平均的な日本人と比べて、自分は宗教というものに寛容な方だと思っています。元科学者である一方、ローマカトリックの信者ということになっていて、「誰しも、今の科学ではわからない問題や本質的に科学で扱えない問題に直面したときには、宗教的な思考にすがるものだ」などと思っています。
学生時代、ある教授が「自分は大事な事を決めるのに感情に流されないようにしている」とおっしゃったので、「そう考えておられる理由は感情ですか」と聞き返して嫌われたことがあります。
理性のみでは処理できないことや、理性に飽き飽きしたときなど、人は感情で動きます。その感情を体系化して共有するものの一つが、宗教なのだではないでしょうか。
と、いつになく高尚な書き出しですが、それゆえに私には、理性的にも感情的にも忌み嫌っているものがあります。布教活動です。たいていの宗教は信者を増やすための仕組みがあります。というより、それを持たない宗教は、短期間で歴史の闇に消えて行ったのでしょう。
けれども、不特定多数、たいていの場合、その場であったばかりの他人に、いきなり自らの信仰について熱く語る、新興宗教風の『布教』には違和感を覚えます。第一にみっともないから、第二にインチキ臭いから、第三に面倒臭いからです。今よりさらに血の気の多かった学生時代には、随分とトラブルがおこりました。
君、人生について考えた事ある?
花も恥じらう新入生当時、露骨にキャンパスで布教していた宗教(なのかな)団体に、歎異抄研究会というのがありました。彼らは出会った人にいきなり「君、人生について考えたことある?」と話しかけるのです。たいていの相手は「いいです」とか「急ぎますから」とか言って去っていきます。
しかし逃げるということは、宗教というものに対するリスペクトの少ないやり方です。私は、どんなに忙しくても「やかましわい。黙れ。殺すぞ」と応答することだけは心がけていました。時間のあるときや機嫌のよいときは、「はい。人生について熟慮した結果、あなたの人生を今すぐ終わらせることにしました」と静かに言い渡し、ニヤニヤしながら胸ぐらに手を伸ばしました。「宣教師」たちは飛んで逃げていきます。
もっと暇で暇で困っているときは、「今考えていました。でも、君が声をかけたせいで、ひらめいた人生の真理を忘れてしまった。それがあれば何億という人が救われるはずだったのに、どうしてくれます。全人類にあやまりなさい」などと、ネチネチ絡みました。
見ず知らずの相手の人生にいきなり介入しようという、非常識な試みをしてきたのですから、どんな対応をされても文句は言えないでしょう。
必殺、邪宗拳
戦後の邪教大賞確実な統一教会もいました。けれども、組織的に私の悪評を把握していたのか、滅多に相手にしに来ませんでした。
たまに近寄ってくる信者は、なぜか私がカトリックと知っていることが多く、「きみの教会は罪深い歴史を持っている」などとお節介なことを言いだします。「おお、そのとおりや。だいたい原罪があるから人間やというのがわしらの教えや。魔女狩りの時には無実の娘を何万人も火あぶり......あれは熱いぞ。十字軍は地中海沿岸の街を、次々と焼き払った。どや、うらやましいやろ。お前らも、もっと血なまぐさい歴史を積み上げてから来い。いっぱしの邪宗と認めてやろう。邪宗門はいいぞ、北原白秋も歌っている。邪宗ぅ~すぅ~るなら、こういう具合にしやしゃんせ」人だかりが出来ました。相方にされた宣教師君は困った顔をしていました。
謡曲「鶴甲」
ワークショップ型の布教といのもあります。一番多いのは、「平和のために鶴を折って下さい」というやつです。いろんな宗教がやっていたようです。折った鶴を受け取りながら募金を求めたり、集会へさそったりするのですから、あまり気持ちのよいものではありません。
30年以上前の神戸大の友人と正門前で待ち合わせしていたときに、声がけされました。銀縁メガネ、女子校の生徒会長あがりみたいな、小学校時代から苦手としていたタイプに迫られ、思わず引き受けてしまいました。
20年ぶりぐらいの、しかも立ったままでの折り紙です。しかも恐ろしい事に、わたしはそれまで鶴を完成させたことがなかったのです。
悪戦苦闘、時には全部ほどいて一枚の紙にもどして5分経過。怪訝な表情が見えました。私がもだえ苦しんでいる間、他の通行人は寄りつきませんから、鶴は一羽も増えません。10分経過、舌打ちが聞こえてきました。「ほんとに日本人なの」......みたいな独白も。15分経過、ついに「もういいです」と一言。私の手から白い固まりを取りあげ、丸めて公衆便所前のゴミ箱に投げ込み、女子宣教師は去っていきました。
普通は「お持ち帰りになって、ゆっくり仕上げてください」とか、取りあげるにしろ「あとはこちらにお任せ下さい」とでも言うものでしょう。私は友人の待つ教室へトボトボ歩いて行きました。
その日から一週間、数学科幾何学専攻で折り紙が趣味という友人の下宿を訪ね、特訓を受けました。翌週、私はあの正門に向かいました。鞄には赤い色紙を一枚、友人から借りた「解析幾何学入門」に挟んで準備しています。あの宣教師は私にはもう紙をくれないでしょうから。
先週と同じ曜日、同じ時間帯、彼女は現れました。「先日は大変失礼しました。練習してきましたので」と言って作業開始です。今回は長々と「営業妨害」される恐れは無いにしろ、私が何のために現れたのか、よほど不安だったのでしょう。鶴を糸に通すための千枚通しを鞄から出して握りしめています。
異教徒の襲撃には差し違える覚悟。それがかなわず辱めを受けたら自害する気だったのかどうかしりませんが、こちらを睨みつけています。どうやらただ者ではなさそうです。私はというと、特訓の成果の「流ちょうな」手さばきを披露し続けました。
出来上がりました。私は宣教師のもとに歩み寄ると、「いくら鶴を集めて平和を祈ってもあなたには無意味です。これは心ばかり餞です」とだけ言い、あっけにとられている彼女の頭の上に、折ったばかりの赤い小さなカブトのせると、振り返りもせず去ろうとしました。
そのときです。足下に集められた色とりどりの鶴が一斉に羽ばたき、糸を振り切って大空に向かいました。後には大きな丹頂鶴が続きます。頭には赤い飾り羽根となったカブトが揺れていました。
その昔、京の都から福原へと落ち延びる平家一門のうち、清盛の三女で幼名を鶴女という数え十八の姫君が、源義経の三男義男の軍に追われ、この地で自ら命を絶ちました。その死顔のあまりの美しさに、義男は被っていた白い甲を供えたとの言い伝えがあります。赤い旗印の平家者にとって、白い甲の傍らでは浮かばれるはずもありません。
千年の時を経て取り戻した赤い甲を戴き、鶴姫はようやく往生できたのでしょう。爾来、あたりの山々は『鶴甲』と呼ばれ......ごめんなさい。創作に走って、フェイク歌枕まで作ってしまいました。平鶴女や源義男は史実にも平家物語に出てきません。「つるじょ」は上方落語『延陽伯』から、「よしお」は亡き愛犬の名前を流用しました。ちなみに、「前シテ」がトボトボと引き上げるあたりまでは、場所が渋谷であること以外、実話です。
施術のパラドックス
一時流行したのが「手かざし」です。相手の額に手のひらをかざして、パワーを送ったり、邪気を吸い取ったりするということなのですが......
悪友と二人で歩いていると、「あなたのために3分間祈らせて下さい。宇宙のパワーを送信します」と友人が声がけされました。瞬間、アイコンタクトを送ると「やるぞ」返事。「施術」が始まりました。30秒後、「ウッ、ウッ」と短いうめき声が聞こえ、悪友はノドをかきむしりはじめました。「大丈夫か」と背中を叩いた瞬間、「オー」と叫びながらしゃがみ込んでしまいました。
「オイ、お前。手かざし何年目なんや」と尋ねると、青白き術者は「い、い、一週間ほとです」と震える声で答えました。「連絡先教えてくれ。訴えるから。このままこいつが死んだら、実刑は覚悟しとけよ」と詰め寄っていると。悪友はフラフラと立ち上がりました。「とにかく病院へ行こう」と肩を貸して歩き始めると。「それじゃ僕はこれで」と、術者は一目散で逃げていきました。横で悪友は息も絶えだえの......大笑いです。
それにしても、その宗教団体はもし訴えられたら、どう答弁するのでしょうか。仮に、手かざしにそれなりの有効性があるなら、医師でもない者が不特定多数に施術をしていることの責任を問われるでしょう。だからといって、「手かざしなど医学的にはなんの意味もありません。そんなの常識でしょ」と一生懸命、主張するのでしょうか。
安易な布教すべてに言える事ですが、よく知りもしない他人に、軽い気持ちでいきなり深く関与しようとするのは、逆に自分たちの教えを軽んじているとしか思えません。
タブラ・ラサなど、なんぼのもんじゃい
これも布教の一種なのでしょうが、20年周期ぐらいで流行する自己開発セミナーというのも、同じ質のうさん臭さがあります。キーワードは「本当の自分探し」。長屋の大家さんは「修行の代替物」とお考えのようです。大部分は「修行の劣化コピー」と言った方が正確だと思います。
「アジアでは修業で、西欧では『本当の自分探し』で自己陶冶する」,AERA.com,2023/09/27/ 07:00,https://dot.asahi.com/articles/-/202304?page=1
私が『本当の自分』という考え方を嫌っている理由は、2つあります。ひとつは、今の自分自身を過大評価も過小評価もしたくないということです。
たとえば、私がこの文章を書くことが出来るのは、漢字仮名交じり文の知識とパソコンの電源を入れる技能を持っているからで、修行とまで言うのはおこがましいですが、幼少時よりいろいろなことを経験しながら身につけてきたものです。そして何より、親や先生方、先輩、友人、そして家族、時には教え子たちからの膨大な「おかげ」の上に乗っかっています。
これは全ての人間(もしかしたら脳を持った動物全て)について言えることです。それなの、見ず知らずの人間に、『本当の自分』より『今の自分』は劣るのだと評価して欲しくないというのが第一の理由です。
もうひとつの理由は、もともと『本当の自分』など、そんなに素晴らしいものなのでしょうか。タブラ・ラサ(生まれたときの白紙状態)と言えば聞こえは良いのですが、何も知らない何もできない人間を、そこまで持ち上げてよいものなのでしょうか。裏返して言えば、成長や成熟には価値がないのでしょうか。それどころか、『本当の自分』には、とんでもない可能性もあると思います。
ワイの「本当の自分」を見せたろか
大学院時代のことです。義理のある友人から、当時流行の「自己啓発セミナー」に来て欲しいと頼まれました。院入試勉強で英作文の添削をお願いした人ですから、すげなく断る訳にも行かず。まずはセミナーの幹部の人と、夕食を共にすることになりました。
曰く、自分たちのセミナーはいかにすばらしいか。来た人は皆、「本当の自分」にたち返り、すばらしい人生を送るようになる。とにかく来て欲しい。役に立たないと思ったら参加費は返すから。とのこと。私の天誅スイッチが作動しました。
「わかりました。行きましょう。丸一日潰れるのですから、バイト代下さい。家庭教師なんかの時給は5000円が相場ですから、8時間で4万。交通費込みで10万ほどいただいておきましょうか(どういうボッタクリ計算やら)。もちろん、内容が気に入れば、参加費と一緒にお返しします。それと、セミナーの前後1時間で良いですから、私にブースを開かせて下さい。参加者に壺や多宝塔を売りつけます。日本中からアホが数十人集まるのですから、とことん、むしり取りましょう。利益に1割はマージンとして寄付させていただきます」
「うちは物販はやっていません」
「そんな甘っちょろいこと言っているから、あんたのとこは、いつまでたっても統一教会に勝てないのとちゃいますか」
「そんなこと言わないで来て下さいよ。きっと本当の自分がみつかりますから」
「私のほんまもんの自己でっか。それやったら、セミナーは机と椅子が床に固定されている教室でお願いします。ゴリラのように凶暴な『ほんまの私』が暴れ出すかもしれませんから。筆記具の持ち込みは、クレヨン以外禁止して下さい。ハゲタカのように残酷な『ほんまの私』が、ペンや鉛筆を奪って、持ち主の眼球に打ち込むかもしれませんから。それと、講師を含めて女性には全員、当日までにピルを飲ませておいて下さい。猿のように好色な『ほんまの私』がDNAをコピーしたがっているでしょうから」つかみ合いにはなりませんでしたが、5000円のディナーは自腹になりました。やっぱり壺の一つも売っておくべきでした。
ちなみに、私はゴリラやハゲタカや猿のようなタイプの『自己』を全否定するものではありません。地球上に生命が誕生して以来、先祖たちが時には凶暴で残酷で好色だったからこそ今の自分がいるのですから。けれども、それらを『本当の自己』と言うのなら、無理矢理呼び出したり、平時に人前でお見せするものではありません。
むしろ、『本当の自己』が必要になるような本当の有事には、決して巡り会わないよう、いつも精進しているべきなのでしょう。有事大好きの私が言うのですから、間違いありません。