ミャクミャク問題の「最終的解決」について......パンドラの箱【大阪万博 その09】

こんばんわ。村山恭平です。
 ミャクミャク破壊の問題の続きです。計画性・メッセージ性に注目して、前回の3つの事例を比較してみましょう。
 まず、事例1の酔っ払いに計画性やメッセージ性がほとんどないのは、自明です。
 一方、事例2には確かに計画性があります。壊すための工具を準備して大和川河川敷まで向かったこと、破壊の数日後「壊さないで」の張り紙をわざわざ剥がして、再び壊したこと、ただの憂さ晴らしや出来心では無さそうです。
 けれどもまた、人通りの少ない河川敷にある子供たちの作品を壊しても、万博協会や府市に対してのインパクトがあまりないのも事実です。屋外にある陶板画が壊れているのはよくあることですから、報道がなかったら関係者以外は気がつきもしないでしょう。
 それでも、わざわざ「凶器」を用意してしつこく壊しに行く執念を見ると、何らかのメッセージがありそうですが、その送り先は、学校や地元の関係者ではないでしょうか。単なる憶測でこれ以上は言いませんが。

やはり警告をしておこう

ここから先を書くかどうか迷いました。リスクの指摘自体がテロや愉快犯を誘発しかねないかも知れないからです。でも、警告をするという意味であえて文書を残すことにします。問題の事例3である市役所での落書き。落ち着いて考えてみれば、大変恐ろしいことに、メッセージの最終的な送り先は、おそらく万博協会や維新でさえありません。
 今回の犯行には相当な準備がいります。スプレー塗料と型紙を使って、そこそこ丁寧な仕事をしています。私の考えすぎかもしれませんが、文字列のサイズはミャクミャクの口に合わせてあり、事前に採寸までしているようです。未明とは言え車通りや人通りの絶えない御堂筋で、けっこう時間がかかり目立つ作業をする覚悟も必要です。
 そして何より、あからさまなメッセージ......Free Palestine(パレスチナに自由を)。内容は、イスラエル国民とネタニヤフ政権、あるいは何もしようとしない各国政府に対する、極めて常識的なメッセージです。それを平和の祭典とされる万国博覧会の公式キャラの口を借りて発信しているのですから、方向性としてはバンクシーなんかに近いように感じます。
 「犯罪を芸術扱いして擁護するのか」と怒るような方には一度考えて欲しいのですが、ある行為の芸術性を指摘することは、その行為の犯罪性を否定することでも擁護することではありません。考えてみれば、本家のバンクシーにしても作品が全て合法だったとはとても思えません。

 想いをガザに届ける「悪魔」の方法

 ガザの惨状を見て、何も出来ないことを悔しく思っている日本人は少なくないはずです。「何とかして停戦だけでも実現しないか」、祈るような気持ちなのでしょう。今回の落書き騒ぎで、「自分たちにも出来ることがある」、ということが分かってしまいました。どうやら、事例3はパンドラの箱の蓋を開けたようです。
 普通の日本人にとって、ガザへの苦い思いを表現できる一番カジュアルな場に、大阪万博はなってしまいました。手の届くところにイスラエル館があるからです。「政治的な話を無関係な万博に持ち込むな」と主催者側は言うでしょうが、イスラエルの参加を認めるのは、無関係でも非政治的でもありますまい。
 一般論として、私自身は万博などの機会に外国人に対して、自分たちの政治的意見を伝えることは、方法が非暴力的である限り正しいことであると、建前では考えています。けれども、本音では「今回は止めてくれ」と思います。
 どんなに平和的な内容の言論でも、ときには暴力に匹敵する破壊力を持つこともあります。「あなたはガザ侵攻をどう思いますか?」という質問は極めて平和的で常識的ですが、イスラエル館のスタッフが、次々やってくる来館者から、毎日毎日に何十回もぶつけられたら、たぶん心が折れてしまうでしょう。
 はじめから喧嘩腰だったり、長時間しつこくからんできたりと、やり方が暴力すれすれの怖い客もいるでしょう。素面とは限りません。でも、スタッフ側のがちょっとでも不適切な言動をしたり、あからさまに官僚的で木で冷たい対応をしようものなら、たちまちSNSでさらされます。
 一方、本物のテロやヘイトへの対策も頭の隅に置いておかなければなりません。安部元総理や岸田総理への襲撃事件でも手製の銃や爆発物が使われました。こうした手口を防ぐには、空港などで行われていると同じ手荷物検査が、博覧会場への入場時に必要になります。費用はどこから出てくるのか知りませんが。
 ヘイト対策はもっと厄介です。たとえば、ヒョウ柄で全身を固めたようなナニワのオバチャン軍団が、「あんた、ホンマは何人殺したの?」とか「ユダヤ人なんかやってて恥ずかしないの?」とか、ど直球な暴言を連射した場合、どう対処するべきなのでしょうか。はっきりしているのは、力で制圧するとコジレるということです。
 嫌がらせも簡単です。鉛筆一本あれば、彼らが忌み嫌い特別視している「あのマーク」を、館内あちこちに落書きできます。あるいは割り箸を「あのマーク」の形に並べて(四膳分で出来ますよね)、さりげなく床に置いておいたり、観光地の仏教寺院でも売っている「あのマーク」と似た記号入りのお守りを、わざと館内に置き忘れてきたりすることもできます。いくら手荷物検査をしても対応しきれません。
 実際にそうした事例がいくつか出れば、「ドイツなどと同じように、日本もあのマークを厳禁しろ」とイスラエル大使館が騒ぎ出し、左翼系のおっちょこちょいが「世界の常識に日本は遅れている」などと悪乗りしだし、右翼系のおっちょこちょいが「ここは日本だ。日本の常識に従え」などと騒ぐでしょう。
 結局すったもんだしたあげく、国民全体の気分としては「こういう、ややこしい国とは距離を置こう」となりそうです。イスラエルにとっては、せっかく博覧会に参加して、開催国民から反発を買うのでは、何をやっているのやらわかりません。

 テロやヘイトの傾向と対策

 繰り返しますが、こういう予想には、テロはともかくヘイトを煽って、その具体的な方法まで教えることになる危惧はあります。私も、イスラエル館の存在を知って、テロやヘイトの可能性に気付いたとき、こうした記事は封印しておくつもりでした。
 けれども、今回のミャクミャク落書き事件で、すでにパンドラの箱の蓋が開いてしまった以上は、テロやヘイトを誘発することの危険よりも、それを警告することの価値を、重視することにしました。
 少し対策を考えてみましょう。まず、来場者は特にイスラエル館に興味が無いのなら極力近づかないことです。事件に巻き込まれて良いことは何もありません。もっと良いのは万博に行かないことです。そうすれば、津波やメタンガスのリスクの無くなります。仕事の関係などで、どうしても入館するときには、トラブルが発生する可能性と避難の方法を常に意識しておくことです。
 次に、主催者側です。何はともあれ万博会場全体の警備を強化せざるを得ないでしょう。入場口での手荷物検査には、膨大な人手がかかりますが仕方ありません。もちろん、イスラエル館内や周辺には、制服私服両方のガードマンを多数配置することになります。「運営経費の上振れ」などと言っている場合ではありません。
 また、イスラエル館には、できるだけユダヤ人のスタッフを置かないことです。パレスチナ問題の議論をふっかけてくる入場者のターゲットになります。特に、中途半端に日本語のわかるシオニストがいたら最悪です。「旧約聖書」だと「約束の地」だのという話を持ち出してきて、建国の経緯から侵攻の理由を説明したら、良くて炎上。悪くすれば血をみます。閉館まで怒号が飛び交うかも知れません。結局、さらにまた警備員を増やすことになりそうです。
 来場者に接するスタッフは全員日本人にして、アルバイトっぽい機械的な態度をとり、何かあったら手元のマニュアルを見るようにしましょう。議論を求められたら、「私にはわかりません」で通します。必要なのはシオニストより塩対応です。いっそのこと、警備も含めて完全無人化でAI対応にしますか。
 でも、もっと良いのは、何か理由をつけてイスラエルが出展をやめることです。「重大性を増したガザ地区の情勢に集中するために、博覧会への参加を辞退する」とか何とか、分かったような分からないような理由で十分です。関係者および来場予定者一同、胸をなで下ろせます。

 イスラエル政府にも言い分はあるのでしょう。けれども、「夢洲で、ユダヤの大義について論陣を張って、日本人を啓蒙しよう」という意気込みならわかるのですが、そうではなく、何事もなかったように、お気楽な観光展示をすることには違和感があります。極端に言えば、「パレスチナ人など何人殺しても、いちいち気にしないよ」と開き直っていることになります。そして、それをすんなり許容するなら、我々日本人も、その開き直りを容認していることになります。やはり、今回はご遠慮いただくのが、筋であり、お互いのためでもあると思います。
 こういうやり方は、「問題の最終的解決」とはほど遠いものですが、けれども時間や予算や実行力に十分で無いときには、解決より緩和を求めるのが、賢いやり方かと思います。

 そういえば、この事例3、犯人像の見当や捜査の進捗状況があまり報道されることがありません。事例1と同じ場所なのですから防犯カメラの映像は豊富にあり、簡単に犯人が割り出せそうなものですが、そうした動きは今のところあまりありません。物理的には単なる小さな落書きなのですから、警察もあまり動く気がないのかもしれません。事例1や2のときに比べて、犯人を非難する声もほとんど聞こえてきません。
 おそらく主題者側は犯行声明が出るのを嫌がっているのでしょう。「民間人を何万人も殺すのと、落書きとどっちがより悪い」なんて開き直られたら、半開きだったパンドラの箱の蓋が、フルオープンになってしまいます。問題は、最後に「希望」が残るのかどうか、なんとも心許ないところです。