ルッキズムは永遠に不滅です

議論はいつも混乱しています。ルッキズムについてです。ルッキズムとは比較的新しい言葉で「外見や身体的特徴に基づいて他者を差別する思想や社会現象」とのことです。ただし「外見」の定義がどこまで含まれているか分かりません。「明るい感じ」や「暑苦しさ」なんていう、考えようによっては「外見」と言えるような属性は、友人関係などにはもちろん、採用面接などの結果にも大きな影響を及ぼしているはずです。こんなのもダメなのでしょうか。さらに、意地の悪いことを言えば、配偶者などのパートナーを選ぶ際に「外見や身体的特徴」を全く気にしない人が、本当にこの世にいるのでしょうか。
 正直言って、ルッキズムをなくしていくことなんか不可能です。極端な例をあげれば、ある種の宗教国家では、公の場で女性は素顔や頭髪をさらすことは禁止されています。これならかなりルッキズムを押さえつけることができます。このままでは女性差別ですから、我が国で採用するのなら男性にも同様にかぶり物を強制すべきです。人前で素顔を見せるのは陰部をみせるのと同様、男女とも恥ずかしいことだという文化にしてしまうわけです。
 ここまでやってしまっても、本人が鏡に映った「外見や身体的特徴」をネガティブに考えて苦しむことは防ぎようがありません。「外見や身体的特徴」に関しては、鏡に自分を映して見ている主体は、間違いなく差別的視点を持った残酷な他者なのですから。

 北野武氏の不都合な真実

 もう半世紀前後前のことですが、当時、若手芸人として売り出し中だったビートたけし氏(現北野武氏)が著書に、「ブスにも幸せになる権利はあるが、幸せではない」という話が書かれていました。昭和の芸人本とは言え、よくこんなのが活字になったものです。 東京五輪で日本人クリエーターが、駆け出し時代にナチスのホロコーストをネタにした(肯定とか賛美とか、また存在を否定したわけではない)ことが発覚しただけでクビにされた事がありました。同じように、若手時代にスーパールッキズム発言をした北野武氏が著名な映画賞を受賞しても、世界中で誰も問題にしません。国際世論とは勝手なものです。
 もっとも、一番恐ろしいことはこの発言は真実だということです。人気のないタイプの容姿の人(著書では「ブス」と表現)に幸せになる権利が無いはずはありません。けれども多くの場合、人気のないタイプの容姿の人はそうでない人よりも不幸です。
 つまり、この発言は口にしてはいけない不都合な真実だということになります。

 真善美の独立性

 人間の理想というものには3つの方向性があるとされています。「真善美」......カントが言い出したことらしいのですが、この長屋で哲学の話をするのは、コストコの横にピザ屋を開くようなものですから、深入りはしません。
 三分類というのがわれわれ日本人には落ち着きがよいのか(日本三景、世界三大珍味、三題噺、三羽がらす・・・・)、「真・善・美」は受け入れられています。三人の子供のこれらにちなんだ名前を付けた知人もいました。
 分類するぐらいですから、「論理の真・倫理の善・情理の美」の三つの基準は独立しています。たとえば、真であっても、美でも善でもないものもあり得るわけです。さっきの北野武氏の不都合な真実なども、明らかにこの例です。
 この三つで際だった違いがあるのは、基準が一致する人の範囲です。言い換えれば、主観の入り込む余地の大きさです。極端な例を行きましょう。真偽について、数学の証明などでは、真であることの判定は基本的に全人類が一致します。
 物理や化学あたりになると、すこしいい加減になります。万有引力の法則とかエントロピー増大の法則とか絶対の真実のように言われていても、例外が見つかっていないだけで、確実にそうだとは言えない訳です。実際、いろんな形でこれらを検証している野心的な科学者は世界中にウヨウヨいます。
 さらに生物やら地学やら社会科学になってくると、判断について専門家でも見解が分かれることの方が多いぐらいです。けれども、善悪やら美醜やらと比べると、主観の入る度合いが少なく、コンセンサスの得やすい価値観です。
 次に、善悪。「人を殺してはいけないのはなぜか」という話がありますが、「多くの人は殺されたくないから、悪だと決定された」としか答えようがありません。死刑やら正当防衛、そして戦場なんかでは、殺すことが「仕方の無いこと」なのか「いけないこと」なのか「良いこと」なのか、分からなくなってきます。同じ殺人でも、立場によって評価にコンセンサスがとれないこともしばしばあります。善悪の判断は立場や教育の影響が大きく、それが極端にあることを分断というのではないでしょうか。
 最後は、美醜。はじめから主観の世界です。満天の星やダビンチのモナリザなどは、多くの人が「美しい」と感じるでしょうが、なぜかと聞かれると、屁理屈以外では説明できません。一方、そうは思わない人がいても、全く不思議はありません。

 美に従属する日本人の真と善

 ここから話がややこしくなります。確かに真善美は独立していますが、しばしば混同されることもあります。特に、一神教やカント的な観念論とは思考の枠組みの違う我ら日本人はこれらをまぜこぜにしがちです。
 まず、真と善。「正しい答え」と「正しい人」......真も善も同じ「正しい」という形容詞で表現します。熟語でも「正解」と「正義」やっぱり同じです。「正直」となると両方の意味を持っています。英語のRightにも同じようなニュアンスがるようですが、漢字文化圏ほどの混同はなさそうです。
 次に、真と美。数学好きは、奇抜な証明や大きな素数を、美しいと表現します。よくできたパズルや詰将棋なども、芸術作品のように扱われることもあります。論理のなかに美を見いだす。究極のものが生成AIによる短歌や絵画の創作でしょう。計算機は真(=1)、偽=(0)の並び(データ)から別のデータを、ある特定の論理(プログラム)によって作るだけの装置です。完全に論理だけからなる世界なのに、そこから芸術作品(のようなもの?)が生成されるわけです。
 最後は、美と善。ルッキズムが問題にされる価値観の谷間です。我が国では、キリスト教文化圏よりも、美意識が倫理と混同されたり、あるいは代用されたりすることがよくあります。なにしろ、「罪の文化と恥の文化」です。「罪」が是非善悪の倫理の世界の言葉であるのに対して、「恥」とは平均的美意識を大きく蹂躙している状況のことではないでしょうか。ですから、カラオケで無茶苦茶な音程で歌うことと、カンニングや賄賂がバレることが、同じ「恥」という呼び名で呼ばれるわけです。
 もうひとつ例を挙げましょう。同性愛者に対する考え方の変遷です。数十年前まで、一神教の文化圏では同性愛は神に対する反逆で「罪」としているのに対して、我が国(だけかどうか知りませんが)では、気持ち悪いやつ「醜」として笑いものにしていましたが、同性愛者を殺せという声は聞いたことがありませんでした。
 多様性が重視されるようになった昨今では、西欧ではLGBT差別は「許されない」ことであり、我が国ではLGBTに理解がないのは「恥ずかしい」ことなのです。判断の方向が逆転しても、判断の根っこにある基準は、それぞれそのままなのです。
 日本では「SDGS意識高い系」のひとへの評価も、少し古い言葉を使えば「野暮」ということになります。最近の言い方なら「ダサいやつら」ですか。倫理的に受け入れられないものを「悪」ではなく「醜」の一種に落としこんでいるわけです。
 我が国では、価値の最上位には潜在的には「美」があり、その表現系のひとつとして「真」やら「善」やらがあるのでしょう。なにしろ、切腹や特攻を、散りゆく桜の潔さに重ね合わせて賞賛するのが一般的なのですから、唯一神をもたない日本人にとって、「美」は至高のものなのです。

 ルッキズムは思想なのか

 話をルッキズムに戻します。「外見や身体的特徴に基づいて他者を差別する思想や社会現象」。これが定義のつもりなら、かなり混乱していると言えます。「......キ(イ)ズム」という語尾から考えても、ルッキズムという言葉を作った人は思想の一種だと考えたのでしょう。「社会現象」とするのには無理があります。「思想」はメジャーになってはじめて「社会現象」になるのですから。ルッキズムは最近流行しはじめたとは思えません。
 かと言って、意図的な思想として「外見や身体的特徴」で他者を差別している人はいるのでしょうか。たとえば「美女以外の女性が子孫を残すことは罪悪である」とか。こういう、潔く狂った考え方は、架空の世界の「思想」でしか見たことがありません。
 美醜というのは、倫理の世界である思想の話ではなく、もっと原初的かつ個人的な感覚である「美意識」の問題なのです。そして、他者を評価する場面に、無意識的にあるいは若干の後ろめたさを感じながらも、自らの「美意識」を持ち込んでしまうのが現代人なのでしょう。こういうのは、思想というほど意図的ではないのですから、「風潮」ぐらいの言葉が適切でしょう。
 「思想」ではないのに、正しいとか間違ってるとか言っても違和感しか残りません。いくら議論しても美醜の別は厳然として残ります。容姿と関係なく人権を守ることには社会的なコンセンサスがあっても、容姿そのものは厳然と存在します。だから、北野武氏の「ブスにも幸せになる権利はあるが、幸せではない」は、暴言でありながらも至言なのです。
 結局、倫理に出来ることは、人を審査するとき特に公的な採用などには、極力、美意識を持ち込まないようにするぐらいです。けれども、これを一歩すすめて、「美醜そのものを無視ないし相対化して人権重視の社会にしよう」などと言い出すと、あちこちに無理が出てきます。
 自分の美意識を倫理的に批判される不快感は激烈なものです。人権というもの自体にまで嫌悪感が拡大していきます。「政治的な正しさ」や「SDGS」などは、胡散臭く眺める方が、本音のみが支配するネットの世界などでは普通のことになっています。

 原罪としてのルッキズム

 なんとも救いの無い話になってきています。実際、クリアカットな解決のない問題なのでしょうが、私たちに何が出来るのか考えてみましょう。
 まず、ルッキズムは全ての人が大なり小なり保持している性行であり、いくら努力しても払拭できるものではなく、無理に抑圧するとさらに歪んだ形で復活しがちであることを、まず認めることです。「多様性があってみ、みんな綺麗」なんて言わないことです。多様性があれば、多くの人が美しいと思うものとそうでないものが必ず出てきます。宗教的な言い方をすれば、ルッキズムとは「業」とか「原罪」とかの一種になるのでしょう。だから「存在しない」と言って目をつぶるのも。「仕方が無い」と言って開き直るのも、良くはありません。
 思春期以上の年齢で、自分の容姿について考えて嫌な思いをしたことがない人は皆無のはずです。絶世の美女やイケメンでも、いやそういう人たちだからこと、今度はそれが、いずれ衰えていくことの不快感は決して小さくないでしょう(経験ないからわかりませんが)。かの白雪姫の魔女にとっては、自分の容姿が一番ではないことが、執拗な殺人を計画させるほどの不快なことだったのです。元グランプリキャンギャルの蓮舫さんに、「二番じゃダメなんですか」と聞かれたら、魔女は「当然でしょ」と答えるでしょう。童話や絵本で、時代を超えた根強い人気があるということは、この心情は幼児にでも共有できるものだということです。
 「今の自分が世界で一番美しい」と常に確信を持てているという無敵の人以外は、容姿は少なくとも潜在的には悩みの種であり、ルッキズムの被害者になる可能性は常にあるのです。そして、それでありながら他人を評価するときには、無意識的に容姿を考慮してしまいがちなのが人間というものなのでしょう。
 なんとも矛盾した状況です。クリアカットな解決策はありません。それでも、こうした矛盾の存在を認識し、誤魔化さないで悩んだり後悔したり反省したりする習慣を持つことでのみ、ルッキズムの害悪を少しだけ緩和することができるのではないでしょうか。特に、何かというと美意識にひっぱられやすい我々日本人は、肝に銘じておくべきことだと思います。