フジのヤマから昭和が見える ...... フジテレビ性上納事件で考える日本のメディア (その4)悪事まで劣化した令和日本

何度もしつこいようですが、私は性上納を含む昭和的なメディア企業のセクハラ容認体質を擁護するつもりはありません。過去のこうした問題に対しては、いろいろな意見があるにしと、今後もこの文化を温存すべきではないということでは、国民的社会的な合意があることも確かです。
 けれども一方では、こうしたシステムがなんのために存在し、どのように機能したかは善悪とは完全に切り離して議論しておく必要があります。邪悪なシステムを見つけたときには、その存在理由とメカニズムを解明して根本から対策をしておかないと、邪悪さは別のシステムとして復活してしまうからです。

プライベートまで管理したがる業界文化

 テレビ業界の性上納文化は、芸能人のプライバシーのなさが根本にあると思います。古くは宝塚、近年ではAKBなど、所属女性に恋愛を禁じているところはざらにあります。男性タレントに関しては明文化されていなくても、事務所の方針として恋愛は不可能な立場におかれがちでした。そして、そこをカバーするのが性上納文化だったのではないでしょうか。
 実際、女子アナの側でも上納されるとこでキャリアアップを目指していた人も、いなかったとは言えますまい。自由恋愛(つまり上納される側の拒否権)が完全に保障されているのなら、部外者が口を出す問題ではありません。ただし、圧倒的な力関係がある場では、自由恋愛とは社会的強姦の別名だったりします。
 けれども、こうしたおぞましさを一定程度容認するなら、上納される側にも余沢がある、それなりに機能するシステムでした。実際、こうしたシステムは昭和の芸能界を安定的に利益のあがる業界にするための一要素であったわけです。
 今回の奇妙な事件は、性上納廃止の不徹底によるというのが本質のように思われます。女子アナの性被害を避けるには、出演者や関係者から性的な交際を求められた場合の対応策を徹底しておき、出演者や関係者にも周知させておくべきでした。逆に、性上納文化的なものをを温存させるつもりなら、女子アナのプライバシーを把握して、出演者や関係者との交際は会社が、コンプライアンス上適正に管理すべきでした。こっそり連絡先を交換させるなどもってのほかです。
 以上をまとめると、今回のフジテレビはシステムがもう機能しないのに、性上納文化を温存させたことで墓穴を掘りました。言い換えれば、性上納という悪事を満足に実行できなかったために、一人の女性に耐えがたい心の傷を負わせ、一人の有能な男性タレントを失い、会社の屋台骨まで破壊しました。
 わが国のインフラやシステムの劣化はいろいろな場面で聞かれる話ですが、どうやら悪事でさえ過去と比較して情けない状態になっているようです。
 今ではまともな芸能人なら、テレビ局のスタッフから「うちの○○アナのことお気に入りだったみたいですから、一度、ご自宅に遊びに行かせます......」などと上納を匂わされても、喜ぶどころか困ってしまいます。そして警戒するでしょう。弱い立場の女性に上納をさせるような会社は、今度は自分の弱みを握りに来るからです。

 異界としてのテレビ局

 今回、第三者委員会の報告書に対して、「短期間でよくこれだけ調べた」という評価が一般的ですが、短期間で見つかるような問題が、長年手つかずだったとも言えます。裏付けや詳細は追加されましたが、『性犯罪事件』の大筋は、もとになった週刊誌報道とほとんど変わっていません。
 また、これだけの騒ぎになってもMeTooの告白や、HerTooやらHimTooやらの暴露は、今のところ皆無です(ごく最近になって少しだけ出てきましたが)。表に出にくい話なのはわかりますが、常識的にはAさんが唯一の被害者などとは考えにくく、他の事例は関係者一同で隠蔽しているのか、そもそも問題意識がなかったかのいずれかでしょう。
 事件後にAさんが受けた仕打ちを考えても、こうした性上納文化には大かれ少なかれ全社的なコンセンサスがあったと思われます、中居氏に対する刑事訴追やらB氏への社内的な処分も全く進んでいません。
 性に関しての倫理観も美意識も世間一般と大きく異なる集団が、社会の中で存在し続けることは不可能です。たとえば、ジャニーズ事務所など加害者本人はすでに消滅しているのですから、被害救済などの手続きを完了して、ほとぼりが冷めればまた復活できそうなものです。けれども、アイドルグループを見る世間の視線が、事件によって変化してしまいました。
 事務所解散時点でのジャニーズ系アイドルには被害者が多数ふくまれていました。けれども、彼らはあたかも連帯責任のように干されました。犯罪に対する社会的制裁で、その犯罪の被害者が一番困窮するなど理不尽極まりない話です。けれども、彼らがアイドルの地位を得るために払ったおぞましい犠牲を想像したとき、もう楽しく番組を見られなくなった視聴者が多数いたこともまた事実です。
 フジテレビでもこれから同様のことが起こりそうです。衣食住と違い本質的には別に無くても誰も困らないコンテンツ制作の世界では、文化的不適切さは。直ちに不潔さや不快さと認識され、加害者ばかりか被害者を含む組織全体の価値を、致命的な規模で毀損するということです。
 今後、フジテレビで創意工夫あふれた新番組や、知性に満ちた新人キャスターの起用があったとしても、見る側には割り切れない感情が残りそうです。となると、そこに広告を流すということは、「性犯罪に甘い」とまでは言わなくとも「何も考えていない無責任な企業」という評価を甘んじる覚悟がいります。大金を払ってリスクを引き受けることを、スポンサー企業の株主がどこまで容認できるのでしょうか。
 当然ながら他局も無事では済みません。フジテレビは突出はしていたかも知れませんが、他局とは性的な文化が全く異質だったとは、とても考えられないからです。ほとぼりもさめなうちに、どこの局で同じような事件が発覚したら、只でさえ「金が無い」→「コンテンツが劣化する」→「視聴率が下がる」→「CMで稼げない」→「金が無い」の悪循環にあえいでいるテレビ業界全体が、一気に詰んでしまうでしょう。

守る仕組みが改革を阻む

 ここまで読まれた方は、この記事の結論、落としどころを予想してられるでしょう。つまり「フジテレビには解体的出直しが必要である」というやつです。ご期待にそえられなくて申し訳ないのですが、「フジテレビには解体は不可欠でも、出なおしは不可能である」としか思えないのです。
 諸外国との比較で、日本のメディアの特異性のひとつなのですが、新聞メディアと放送メディアは資本的に融合した何個かのグループとして存在しています。すなわち、読売・日経・朝日・毎日・産経の5つのグループです。
 これらは日本的な株の持ち合いをし、グループの中心にある新聞社には日刊新聞紙法という時代錯誤的な特例法が適用されます。創業家や社員持ち株会などに株主を限定し、再販制度に守られた各新聞社が持ち株会社だと、外部の資本が手出しをすることはほぼ不可能です。
 近年、オーストラリアの新聞王ルパートマードック氏によるテレビ朝日株の取得や、いわゆるホリエモン事件、日本経済新聞社事件など、メディア企業株式をめぐる小事件がしばしば起こっていますが、結果的にはいずれの経営者も安泰でした。
 こうした構造には良い面と悪い面がありした。良い方は、金の力で言論を買うということが、事実上不可能になっていたことでした。新聞の論調が不偏不党であるべきだなどと19世紀の寝言を言う気はありませんが、現在アメリカで三大テレビ局とFOXニュースがそれぞれ極端(あくまで私の感想です)な報道をしているのを見ると、日本の論調が安定したメディアも悪くない気がします。
 悪い方の面は、株主構成が一定でしかも同室的だと、どうしても改革が後手後手になるということです。たいていの場合で創業家は大改革には後ろ向きですし、リストラに積極的な社員持ち株会など幻の珍獣みたいなものです。現状維持をズルズルしていて、改革のタイミングを逸し、会社が茹でガエル状態になりかねません。

 十年ほど前に朝日新聞社でおこったこと

 朝日新聞の信用を一気に崩してしまった従軍慰安婦問題などこの典型です。敢えて言いますが本質的にはただの誤報、それも数十年前に記事になった、それからさらに数十年前の話です。きちんと検証して誠実に謝罪していれば、あんな騒ぎにはならなかったはずです。けれども、検証というよりは言い訳じみた謝罪記事を書くわ、池上問題に飛び火するわ、社長の首を差し出すのが遅すぎるわで、世論から批判されたというよりは徹底的に嫌悪されてしまいました。ネトウヨどもが勢いづくきっかけも作りました。こんなことなら、一切の批判を無視して放っておいたほうが良かったぐらいでした。
 もしこのとき株主総会がきちんと機能していたら、言い換えれば役員会に脅威を与えられる株主がいたら、経営トップの交代が円滑に進んで、ここまで酷いことにはならなかったはずですが、実際には株主総会が最後の砦としての機能せず、朝日新聞は大きなクラッシュを迎えました。
 随分話がそれました。今回、フジテレビでも日枝氏の辞任が遅れたのは、株主総会がぬるかったことの他に、まさか突然退場するとは誰も思っていなかったために、後継の経営陣がまったく準備されていなかったこともあります。そして、最初の下手な謝罪会見が却って炎上に油を注ぐ事になったのは、朝日新聞社のケースとよく似ています。
 株主総会が機能しない巨大企業グループ。ガバナンスは会社法とは異次元の、はっきり言えばジャングルの掟のようなものが支配しています。
 法的には、フジサンケイグループ内で日枝氏が権力をもっていた理由が全くわかりません。強いて言えば日枝氏は日枝氏だからでした。同じような構造は、読売グループのナベツネさんにも当て嵌まりました。そして、こうした独裁者が登場するのは、そのグループの最盛期というのが相場です。

 オワコンとしての放送免許

 放送局というのは不思議な存在です。放送免許(つまり電波を出す権利)という公共性の極めて高い権益を持ちながら、一方では一営利企業なのです。この特権は、21世紀の初頭ぐらいまではかなり強力なものでしたが、ネット環境がこれだけ普及してしまうと、ある意味でマヌケな存在です。たとえば、NHKなど「この番組は見逃し配信で、これから一週間いつでも何回でもご覧になれます」などと言っていますが、だったらなんで電波を飛ばしているのでしょう。一方そのネットコンテンツは海外では視聴できないように、わざわざ作ってあります。放送法の規定や発想がネットの世界にまで及んでいるからです。
 もうひとつ奇妙なのは、今回の事件でフジテレビは一時的に広告収入の大部分を失うという重傷を負いましたが、単年度単体企業でも赤字にはなりませんでした。不動産収入が大きいからです。
 だとすれば、製作部門などはスカスカにリストラしてしまい、24時間、空の雲や星でも映しておけば、製作経費がほぼゼロになり収支は改善するはずです。それが極端過ぎるというのなら、古今の名画や各種アマチュアスポーツの中継(当然、外注)でも流しておけば、格安の経費で最小限の視聴者は確保できます。もっと徹底するなら、放送権など設備・人員もろとも売却してしまえば、稼ぎの良いビル会社に生まれ変われます。
 メディアグループが、なぜそうした過激なリストラをしないのかと言えば、放送免許には一定の権威があると考えられているからです。今でも、あらゆる取材先でテレビ局の腕章があれば便宜を図ってもらえます。不動産やイベントなどの関連事業でも、テレビ局の権威や信用はグループ全体に有利に働くでしょう。
 けれども、このアドバンテージは多分に気分的なものです。特に、「マスゴミ」という概念が論壇にまで定着してしまった近年、その社会的信用は形骸化してきています。そこへさして今回の性上納騒ぎです。権威どころか汚名が定着してしまうと、放送局を抱えていることは、ホールディングス全体の負担になりかねません。
 よって、過激リストラの可能性は年々増していくことになります。もしかすると近い将来、サンケイ新聞社の輪転機とフジテレビの電波を一気に止めて、フジサンケイHDがネット上の言論・報道・娯楽コンテンツとして統合されるようなメディア再編が、あるかも知れません。