数日前の日本経済新聞で、地球温暖化関係の記事に「論より実行」という見出しがありました。こう言ってしまいたくなる気持ちもよくわかりますが、可能な限り誠実で正確な科学的議論に基づかない行動は、膨大な無駄、予想外の危険、そして不愉快な分断をもたらすものです。ここはひとつ冷静になりましょう。
プロが恐れる氷河期
統計をとったわけではありませんが、地球科学系の研究者は一般人よりも、地球温暖化に「より懐疑的」なタイプが多いように思います。彼らの中でも扱う時間が長くなれば長くなるほど、確信を持って懐疑していたり、真逆の地球寒冷化を恐れていたりします。
まず、ビッグバンや太陽圏の起源など何十億年を単位にしている天文学者や惑星科学者。彼らは地球が全面凍結していた時代や、溶けたマグマが地表を覆っていた時代を見慣れています。100度や200度気温が上下しても「誤差」と言い放って全く驚かない連中ですから、とりあえず放っておきましょう。
別に天体としての地球が爆発するとか、太陽に飲み込まれるとかではないのですから、温暖化など「地球の危機」ではないというのが彼らの立場です。
次に、何億年から何千万年を基準に生きている一般的な地質学者や古生物学者(つまり化石屋さん)なんかも、温暖化には冷たい対応をしまが、これも当然の話です。
恐竜時代には気温が今より数度高かったというのが定説になっています。巨大な肉食動物が生存できるには、その数十倍の草食動物が必要で、それを養うためには植物の生育がよほど活発でなければなりません。光合成の原料である二酸化炭素は豊富だったでしょうし、気温も高かったはずです。
他にも、空気は今よりドロドロしていた(そうでなかったら巨大翼竜が飛べない)という説まであり、今とは似ても似つかない環境でした。生物の進化がいかに柔軟かを知っている古生物学者たちにしてみれば、地球の平均気温が数度上がったところで、最悪でも人類が絶滅するだけで、生態系はむしろ豊かになると言いたいところでしょう。
「温暖化系アイドル」のグレタさんたちが、一番キれるのはこういう物言いのようです。けれども、キレるだけで有効な反論があまりないので、コロナ後はあまり相手にしてもらえません。新しいネタを仕込んだ方がよさそうです。
それより細かい100万年単位で「最近」の話題を扱う古気候学者や人類学者などは、もう少し慎重なもの言いをします。下手なことを言うと炎上するからです。ただ彼らの多くが昔の気候に関して、無意識にイメージするのは氷河期です。
人類が登場してから数百万年の間、氷床・氷山が地表を覆い巨大な氷河が発達する氷河期と、今のように南極・北極付近や高山以外には氷山も氷河も見当たらない間氷期が繰り返し到来していて、最後の氷河期が終わったのは12000年前だと言われています。エジプト文明の開始が約4000年前だそうですから、そう昔の事でもありません。だから、私の師匠(鉱物学者)は「地球寒冷化を恐れる」と言っておられました。
面白いのは、氷河期と間氷期が繰り返されていても、高温にも低温にも限界があり、極端には走りませんでした。また、両者の中間もなかったということです。おそらく、地球にとって安定した状態が二つあり、その間を行き来してきたということなのでしょう。まあ、二大政党が交互に政権をとるような話ですね。
この視点から考えると、人為的気候変動問題の本質は、「この二重安定システムを壊すだけの力が人類活動にあるのか」ということになります。ただし、それだけの影響力が直接的には無いことが分かっても安心はできません。人類活動が新たな氷河期の到来の引き金を引いてしまうかも知れないからです。
さっきの私の師匠が恐れていたのは、この「引き金氷河期」です。たとえて言えば、「テーブルの上で飛び跳ねて遊んでいる子供には、天井に頭を打つだけのジャンプ力はないが、ジャンプに失敗して落下するリスクは大きい」という状況です。映画「デイ・アフター・トゥモロー」も、この人為的温暖化による氷河期到来がベースシナリオになっていました。
まとめて言えば、多くの地球科学にとって、人為的温暖化による危機は、あまり興味のある問題ではないのです。おそらく、地球という単位で考えると些末過ぎる現象で、議論の対象にできるほど科学が進んでいないということに、暗黙のコンセンサスがあるのだと思います。彼らは自信を持って「今の科学では、その真偽を判定することなどできない」と答えるでしょう。また、そう答えるべきなのです。
けれども、どうやらメディアの世界では地球温暖化は常識のようになっています。
義務としての「懐疑論」
ここから先は私の予想ですが、いまの科学レベルで考えれば、二酸化炭素の影響をきちんと立証するよりも二酸化炭素の排出を減らすことの方が、はるかに簡単だと思います。これからかなり科学が進んでも、これは当分変わらないでしょう。
こういう状況で、私が一番気が滅入るのは、温暖化警戒論者が「反論者」に張っている「懐疑論者」というレッテルです。環境問題に限らず何かの学説を提唱する場合には、自分自身でもそれを「懐疑する」ということを忘れてはならないはずです。平たく言えば、「もしかしたら、今私が主張しているいることは大間違いかもしれない」という可能性を片目で見ている義務がある、ということです。
これは、言うほど簡単なことではありません。それどころか自説への反論を、人格への攻撃と見なしてしまうことによる醜い争いは、超一流の科学者同士でも頻繁におこることです。これに人事や予算がからめば、「見るからに怪しげな自説でも定年まで見破られなければOK」という極めて「健全で常識的」な判断がなされることもよくあります。
ましてや、自分が「人類の正義と将来を守る」と思っている科学者が、一方で自説を懐疑する視点を持つのは、よりいっそう難しいことでしょう。また、そういう「控えめ」な人物は最先端の研究者には向かないようにも思います。だからと言ってエキセントリックな科学者の言うことが全て正しいとも限らないのもまた事実ですから、困ったもんです。
とりあえずお願いしたいのは、あからさまに「懐疑派」という言葉を悪い意味で使わないで欲しいと言うことです。自然科学とは「懐疑」によって進んできたものですし、それ以外の方法は見つかっていないのですから。
もうひとつ温暖化論者を見ていてゲッソリすることは、「今すぐ動かなければ間に合わない」と、大した根拠もなく言い続けることです。テレビの通販番組で「この特別価格は、放送終了後30分間だけです」なんていうのと同じ匂いがします。
「今すぐ動かなければ、地球環境は取り返しがつかないことになる」と、数十年前に言っていた学者が、「今更やれることはないので、きっぱりあきらめました」と言うのを見たことがありません。かと言って、自分たちの推計が狂っていたとの説明や謝罪もありません。
過激だった初期の温暖化論
地球温暖化の話が話題に上り始めたのは1970年代の終わり頃でした。当時の温暖化説は、「二酸化炭素の増加」が「気温の上昇」の原因であるだけではなく、結果とも考えられていました。気温が上昇すれば海水温が上がり、海に溶けている二酸化炭素が大気中に放出され、大気中の二酸化炭素が増加......という悪魔のループにはまり、ついには海から大量の水蒸気が上がり、その水蒸気がまた温室効果をもたらし、ついには海水は全て蒸発してしまうというものでした。
これはかつて、金星で起こったことです。「取り返しがつかない」という言葉が気候変動論に合い言葉のように登場するのは、この「金星温暖化」のイメージが残っているからなのかもしれません。
大学3年生のときの惑星科学の授業で、私は「なんで金星と同じ事が地球で起こらないのですか」と質問したことがありました。教授の答えは、「よく分からないが、金星と比べて太陽からの距離が遠いことが大きいのではないか。」というものでした。
恐竜の時代をはじめ、地球には今より暖かかった時代が何回もあったことは確実なのですが、悪魔のループは動きださず、必ずブレーキがかかってきました。ただし、メカニズムが明確に分かっていない以上、次の温暖化のときにもブレーキがかかるのかは、「これまでと同じで多分大丈夫だろうけど、本当のところはわからない」としか言いようがありません。
人類の化石燃料使用が、それ自体は大した問題ではなくても怖いのは、もともとある地球の精巧な(言い換えれば繊細で不安定な)バランスシステムに刺激を与えて、氷河期や金星化の到来を招きかねないのではないか、ということなのです。