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2005年05月 アーカイブ

2005年05月06日

蟻の穴考

5月5日

具合が悪いので、武蔵野市演武会に行こうと思っていたけれども一歩も外に出られない。

5月3日

今日は特別に杖と木剣のお稽古があるということだったので、碑文谷体育館へ行ってきた。
久しぶりに杖と木剣が思う存分に振ることができるのだから楽しいんだろうなあと思っていたけれども、いろいろとむかつくことがあったのでとっても不機嫌。
ああ、でもやっぱりこういうことで激しくブチ切れ寸前までなってしまうのはまだまだ修行が足りないんだろうなあとも思う。
中村天風先生が繰り返し説かれている「怒らない」「恐れない」「悲しまない」という境地を一応は目指しているつもりだけれども、なかなか辿り着かない。
多田先生にご馳走していただいたワッフルを噛みしめながらそんなことを考えていた。

5月1日

ゴールデンウィークだというのに、とりあえず溜まりにたまった洗濯物を洗濯し、エントロピーが極大値まで上昇したお部屋の片付けをする以外に、これといった用事も無い。
「新選組!」DVDの第弐集もアマゾンから届いちゃってはいるのだけれど、あんまり見る気になれない。
結局この2日間は、朝とはいえない時間に起きる→「脳の活性化」という名目でゲームセンターに「クイズマジックアカデミー2」をやりにいく→食料を摂取する→1日のうちに有意義な事を何もしないのは心苦しいので申し訳程度に洗濯と掃除をする→2度目の食料を摂取する→入浴して身体中にたまったセルライト落しをする→寝るという、非常に生産的でないローテーションで過ごしてしまった。

こんな駄目駄目な生活は横に置いておいて、4月25日の尼崎脱線事故の原因について詳細な情報がいろいろと出てくるようになったので、わたくしの脳内の整理もかねて一通り書き出してみることにする。
一応、わたくしが理解している範囲では以下の通りになっている(はず)。

1、事故の起こった福知山線というのは、もとは1時間に1本ディーゼル機関の列車が走るだけのローカル線だった。けれども、宝塚を中心とする北摂地区が住宅地として開発されるに従って、大阪方面へと向かう通勤列車として使われるようになったので、国鉄時代に複線化・電化の工事が行われれ、新快速も走るようになった。だが、現在に至るまで線路の幅は狭軌のままであり、ATSも強制的に電車を減速させることの出来ない旧式のものが使われていた。「護輪軌条」という、線路の内側に脱線防止用のために敷かれる線路も、何故か上りのカーブの入り口には敷かれていなかった。(下りのカーブの入り口には敷かれていた。)

2、国鉄が民営化されてJRへと移行する際に、JR西日本(とJR東海とJR東日本もだけど)は10年ほど採用を抑制したため、4,50代の人間が大量にいて、30代の人間がほとんどいなくて、20代の人間がそこそこいるという相当に歪な人口構成になっている。さらに、国労の対策のために組合員のベテラン運転士をJR駅構内の蕎麦屋の店員に左遷して、20代前半の若手を簡単な登用試験で車掌や運転士に大量に採用するということが行われていた。運転や安全確認についての技術は上の世代から下の世代へときちんと伝達されていたかどうかは、非常に怪しい。

3、JR西日本ではコンピューターを用いて効率的なダイヤグラムの組成を行っているとされているが、実際のところは非常に過密なダイヤを現場の人間の気合で何とかするというような前時代的なマネジメントが行われていた。10m以上のオーバーランあるいは1分以上の遅れを起こした運転手は、現場を離れ「日勤教育」を受けることになっていたが、その「日勤教育」の実態は上司による理不尽な苛めであり、過去に自殺者も出していた。また、「日勤教育」を受けていて電車の運転が出来ない期間はその分給与から差し引かれるということらしい。単純に計算すれば1週間の日勤教育を受けると月給の25%減ということになり、ボーナスの査定にも響くと聞いている。(違うかもしれないけれど。)

4、関西地区の路線図をじっと眺めてみると、やはりJRよりも阪急とか阪急とか阪急とか阪神とか近鉄とか南海のような私鉄のほうが勢力が強いように見える。このような状況下では、JRは私鉄と真っ向から対抗するよりも、JRにしか行うことが出来ない京都地区・大阪地区・阪神間地区間の輸送に力を入れたということもわかる。しかし私鉄との競争に気を取られて、「尼崎駅で電車が1分遅れてしまうと、兵庫県の西の端から滋賀県の端までダイヤが遅れる」というような無茶なダイヤグラムを組んでいることも原因の一端ではないだろうかとも思ってしまう。
今回の事故を起こした車両は、JR福知山線宝塚駅始発→JR東西線を経由→JR学研都市線同志社前駅着ということになっているけれども、路線図を見る限りけっこう果てしない距離を走ってるのではないかなあ。

5、普通に電車に乗っていれば気が付くことではあるけれども、20m以上(車両1つ分)のオーバーランというのはそうそう滅多にあるものではない。電車運行のシミュレーションゲームである「電車でGO!」でも、20m以上のオーバーランをするとギャラリーから失笑を買うレベル。しかし、だからといって今回の事故の原因が全て運転士の彼にあるということが言いたいわけではなく、運転士を登用する際の試験でそこら辺の適性は何とか見極めがつかなかったのかな、とも思ってしまう。

……こうして書き出してみると、何か一つのことが原因となって今回の事故が発生したのではなくて、複数の要因が組み合わさって隙ができたところに運転士のブレーキングのミスが発生して被害が極大化したように思える。月並みな言葉で表現すると「堤防にアリの穴やウサギの穴が複数空いていて、それを放置していたところに洪水がきて堤防が決壊した」ということになるんだろうか。
でも、堤防に空いているアリの穴やウサギの穴が放置推奨されてしまうというは腐敗している組織に特徴的に見られることだから、JR西日本の責任は厳しく問われることになるのだろうなあと。

追記:ゴールデンウィークに突入してから、「事故を起こした電車にJR西日本の運転士が2人乗り合わせていたが、乗客の救助をせずそのまま出勤して運転業務についていた」「事故が発生した4月25日当日に、天王寺車掌区に勤務する社員43人がボーリング大会をして、その後打ち上げをしていた」というニュースも入ってきた。
やっぱり組織の腐敗が相当に進行しているんだろうなあ。

2005年05月17日

土方歳三な日

5月14日

今日は朝日カルチャーセンターで内田先生と名越先生との対談がある日。
しかし、咳止めシロップの副作用で今週中ずっと非常に眠い。
なので朝起きたら既に11時を回っていてしまっていた。
朝食兼昼食を食べてだらだらしていると、あああっという間に出かけなくてはいけない時間になったので家を出る。
でも、駅のホームで肝心の受講票を忘れてきてしまったことに気が付いた。
急いで家に取りに帰り、新宿の住友ビルまで早足で移動する。
ものすごく急いだけれども、朝日カルチャーセンターに到着したのは対談の始まる15:30ギリギリの時間だった。
朝日カルチャーセンターの入口のところで、ちょうど男子トイレから出てきた名越先生に遭遇する。前に「精神科医は老けるのが早い」と聞いていたけれども名越先生は40歳をとうに過ぎているのに非常に若々しく見える。
何か、精神を疲弊させるものを上手にやり過ごしていく方法があるのだろうか。
わたくしが椅子に座るとまもなく対談が始まる。
いろいろと凄まじく面白い話があったけれども、3分の1くらいは「まあ、これはここだけのクローズドの話ということでお願いします。」ということだったのでここに書いてしまうといろいろと支障が出てくるだろう。
でも、わたくしの記憶に残っていてかつ書ける話を書くと以下のような感じになります。
(でも、きちんとメモを取りながら聞いていたわけではないので細部は微妙に違うかもしれません。)

・会議に参加している人には3種類の人間がいて、それは「会議を早く終わらせてしまうために発言する人」と「会議を長引かせるために発言する人」と「会議を早く終わらせるためにできるだけ発言しないようにしている人」の3種類である。「会議を長引かせるために発言する人」は自分が賢いことを回りの人間に無理やり認めさせようとして、他人の意見に批判的な言説や全く具体性の無い正論を延々と話し出す。このような意見には反論することも出来ず、かといって「素晴らしい意見ですね!!!」と賛美する訳にもいかないので「早く終わってくれ」と心で思いながら黙って無反応でいると、「会議を長引かせるために発言する人」は「もしかして、僕の高尚な意見が皆さんにはきちんと理解されていないのかな???」などと誤解してさらに幼児にむかって噛み含めるようにくどくどと話し出すので、本当に疲労が蓄積する。何とかしてほしい。

・上の話の続きで、「会議を長引かせるために発言する人」が喋りまくって会議の収拾がつかなくなったときにそれまでずっと黙って話を聞いていた「会議を早く終わらせるためにできるだけ発言しないようにしている人」が一言スパっと鋭い意見を言って会議をまとめる。そういう人がずっと我慢して言いたいことを喋らないでおいて、最後の落しどころをうまいこと持っていくというところが、なかなか僕には真似のできないところだ。人が腕を伸ばしてそばにあるコップをつかむといくような単純な動きでも腕はさまざまな動きの可能性をいろいろと模索して、最後にもっとも適した動きで動くのだという話を聞いたことがあるけれども、そういう人々は最後まで自分の意見を様々な可能性を検討しながら保留しておいて、最後にもっとも適していると思われる意見を発見してそれをスパっと発言するのだろう。

・精神科医としてカウンセリングを始めた時には自分の話に対して「はい、そうですね!」と即座に相槌を打ってくれる患者さんが自分の話を聞いていて、「うーん…。そういうこともあるんですか…。」と中途半端な反応をする人は自分の話をきちんと聞いてくれていないと思っていた。でも、ある程度経験を積んでくると「はい、そうですね!」と即座に相槌を打ってくれる患者さんは実は自分の言葉がちゃんと届いていなくて、自分の言葉をきちんと受け止めた人は中途半端な反応をするものだ、ということに気がついた。

・最近の親の何がいけないのかというと、きちんと親としての成熟を果たしていないせいか、子供の抱えている中途半端な反応やうまく言葉では説明しがたいものについて異様な拒否反応を示すという点だ。自分の身体や感覚に対して注意深い子供であるほど中途半端な反応やうまく言葉では説明しがたいものを抱えているが、そういう子供ほど親や教師に激しく叱責されたりいじめの対象になったりする。それはやはり何か間違っている。

・飲み会などで7~8人で話をしていると、特に内容の無い話だけれどもその場にいる人間が全員その人の話に聞き入ってしまう人と、話の輪がせいぜい隣の人くらいまでしか広がらない人がいる。その差というのは、話のコンテンツの内容そのものというよりはその人の話す声の「きめの細かさ」にあるのではないかと思われる。声のきめが細かい人というのは、その声自体が聞いていて気持ちの良いものである。人に自分の話を聞いてもらえるかどうかは、話のコンテンツの内容よりも声自体に魅力があるかどうかということが重要な要素なのかもしれない。

対談が終わった後は単行本に内田先生にサインを頂いて、そのあと少しだけ「クイズマジックアカデミー2」をやって帰ってきた。

5月8日

今日は土方歳三の命日。
日野市で山本耕史トークショーがあるので、今日はゴールデンウィークのうち、唯一大型連休らしく出かけることにする。
朝3:30に起きて、4:30の始発の電車に乗る。
最近日中は暑さを感じるくらいになっているけれども、この時間ではさすがにベンチに座ってじっとしていると底冷えがする。
まりりんたんにメールで教えてもらった通り、ものすごく面倒くさい経路で新宿まで出て、そこから京王線の先頭車両に乗って高幡不動へ。
電車の中で「燃えよ剣」を読む。
電車移動中に上巻の3分の2くらい読んだけれど、どうしても「新選組!」と比較しながら読んでしまっている自分がいる。
「新選組!」と比べて「燃えよ剣」がつまらないということが言いたいわけではない。
しかし、「新選組!」と比べると「燃えよ剣」は戦闘シーンがきちんと書き込まれているが、ストーリー上スポットライトが土方歳三にのみ当たっていて、近藤勇や山南さんや平助や伊東甲子太郎などはあまり魅力的な人物として描かれていない。
それを考えると、「新選組!」はいろいろとアラもあったけれどキャラクターの造型という面では出色の出来だったんだなあ、ということを改めて思い直す。
途中の駅でまりりんたんが乗ってきたので「おはようございます」と声をかける。
近況報告を一通りした後、電車が高幡不動に到着したので、降りて高幡不動に向かう。
しかし、高幡不動のホール前には徹夜で並んでいるはずの人が誰もいなかったので、まりりんたんが「やばい、会場はここじゃない!」と叫びだした。
わたくしは「えっ、そうなの???」と戸惑っていたけれども、そこら辺に貼ってあった「ひの新選組まつり」のポスターを探し出して読んでみると山本耕史トークショーの会場は高幡不動ではなく日野市民会館であることが判明。
急いで高幡不動駅に引き返して、ちょうどバス停に停まっていたバスに乗り込み日野市民会館に向かう。
そうして会場に着いてみたら、朝の6時40分くらいだというのに、トークショーの整理券を求めてもう300人程度並んでいる。
恐らく、この中の200人くらいは徹夜で並んでいるか夜に車でやってきているかのどちらかなんだろう。
わたくしたちも敷物と椅子をスタンバイして2時間半ほどひたすら待つ。
9時15分くらいになると既に行列が定員の1000人を超えてしまったらしく、予定を前倒しにして整理券を配り始めた。さらにもうしばらく待って、念願の整理券を手に入れる。

さてトークショーが始まる15:30まで何をして時間をつぶしましょうか、ということになったけれど、まりりんたんが「土方歳三資料館に行きたい」と行ったので、そこに行ってみることにする。
バスで高幡不動駅前まで戻って、少し喫茶店で時間潰しをしたあとモノレールで移動して土方歳三資料館に行く。土方歳三資料館は、彼の子孫の方のお宅の一部を休日や特別な日に資料館として開放しているもので、あまりに普通のおうちの一角なのでけっこうびっくりしてしまったけれど、わたくしたちと同じ事を考えていた女子たちが多いらしく、20mほどの行列が出来ている。
土方歳三資料館は狭いのでどうしても展示できる展示物に限りがある。でも、土方歳三直筆の発句集の掛け軸や愛刀の和泉守兼定の実物を見ることが出来たのはラッキーだった。土方歳三は想像していたよりも非常に端正で綺麗な字を書いていた。
高幡不動駅前でお昼ごはんを食べてから、再び日野市民会館に戻る。
日野市民会館に戻ってみると、ちょうど「ひの新選組まつり」のパレードに参加していた人々を山本耕史と「新選組!」で時代考証をしていた山村先生が出迎えていたところで、尋常ではない数の人々が集まっている。1000人以上は集まっているだろうか。
人を掻き分けて可能な限り前に行ってみたけれども、わたしの身長で背伸びをしてかろうじて2人の顔が見える程度だった。まりりんたんは背伸びをしても全く見えないので、後ろの人の邪魔にならないように携帯用の椅子の上に立って見ていた。
この凄まじい人の集まりをドラマや演劇のプロデューサーがきちんと見ていたら山本耕史ももう少し良い役でドラマに出ることができたり、お芝居も500~600人入る会場でできるのに。次のお芝居は東京では300人しか入らない劇場で公演を行うから、全然チケットが手に入らないのよ。とまりりんたんは語っていた。

パレードの最後尾まで到着すると、日野市民会館前の尋常ではない人だかりが徐々に市民会館の中に吸い込まれ、そこで15:30まで待っているとやっと山本耕史トークショーが始まる。
最初に高幡不動の和尚さんが、今年の節分の豆まきで山本耕史をゲストに呼んだら、長年成田山新勝寺が1位の座を守りつづけていた豆まきの動員人数で、成田山に圧倒的な差をつけて1位になったと言う話を満面の笑みを浮かべながら語っていた。
高幡不動の和尚さんはこれと全く同じ話を、3月にあった井上源三郎役を演じていた小林隆さんのトークショーでもしていたとまりりんたんから聞いていた。和尚さんはよっぽど嬉しかったのだろう。
その後に山本耕史と「新選組!」で時代考証をしていた山村先生が登場。
「『新選組!』の続編が単発の2時間ドラマで正式に企画が持ち上がった話」「香取くんの携帯番号を凄まじい苦労をして手に入れた話」「『新選組!』で共演した女優さんの印象」など興味深い話をいろいろとしていたのだけれども、早起きをしたせいかそれとも積年の疲労が蓄積していたせいか、不覚にも途中で意識を失ってしまった。せっかく朝の3時半に起きてここまで来たのに、聞き逃した話があるのは非常に悔しい。
トークショーが終わり、出待ちを試みた後はさすがに疲労が蓄積してしまったので、限定生産ブルーベリービールを購入した後そのまま帰った。非常に長い一日だった。

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