« お祭り終わったそのあとは | メイン | 不幸な女子にかけられた呪い »

日本はどうなる

9月11日

ところで今日は選挙だ。
ということで、投票に行ってきた。
単純に気がついた事を書けば「これまでになく投票所に人が多い」ということに尽きる。

私は小泉純一郎という人物が構造改革を成し遂げるとは思えない。
しかし、小泉内閣というのは、「郵政利権や、道路利権や、闇の勢力に強いつながりを持つ政治家を失脚させない限り構造改革など一歩たりとも進まない」ということを明らかにした。最初に掲げた公約がほとんど実行されていない、と批判する人間も多いけれど、その点については小泉内閣が果たした役割は大きい。
そして、今回の選挙によって「旧来の自民党を壊す」という目的が完遂されるわけだ。

私は何を信じるのか、と聞かれたら小沢一郎のビジョンを信じる。
それはすなわち完全に古いものが壊れた跡地に新しいものを作るということであり、会社経営に例えればV字回復の経路を辿るということだ。今回は「完全に壊すべきものを壊す」という段階であり、次に「新しい在るべきものを構築する」という段階が訪れるだろう。
これが正しい選択であるかどうか、不安な部分もある。
それでも、今回は必ず何かを選択しないとならない。
複数の選択のうち、「何も選ばない」という選択が最悪なものであるのだから。

・・・・・・とここまでがお昼に書いていた文章。

今、開票速報を見ながら書いているのですが、結果は凄まじいほどの自民党圧勝である。
どうしたんだ民主党。どうしたんだ都市型リベラル派。
こうなる予兆は無くはなかったけれど、それでもいろいろと、予想を裏切られることになった。

9月8日

作家の見沢知廉氏が飛び降り自殺した、というニュースを聞いた。
とはいっても、この人の「天皇ごっこ」「調律の帝国」という作品を全部読んだわけではない。
「天皇ごっこ」が文庫化されたときに、その文庫版の後書きをM台S司が書いたというので、それに目を通したくらいだ。
しかし、この「天皇ごっこ」の文庫版の後書きの中で、M台S司が初めて「輝ける天皇ロマン主義」ということを言い出したのがけっこう重要な事だと思っている。
この「輝けるロマン主義」という概念がM台S司のフォロアーに引き継がれており、例を挙げると北田暁大氏の『嗤う日本の「ナショナリズム」』の中では、国家や純愛や電車男にハマるネットワーカーの特徴として「アイロニー(嗤い)」の指向と「感動を希求するロマン主義」の指向が共存しているということを論じている。

「で、だから何?」と聞かれても、作家の見沢知廉氏が飛び降り自殺した、というニュースを聞いてえらいことびっくりしたということと、M台S司が鬱になる要因がまた一つ増えたな、と思ったくらいだ。
M台S司の名前が出たついでに少し書いておくと、彼が結婚したというニュースがあまり世間に広く流布されていない(と、少なくともわたくしには感じられる)のはどうしてだろう。
自己不全感に悩む少女達を援助交際するように煽っておいた挙句に、東大教授の娘と結婚して、かつ結婚する時に「うちの家庭はクリスチャンなので、浮気することも離婚することも許さない」という誓約をさせられたということを聞いてしまうと、梯子を外されてしまったように思ってしまう女子が少なからず存在するからだろうか。よく知らないけど。

9月7日

最近、ブログ空間上で大学のコピペレポート論争が発生しているみたいです。
ということを、先週日記の文面を添付したメールに書いて内田先生に送付した。
その時には、「剽窃と霊感の間」のエントリーの内容を完全に忘れていて、後でそのことに気が付いて蒼ざめてしまった。
まあ仕方がない。よくある事だし。
その後に、大学のコピペレポート論争について書かれたブログを読んでいくうちに、少し自分の中で気になったことが出てきたので、エントリーに起こしておこうと思ってしまった。

課題としてのレポートが最低限満たすべき条件として、下の3つが考えられる。

レベル1:最初から最後まで、レポートの文章は自分で書く。
レベル2:他人の文章からの引用と自分の意見は区別する。他人の文章からの引用の場合には出典を明記しておく。
レベル3:他人の文章からの引用、過去の知的資産の流用にとどまらず、自分オリジナルの見解や意見が記載されている。あるいは、過去の知的資産を引用してこの場にレポートの形にして提出することの意義がはっきりしている。

(インターネットやgoogleが発達していなかった)従来なら、大学のレポートにおける問題というのはレベル2かレベル3の程度で議論されていた。例え他人のレポートを丸写しするような場合でも、一応は自分の手で文章を最初から最後まで書かないとならなかった。しかし、インターネット上に大量の知的資産が蓄積されるに従って、他人のBLOGの文章やはてなキーワードやWikipediaの解説をそのままコピー&ペーストして、多少の修正を加えてレポートの体裁を整えて(ひどい場合にはレポートの体裁すら整えないで)そのまま提出しているという話を聞くと、それはさすがにどうなんだろうという気がする。
更新の程度が1~2週間に一度というヘタレブロガーであるわたくしでさえ、何かお題が出て2000字程度のレポートであればそんなに苦もなく書くことが可能である。
ほぼ毎日エントリーをアップしているブロガーなら、息を吸って吐くが如くにレポートを仕上げることができるだろうと考えられる。(もちろん、一行日記や写真のみをブログにアップしている人々はそうではないだろうけれど。)
その一方で、文章を書いて自分の意見を表明する機会に横着して、WEB上のテキストを切り貼りして提出する人々もいる。
機械が発達したり交通機関が発達したせいで、人間が重いものを持ち上げたり長距離を走ったりする必要性は昔ほど無くなっている。しかし、インターネットが発達したからといって文章を書く能力の必要性は無くなったわけではない。むしろ、以前より重要性を増している。
文章を書くことに習熟した人々と、文章を書くことを回避した人々の差というのは取り返しのつかない差になってしまうのではないかと思う。でも、このような二極化の傾向は止まらないんだろうなと。

9月5日

プチ断食でも通常の断食でも、大事な事は、断食を行った後に完全に食を絶っていた期間と同じくらいに、流動食を摂取して胃の働きを徐々に戻していくということらしい。
という訳で、今日の晩ごはんはコンビニで買ってきたおにぎりをお湯で溶かして、それに万能ねぎと卵を加えて雑炊にして食べる。
この3日間プチ断食を試みてみたけれど、感想としては「2日間くらい抜いていても意外と大丈夫じゃないか」ということだ。
多田先生が以前仰っていたように、これから2日間絶食するのだと強く念じていればそれほど空腹を感じないように思えるのだ。

身体の調子はよくなったけれども、9月1日付けのBUBKAに甲野先生を誹謗する記事が掲載されていたことを思い出すとどうしても気が晴れない。
甲野先生本人に伝わるような形ではなく、ああいう「裏系」の系統の雑誌に掲載させるということ自体、所詮その程度の人物でしかないのだろうと思う。しかし、突出した才能の持ち主がリスペクトされるのではなく、人々の負の感情に足を引っ張られてしまうことが多い時代なのだ、ということを思い知らされてしまう。

About

2005年09月12日 10:21に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「お祭り終わったそのあとは」です。

次の投稿は「不幸な女子にかけられた呪い」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35