プロ野球読売の阿部監督が家庭内暴力を理由に逮捕されました。東京ドームでの対阪神戦三連敗の直後でした。野球で負けていちいち子供に手を上げていたら、大阪には児童相談所がいくつあっても足りまへんがな......などと混ぜっ返す気はありませんが、深刻な問題でありながら、どこかコミカルな事件です。
正義の基本設計図
「どんな状況でも暴力はいけない」......現代社会の基本ルールのひとつでしょう。「親は子供に、どんなことをしてでも教えなければならないことがある」......子育てをしたことのある人なら、おそらく賛成してくれると思います。でもこの2つは相容れません。「子育ての矛盾」と呼びましょう。
矛盾を解消するだけなら簡単な方法があります。あらゆる暴力を解禁してしまえばいいのです。実際、野生の世界では弱肉強食です。そして何億年もそのシステムが回っています。人類についても、本格的な「万人の万人に対する戦い」にしてしまえば矛盾はなくなりますが、そんな社会に住みたいとは思いません。そもそも、そういう状態を社会とは言えないでしょう。
暴力の制御は社会の本質的部分です。どういう暴力を容認するかというのは、必要な価値判断ですが矛盾の温床にもなります。反戦論や死刑廃止論は、現状では公認されている暴力に異を唱える議論で、言い換えれば矛盾との付き合い方を変えようという話です。だから、それらを正しいとか間違っていると言っても、あまり意味がありません。
社会的矛盾の解決方法の体系、すなわち正義の基本設計図をイデオロギーと言うのでしょう。同じ土地でも可能な都市計画が複数あるのと同様に、イデオロギーも多様であり、相互に矛盾しあっていて、よく揉めます。
現実の問題に、いきなり外部から生のイデオロギーを持ち込むと、あちこちで新たな矛盾が発生して混乱やら反発やらを招き、必ず状況を悪化させます。この長屋の大家さんの口癖のひとつ「原理の問題ではなく程度の問題」というのは、イデオロギーを安易に振り回すことへの、戒めだとも言えそうです。
豊かさで忘れられたこと
昭和の時代の話ですが、元将棋名人の米長邦雄氏は「すべての子供は体罰を受ける権利がある」という名言?を述べておられます。別に親による全てのDVを肯定している訳ではありません。「子育ての矛盾」への対応が暴力否定の方向に寄りすぎているのを、修正しようという意図があったことは確かでしょう。この時代には、こういう話は程度の問題として解決することへのコンセンサスがあったのでしょう。
さて、令和の現代。普段はうるさいの球界一の御意見番も、この事件には、散々歯切れの悪いコメントを残したあげく、チーム内での教育の話に話題を変えています。差別や暴力など、政治的に正しくないものは、程度の問題ではなく原理の問題として、完全に排除してしまおうというのが常識化しています。「程度の問題論」をあからさまに言うと、それだけで公の場から排除されます。どうやら、数ある近代的価値の中で言論の自由だけは、原理ではなく程度の問題として扱うことが決まっているようです。
正義の原理化は人権の堅牢化という意味では良い事なのでしょう。また、人間が豊かになり余裕ができたことの成果のひとつなのでしょう。自然災害や肉食獣、あるいは家族以外の人間からの攻撃によって乳幼児死亡率が高かった時代には、子供が危険なことを始めたら殴ってでも止めさせるのが正解でした。やさしく言って聞かせているうちに、我が子は波にさらわれ、虎に食われ、拉致されて奴隷にされてしまうでしょう。
あらゆる人権が理想に近い形で存在可能になったのは、土台に豊かさ有っての話なのです。その代わり、そうなると「子育ての矛盾」のような不都合な真実は、多くのひとには忘れられるようになります。けれども、今回の事例のように、大きな災害や今回のような社会システムにほころびで、いきなり矛盾が噴出します。原理ではなく程度の問題として解決する知恵が失われた社会では、これはかなり危険なことです。
巨人・阿部慎之助監督が辞任 広岡達朗氏は「残念で仕方がない」と語る 「親が子の間違いに怒るのは当然。暴力は間違い」「同じようにチーム内で選手を叱り、育てられていたのか。私にはそうは思えない」,週刊ポストセブン,
https://www.news-postseven.com/archives/20260526_2111814.html?DETAIL
ある「原理」主義者のコメント
「子育ての矛盾」を無理矢理に、原理の問題として解決しようとして支離滅裂になった例がみつかりました。「児童虐待事件にくわしい飛田桂弁護士」のコメントです。
巨人・阿部慎之助監督の暴行事件、児相・警察の迅速対応も「長女」に批判の声...児童虐待の専門家に聞く,弁護士ドットコム,塚田賢慎 ,
https://www.bengo4.com/c_1009/n_20455/
おそらくインタビュー取材の切り抜き記事ですから、ニュアンスなどはもしうまく表現できていなくても仕方有りません。突然コメントを求められ、専門家としてはこうとしか答えようが無いかったのかも知れませんが、それにしても私から見れば卑怯かつ無責任なコメントに見えます。申し訳ありませんが、笑えるレベルです。
「親から子どもへの暴力が、きちんと第三者に対する暴力と同等に受け止める力を全国民が持つことが求められています」
「求められています」というのが、50年ぐらい前からある定番の無責任スタイルです。どこの、誰が、どういう理由で「求め」ているのでしょうか。私も一応日本国民ですが、求めた覚えも求められた覚えもありません。
「きちんと......受け止める力」という表現も鳥肌ものです。「本当に同等に受け止めるべきなのか」、という本質的な議論を省略して、「力」の問題にしてしまう......つまり「きちんと受け止められないのは力(=能力)のない劣った人である」という判断を、すり込もうとしていますね。でも、ここまで露骨だと、憤りよりも気色悪さを感じます。
もう少し内容に踏み込みましょう。今回の事件が議論を巻き起こしているのは「親から子どもへの暴力が、きちんと第三者に対する暴力と同等」とは言い切れないと、多くのひとが思っているからです。もし、被害者が第三者(たとえば同年齢の巨人ファンの女性)だったりしたら、逮捕後すぐに釈放した警察の対応は、「有名人への忖度」と言われ、非難炎上していたでしょう。
普通に考えれば、親子と第三者は「同等」ではないのです。けれども同時に、暴力の重大性は加害者や被害者の立場とは無関係です。こういう「子育ての矛盾」から逃げておいて、上から目線で無難なイデオロギー表示しておく。控えめに言っても卑怯で無意味なコメントですが、......まあ、面白いから引用を続けますか。
「本来、子どもの安全に関する通報・通告窓口が、一元化されていないこと自体が大きな問題です。
今回のように刑事事件化する可能性があるケースでは、結果的には、警察への通報のほうが迅速かつ強い対応につながります。ただし、子どもにとって、いきなり警察に連絡することは心理的ハードルが高い。
その点、児童相談所は子どもからのSOSに慣れており、比較的アクセスしやすい存在です。」
通報窓口が「一元化されていない」と批判した直後に、「迅速かつ強い対応」の窓口と「比較的アクセスしやすい」窓口、を使い分ける話が出てきます。わざわざ御自分で矛盾を追加しておられる訳ですね。
今回の問題は話が逆です。警察への通報を明らかに望んでいなかった被害者が児相を選んだのに、結局警察に話が行ってしまった。窓口が別でも結果的に処理が「一元化」されたことが問題なのです。ある意味でコミカルな展開になったのも、これが大きな原因だったと思います。
「今回は、児相が迅速に対応したことで、深刻化を防ぐことにつながったと思います。」
確かに「迅速」ですが、児相がかなり無神経に対応したため問題が「深刻化」しました。だいたい、放っておいても「深刻化」などしようがなかったんじゃないでしょうか。
「海外でも、自分の子どもへの暴力は、第三者に対する暴力よりも軽く受け止められがちな傾向があります。その中で、児童相談所や警察が、家庭内の暴力であっても第三者に対する暴力と同等に対応したことは、素晴らしかったと思います。」
タリバン支配下の原理主義家庭やアマゾン奥地の狩猟民も含む「海外」ですか......などと野暮は言いませんが、欧米「先進国」(これだって多様性がありますから一括りにするのは無理でしょ)を想定しているのなら、はっきりそう書くべきです。
一般的に「海外でも」というのなら、あえて人類共通の見解に反する判断を、勇敢にもわが日本国の児相や警察がしたことになります。こんな褒められ方をされては、関係者は迷惑極まりないでしょう。
「素晴らしかったと思います。」......通報者が望まない大事件なったせいで、家族全員が必要以上に傷つき、警察や児相の信用がゆらぎ、そして本物の暴力被害者が相談しにくくなりましたが、こういう副作用に全く思いが至っておられません。つくづくお気楽な方ですね。司法や行政システムの限界と不備が露わになっているのに、法律家として遺憾に思うどころか、「素晴らしい」ですか。
しかし、日本でも、親から子どもへの暴力を「家庭内のこと」と矮小化せず、きちんと第三者に対する暴力と同じように受け止める視点が求められています。
もう一度言います。「子育ての矛盾」に対しても、従来以上に「暴力絶対禁止」のイデオロギーを適応しようとするのは一つの見解です。賛成はしませんが、有力な意見として耳を傾けるつもりです。けれども「私は......求めます」と責任をもって書けばいいところを「日本でも......求められています」などと上から目線を維持したまま逃げを打つ。こういう卑怯さや格好悪さは、「やはり法律家は杓子定規でよくないよね」という乱暴な「常識論」を強化して、体罰教師やDV親父を勇気づけかねません。人権思想そのものにまで泥を塗っているとさえ思います。
AIが生成したコント
今回の事件が大きく議論されている最大の原因がAIの関与です。深刻な問題でありながら、どこかコミカルさが拭えない原因にもなっています。
報道によれば、被害者の女性は最初AIに相談しました。この時点で、もともとの親との関係、暴力を受けた経緯、受けた暴力の内容が過不足なく入力されていたのでしょうか。ここいらへんは、もし最初から警察に相談したのなら、丹念に聞き取りが行われるはずです。この種の状況をスマホで描写するのは作家でも無い限り難しいでしょう。
AIの側だって事例が少なく対応が洗練されているとは思えません。AIが止めたせいで通報が遅れて殺された事例など発生するといけませんから、安全率を考えれば通報するほうに誘導するはずです。
児童相談所の担当者にも同情します。ただでさえ人手不足の深夜に、訪問はもとよりあまり時間をかけて話を聞く事も難しかったでしょう。経験的な職業上の感で対応を決めるしかありません。その際、「深夜、子供がわざわざ児相に連絡してきた」という事実は有力な判断材料になるでしょう。問題は、「匿名だからとAIに促されて」ということを、どの程度考慮したが、やはり最悪のことを考えて、また公務員の原則として、警察に回す事になります。
一番責任が重いのは現場の警察官でしょう。状況が一番よくわかるのですから。けれども、「本人が児相に相談した」という事実が重くのしかかります。防犯相談を受けていながら発生してしまったストーカー殺人などの事例が影響したのかも知れません。説諭だけして引き上げた後、重大なことになったら警視庁全体の責任問題です。
被害者が児相や警察に通報したということが、加害者の心理に悪影響を残している可能性もあります。やはり、大事をとって逮捕ということになったのでしょう。だから、大丈夫そうだとわかると速攻で釈放されました。結果的には逮捕は行き過ぎだったことを認めたようなものです。でも、それでいいのです。
関係者の誰もが、間違った判断や極端な選択をしたわけではないのでしょう。私がそれぞれの立場だったら、おそらく同じことをしていたと思います。けれどもその結果、国民の多くが不当だと思うような事がおこってしまいました。報道サイトへの圧倒的多数のコメントや各識者の発言からも、「今回はやり過ぎ」というのが常識的な見解だと思います。
全文 巨人・阿部監督の娘が手紙で説明「父が警察に連行された姿見て泣き崩れてしまいました」電撃辞任,サンスポ,
https://www.sanspo.com/article/20260526-3SN7APA3LFDL5OVMB45IWLDKDM/?outputType=theme_giants
技術的な意味での原因は、最初に時点でのAIの関与の影響を誰もが処理できなかったことにあると思いますが、それでも関係者を非難する気にはなりません。AIを作る側もそれに対応する側も、あまりにも事例が少なく判断が難しい状況で、全員が少しずつ過剰に反応することで大事件になってしまった訳です。
落語やコントの定番パターンに、「些細な問題が誤解によってエスカレートしていく」というのがあります。落語なら「金明竹」か「あみだが池」、コントなら「ゴキブリを殺した話がいつの間にか殺人事件のようになる」というようなやつです。AIが関与する事で、普段は常識的に働いているシステムが誤動作した......というのが、今回の事件のコミカルさの原因だと思います。
原理主義の欺瞞が加速する少子化
もうひとつ。あえて大きな論点を指摘しておきましょう。今回の事件当時、阿部監督の巨人は、東京ドームでライバル阪神に三連敗した直後でした。野球に限らずプロスポーツというものは、勝ったり負けたりするものです。スポーツ観戦に限らず、ゲームやギャンブルなど勝負事は、敗北の痛みがあるからこそ娯楽として成立しています。昔阪神が本来の弱さを発揮していたころ、甲子園で(巨人が)勝ったり(阪神が)負けたりするのを見て、ファンは選手・球団・監督をボロクソに言いながら楽しんでいました。
けれども、負けの原因をつくったとされる選手や指導者を本気で詳細に分析して非難し、人格までも否定するとなると話が変わってきます。「怠惰だから体が動かない、弱気だから打てない、軽率だから打たれた」......親しくもない他人が言う事ですか。これはスポーツの世界だけではありません。
経済成長が頭打ちなゼロサムゲーム社会で成果主義を持ち出すと、多くの職業人は常に非難されている事になります。なにせ普通は「勝ったり負けたり」ですから。そして負けるたびに人格を否定されていたら、社会全体のストレスが限りなく増大してしまいます。
社会から余裕が消えて、縄文以前の野生時代や戦中戦後の貧困時代に似て来たとも言えます。こうなると「子育ての矛盾」から目を背けて擬似的に「原理の問題」として解決できる幸せな欺瞞が、少しずつ通用しなくなるでしょう。これからは一層、家族間の暴力に関しても、程度の問題として事例ごと場面ごとに丁寧に判断される知恵が求められるはずです。
ただし、もうひとつ別の「解決方法」もあります。子供さえ作らなければ「子育ての矛盾」に、自分ごととして直面することはありません。他人の子育てを程度ではなく原理に基づいて非難する事も可能で、誠に賢い生き方です。多くの若者が家族を持ちたがらない理由のひとつでしょう。わざわざ非難される側に回るには、相当の覚悟がいります。
今回の事件で、ジャイアンツの若手が「野球で食えるようになったら結婚して子供を作ろう」と、以前ほど思わなくなったとしたら、大変悲しく困った事です。けれどもこうした傾向は、他球団や他のスポーツにも留まらず、じわじわと若者全体にひろがっていくでしょう。