萩生田光一という政治家を、私は心底嫌っています。T教会の件でも裏金の件でもありません。個人的な恨みがあるわけではありません......それどころか面識もありません。この人の失言(つまり本音の漏洩ですね)が、ある言葉の意味を変えてしまい、教育について世間の認識まで動かしてしまったからです。
2020年、当時の萩生田文部科学大臣は、民間英語試験の大学入試への導入で、生まれた家や住む地域のせいで不利になる受験生に向かって「身の丈に合わせて」「勝負して頑張れ」とおっしゃいました。
確かに「身の丈」は存在するが
もともと受験の世界で身の丈と言えば、基礎学力のことでした。「高二にもなって因数分解が怪しいんじゃ医学部は無理。もっと身の丈にあった進路を考えなさい」......これだって随分と嫌な言い方です。努力や成長への期待の簡潔な全否定だからです。
けれども、子供たちに勉強を教えたことがあればわかると思いますが、この意味での身の丈の存在は、残念ながら無視できません。持って生まれた才能(のようなもの)プラス、その子の気持ちが勉強に向かっている度合いみたいなものに、ひとりひとり大きな違いがあるのです。
ただし、背丈と同様に身の丈も、いつの間にか伸びたりもします。勉強に興味がまるでなかったニキビ面の少年(たいていは部活か恋愛に熱中)が、受験などをきっかけに目つきまで変わり、大きく伸びることもよくあります。何をやっても平均点という地味なタイプの女子が、あたかも日々伸びる植物のように、学年が終わってみればクラス1の優等生に成長していることもあります。
こういうことがあるから教員は止められないのです。「いつもいつも入学時の学力差が卒業まで維持されるんやったら、アホらしいて教育なんかやれるか」とおっしゃっていたのは数学者の森毅先生でした。
萩生田氏の「身の丈」は、これとは似て非なるものでした。確かに初期条件という点では似ています。けれども地域や家庭などの教育環境を「身の丈」というなら、それは本人の適性や基礎学力とは違って、限りなく平等にしなければならないものです。教育行政の最大の存在意義はこれです。明治維新直後、全国津々浦々の町で小学校が建てられ始めたのは、帝国大学の開学なんかよりも前のことです。
そんな我が国で、時は流れ文部科学大臣が環境格差に「身の丈」という言葉を与えてしまい、政治が責任もって是正すべき教育機会の格差が、「あまり良くはないが、除去できないもの」という現状の一部になってしまいました。確かに、悪気はないのでしょう。タブーだった問題の存在を口にしただけだったのかも知れません。本質的には格差のもたらす人の痛みに無頓着な大臣を、引きずり下ろせなかった私たちの民度に問題があったのでしょう。でも、私個人はそんな政治家をどうしても許す気にはなりません。
教育のトリレンマ
世界中の自由主義国で教育をめぐる格差が拡大しています。背景にあるのが教育のトリレンマというやつです。トリレンマとは大切な目標が3つあるのに、そのうちの2つしか実現できない状況のことで、ここでは「自主性」「能力主義」「機会の平等」の3つの目標です。分かりやすくするために、かなり厳密性を欠く表現をあえて使っていますがご容赦ください。順に見ていきましょう。
まず、「自主性」と言っても、本人のものではなく実際は親の教育方針ということになります。「きちんとした基礎学力を身につけさせるため、小三から塾に入れる」とか、「のびのび育てるのがわが家の教育方針。勉強は本人の自覚に任せる」とか言うやつです。「板前に学問はいりまへん。学校行ってる暇があったら鍋のひとつも洗いなはれ」とか「この子はできちゃった子なの。将来に興味はない」などという極端なもの以外は尊重するのが常識になっています。ただ、悪しき親ガチャ格差の根源のひとつであることは認めざるを得ないころです。
我が国では、「能力主義」はあまり評判のよい言葉ではありません。だから、事実上の高校全入なんてことになっています。けれども、たとえば必修科目である数学Ⅰ程度の数学力を身につけた生徒は、高校卒業時点で半分もいないでしょう。大学に関しては輪をかけた状況です。入学後に分数を指導する経済学部や、アルファベットの補習をする西洋文学科は、今ではニュースにすらなりません。はっきり言って入試以外の場面では、学校教育の能力主義はほとんど機能していません。
一方、「機会の平等」は、形式的にはかなり達成されていま......した。どんな田舎へ行っても、小中学校は最低限度のレベルは維持されていま......した。21世紀にはいる頃から、ずいぶん怪しくなっています。小学校低学年に手のかかる問題児が増えて、まともに授業ができないクラスが現れたり、保護者の権利意識が高くなり(それ自体は悪いことでは決してありませんが)状況次第でクレーマー化したり、政治家の恣意的な「教育改革」で教員の負担が増えたり。つまり、社会全般のツケが現場に押し寄せ、耐えられなくなって機能停止した学校がポコポコと出てきました。たまたま、居合わせた生徒はたまったものではありません。
「これはまずい」とばかりに、行政がてこ入れをしようとすると、まともにトリレンマにぶつかってしまいます。たとえば「自主性」と「能力主義」を重視すると、ある生徒がどんな教育を受けてどんな人生を歩むかには、親ガチャが巨大な影響を及ぼすことになります。現状はその方向に向かっています。学力上位層(メシの食える教育を学校で受けられる学力)の競争激化に、公教育のレベルがついて行けなくなり、「平等」は完全に形骸化していきます。
「自主性」と「平等」を最優先にしているのは義務教育です。小学校の授業が全く理解できなくても(たとえば、日本語のわからない子供)、たいていはイヤでも中卒までの学歴は手に入ります。逆に言えば、中学校卒業という学歴は学力に関しては何の意味もなく、個々の生徒の能力は完全に無視されています。教育というのは、広い意味での能力を高めることなのですから、この状況が高校・大学にまで拡大しても構わないとは、さすがに言いにくいと思います。
「能力主義」と「平等」......変な組み合わせであまり例がないのですが、たとえば資格などに結びつく専門性の高い教育はこれでしょう。医師の国家試験、文系なら司法試験、保護者にはもちろん本人にも「何を学ぶか」について自主性は完全に無視される一方、能力は平等かつ厳格に評価されます。もっと分かりやすいのは自動車学校です。これらは社会の安全というものを守る最後の砦でもあるのでしょう。
格差社会の安定姓と限界
最初の荻生田流「身の丈」は、「平等」を断念することでトリレンマを破り、「自主性」「能力主義」を最大化しようという、見ようによっては常識的でつまらない教育観が肥大化したもので、短期的には極めて合理的な教育システムが作れます。
教育コストの大部分は保護者が負担します。負担できない......あるいは負担する気のない保護者の子供は無視しても大丈夫です。社会の指導者や高度が技術教育を受ける専門家は、一定数以上必要ないからです。
たとえば、医師不足と言いますが、見ようによっては医療より生産性の低い産業はありません。全ての人間はいずれ死ぬのですから、壮大な時間稼ぎというのが医療の本質です。だから患者さん側の期待値を下げることができれば、社会は医療の量や質の低下に結構な耐性があり、無理して恵まれない子供を医師に育てるコストは不要なのです。
だから、入り口を事実上「世襲+α」ぐらいにしておいて、極端なハズレ(性犯罪に専門化した医学生とか)を潰していけば、必要かつ「不十分」な数のエリートは確保できます。
長く安定した社会システム(帝政ローマやら幕藩体制)には、必ず世襲の要素が含まれていて、それが過不足なく機能していました。けれども、世襲という名の安定格差を維持して「平等」を無視することで、トリレンマを解決してしまうと、長期的には重視したはずの「自主性」や「能力主義」も失われていくことになります。
「平等」が損なわれれば、多様性はどんどん低下します。「自主性」と言っても世襲に近い連中は、良くも悪くも同じようなことを考えて、同じような事をして、同じように躓きます。変なヤツは構造的に矯正され、もっと変なヤツは排除されます。こうした社会は安定はしていても、変化には極めて弱くなり、「ゲルマン民族」やら「黒船」がやってくれば呆気なく引っくり返ります。
「自主性」よりは「能力主義」はまだしも確保されそうです。「世襲+α」の中でも、一定の競争は維持されるからです。国家試験が医師の質を、司法試験が裁判官の質を維持しているのは事実でしょう。けれども、このやり方が通用しないのが起業家・発明家・研究者の世界です。
ずば抜けた才能を持った人間はたいてい変で困ったやつです。というか、付き合い切れない人間です。たとえば、ニュートンやテスラーが晩年にオカルトに走ったのは有名な話です。また、エンゲレスなくしてマルクスなし、ケッヘルなくしてモーツアルトなし。天才には、世間と本人との間のクッションになる良い伴走者が必要だったりします。いずれにせよ、天才は絶対に自分の身の丈など考えません。だから、身の丈を無視できる環境でしか生育できないのです。
身の丈をわきまえるべきなのは
身の丈という思想は必要悪なのでしょう。「オレには無限の可能性がある」と本気で信じていたり、信じることにしがみついている若者ばかりになったら、それはそれで困ったことになります。
相撲や芸事の世界で、師匠の大きな役割のひとつに、ダメな弟子に身の丈を自覚させるということがあります。昔風に言えば「クニに帰って百姓やれ」というやつです。日本人の大部分が食料生産をして社会を回していた時代(漁師や猟師も百姓の一種)の話です。「地道に社会に貢献する側にまわりなさい」というのは、どんなに虚しくて後味が悪くても必要な指導なのです。
けれども、弟子がこれに納得できるのは、絆と呼べるレベルの信頼関係があるときだけです。アカの他人に上から目線で、自分には責任のない教育環境を「身の丈」と言われても、反発しか感じないでしょう。
荻生田氏は旧アベ派の重鎮として、今でもおそらく総理総裁の座を狙っていると思われます。けれども、カネやらツボやらで次から次に問題をおこし、政権与党をまるごと泥まみれにした上、自分ではケジメをつけることも出来ないような人です。日本のためにも本人のためにも、誰か強い絆のある方から「身の丈をわきまえなさい」と、言ってももらえることを祈るのみです。