ポインセチアの葉脈をめぐる血は
ヘモグロビン合成で鉛色に輝き
ウツボカヅラに捕らわれた虫は
白いふと腿の血とともに溶ける
ローライズのジーンズからはみ出した尻は
青い下着が洗濯ですり切れていて
ほつれかけたレースのふちどりが
怖がらなくていいのよとささやいている