非常勤講師の「最終講義」
無敵の非常勤講師
今から30年ほど前、東京のO大学での地球科学の授業で、学生たちに「震災被災地の神戸で実習をするが希望者はいるか」と尋ねたところ、300名前後の受講者の中から100名ほどが手をあげました。全学で4000名ほどの大学での話です。
なんでこんな無茶をする気になったのは、前回書いた伊豆箱根ツアーの成功でいい気になっていたことと、「来てもせいぜい数名やろ」いうという楽観と、何よりも今年で退職という気楽さからでした。東京の単身赴任を打ち切り関西に転職するにあたり、それまで副業でやっていた情報工学分野(要はパソコンの活用)に専門を移し、地球科学からはキッパリと足を洗うという決断をしたのでした。この世界はポストが極めて少なく、私ごときが長居しても迷惑にしかならないと悟ったからです。その結果、私は今で言う「無敵の人」になりました。クビ上等。それまでやりたくても出来なかったことを、教壇で実践するのみです。海賊ゼミの冒険が始まりました。
現地集合・現地解散。宿泊費と食費は自分持ち。現場での勝手な行動や軽率な判断は命に関わります。今ならもれなく余震がついています。などなどの「特典」を伝えても、希望者はほとんど減りませんでした。実当日の朝、阪急六甲駅には東京からやってきた数十人の学生が集まりました。もう、あとには引けません。
実はこの「実習旅行」、他の教員や教務には黙っているつもりでしたが、神戸行きの夜行バスが事故渋滞で延着しそうだということで、事もあろうに夜中に教務部長の家に電話して「村山先生の連絡先を教えて」とやった女子学生がいましたが、その老教授に「女子を含む数十名が余震の続く神戸に向かったと聞いて、あん時は血の気がひいたぞ」と笑いながら叱られたのは、大阪に戻って数年後のことでした。
瓦礫と花束と冬の日の幻想
学生を引率して、あちこちで倒壊した家屋に半分ふさがれた道路を歩いていると、今更ながら「とんでもない計画をたててまった」との後悔が浮かんできました。事故の危険の他に、被災者の方に「物見遊山で来るな」という目で見られてしまいトラブルに発展するリスクも、軽視していたことにも気付きました。
街中に漂うかび臭いホコリ、歩けど歩けど続く瓦礫、数ヶ月経ってもキナ臭い焼け跡、5時47分で止まったままの大時計、花に囲まれた子供のオモチャなど、号泣したくなる光景が満載でした。講義中には私語の多いチャラけた女子がボツンと一言「テレビと全然違う」。
学生たちが一番絶句したのは、大学ノートや語学の教科書、キャラクター雑貨が積み上げられた山の横に置かれた花束でした。犠牲者の年齢別で多かったのは高齢者・乳幼児でしたが、次いで20歳前後の若者が3番目でした。大学町神戸で木造アパートが大量に倒壊したからです。もし東京近郊が震源だったら、花を手向けられるのは自分たちだったのかも知れません。
その夜、ある地元の大学オーケストラが無料演奏会を開くというので、希望者数名を連れて聴きに行きました。舞台上のトランペットの席に大きな遺影が飾られ、椅子の上には吹く人のいない楽器が置かれていました。気ばらしのつもりが、いっそう重くなりました。曲目のチャイコフスキーの交響曲「冬の日の幻想」は、今でもあまり聴く気がしません。
避難所のお祭り
ささやかですが楽しい出来事もありました。数十名の大集団を連れて困ったのが昼食です。特定の飲食店やコンビニに集まってしまうと、たちまち在庫が枯渇しそうで、略奪に行くようなことになります。そこで、「今から3時間自由行動とするから、各自、できるだけ被災者の方がやっておられる店を利用して、お話を伺いながら食事をするように」......それにしても無責任な引率者です。
集合時間になり、数名の男子学生がヘベレケになって現れました。訳を尋ねると、「ぶらぶら歩いていると、被災者の方から声をかけられ、『東京から大学の授業で神戸を見にきました』と答えると、避難所のお祭りに引っ張り込まれ、餅つきまでして、『あれ食え、これ食え』と言われたあげく、東京の学生を代表して一気飲みを披露した」とのことでした。どうやら、被災者の方々に散々御馳走になってしまったみたいです。今でも、教員として、お礼に行きそびれたことを申し訳なく思っています。
宿舎の近くにあった「桂枝雀師匠愛用の居酒屋(当時の落語ファンの間では一種の聖地)」が無事営業していたことに歓喜した落研部長が、全員の前で一席始めたり。当時まだ関西ローカルだった節分の恵方巻きを体験したり、以前実習で訪れた淵野辺の宇宙研究所のロケットが無事打ち上げられたニュースを見て、お世話になった教授に祝電を送ったり、喜怒哀楽色とりどりに思い切り心をゆさぶられた神戸の旅でした。
今回の「実習」で、私たちにとって一番ありがたかったのは、実は学生の保護者の方々だったのかも知れません。「般教(「一般教養」の意味、やや差別語)の授業で神戸を見に行く」と聞いても引き止めるどころか、決して安くない神戸までの交通費を気持ちよく出していただけたのですから。
もしこれが令和のことだったら、大学に怒鳴り込んだ親が数名はいたでしょう。でもモンペと呼ぶ気はしません。私だって、仮に自分の娘達が「三陸や能登を見に行く」と教員に言われたら、今なら教務に通報していたかも知れません。まことに勝手なものです。「旅による学びの質は生還できない確率に比例する」......極論かも知れませんが至言です。
自己採点で成績つけ
実習最後の晩、大変なことを忘れていたのに気がつきました。成績つけです。当時は紙の成績一覧表に各受講生の点数を100点満点の数字を書き込んで教務に郵送することになっていて、締め切りに間に合わせるのには、今晩中にまとめる必要がありました。出発前には実習中の態度を見て採点しようなどと軽く考えていたのですが、そんなもの覚えているはずがありません。例の落研部長と祝杯を重ねたあとでもありましたから。
思いあまって、「今から成績表を回すから、各自で自分の成績を書き込め、全員100点でも文句は言わん」などとやってしまい、筆記具も筆跡も違う「100」の数字が数十個並ぶ成績表が出来上がりました。教務からクレームがついたら、「実習の成果は本人が一番よく分かっています。般教の授業なのに身銭を切ってリスクのある神戸を歩き回った学生ですよ。100点でも低すぎると思います」と答えるつもりでした。無敵の非常勤講師。やりたい放題です。
一生の宿題
翌日、解散直前に、たぶんもう二度と会うことの無い学生たちに2つの宿題を出しました。
1.今回見たこと聞いたこと嗅いだこと感じたことを出来るだけ多くの人に話すこと。
2.身につけた経験や知識が生かされるそうな場面に出会ったら、積極的に動くこと。
期限は各自が死ぬまで。
冗談半分でした。「被災地や避難所の経験など、教養としてならともかく、実際の役に立つことは無いやろし、役に立って欲しくもないしな」などと、これまた根拠も無く無責任に願っていましたが、ご存じの通り、この願いは叶いませんでした。
あれから30年。三陸や熊本や能登で彼らのうちの一人でも、神戸で学んだことを生かしてくれていたら、地球科学の大学教員としてのキャリアの最後に、少しは私も社会貢献できたことになるのではないかと思っています。
おーい。お前ら、宿題やってるか。死ぬまで頼むぞ。