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これについて語り出すと・・・

5月9日

 輸入CD発売禁止法案というのは人々が洋楽を聴く自由を侵害するDQN法案で、例え自分が邦楽や日本版しか聞かないからといって関係のない話ではない。。。と書いてはみたもののちゃんと法案を読んでないので何がどうなるのか理解してません。すみませぬ。

5月8日

 今週はあまり人生にやる気が無かったのでニュースや2ちゃんねるのニュース速報などをチェックしてなかったけれど、アメリカ軍のイラク人捕虜虐待事件の詳細をネットで調べているうちに相当鬱が進行してしまった。 
 「女性兵士が全裸の捕虜に首輪をつけて引きずりまわす」「全裸の捕虜に体育の授業で行ったような人間ピラミッドを作らせてその後ろでカップルが記念撮影する」「裸にして冷水を浴びせる」「ほうきの柄などで性的暴行を加える」「性的行為を強要する」「軍用犬をけしかける」......ってこれは単なる虐待拷問というより悪質な性的虐待ではないか、という気がしてきた。
 日本やアメリカでは性的な情報が比較的自由に手に入ったり性的なタブーの敷居が相当に低くなってしまっているので性的虐待を受けた人間の痛みというのを過小評価しがちであるけれど、これによってイラクの人々が受けた傷というのはとてつもなく大きいのではないか、この問題は日本における「従軍慰安婦問題」よりもよっぽど後々まで禍根を残しかねないのではないかという気がする。
 それにしても、アメリカはいつの間にこんな国になってしまったのか。。。 
そしてこんな国に追従しなくてはいけない日本っていったい。。。

5月6日

 ゴールデンウィーク明けで全くお仕事にやる気が入らない。あまりにもやる気が無いのでさすがに自己嫌悪に陥ってきた。
 ついでに日記も書く気が起こらないのでキーボードを打つ手がほとんど進まない。。。
 あーあーあ。

5月5日

 月窓寺の春季演武会があるということで吉祥寺へ行く。
 しかしズームインSUPERの占いのコーナーで運勢が12星座中11番目だったり、お昼ご飯に勢いでつくって食べたすし茶漬けが恐ろしくまずくて吐きそうになったり、理由は特に無いけれど妙に嫌な胸騒ぎがしたりしたので行くか行くまいかかなり悩んで結局いくことにしたけれど、行ったらやはりいろいろとむかつく出来事が起こって嫌になった。(まあ今日はあえて『こういうことがあってたのでわたくしは恐ろしくむかついたのでした』ということは書きませんけど)
 そんな訳で演武の時に通常よりちょっと邪念が入った人が降臨してきたのが少し悔やまれる。
 本当はもうちょっと長居をしたかったけれど、とっとと引き上げて早く寝る。
 
5月4日

 一日中お昼寝をしたりご飯を食べたりインターネットカフェでHPを見たりしているうちに一日が終わってしまった。
 ・・・・・・これだけだとおとといと同じく2行で一日の記述が終了してしまうので、貴方の疑問にお答えすることにします。
 M台S司の5月3日付けぶろぐの内容(http://www.miyadai.com/index.php?itemid=92)を端的に要約すると「戦略的な政治行動を行うことをせず『感情の表出』しか行うことをしていない団塊の世代は屑」ということになるのですが、これだけだと「サイファ覚醒せよ!」を読んだ人や重度の宮台オタしか分からないのでもうちょっと解説を入れます。
 このページの大家でありわたくしの思想におけるヴァーチャル師匠でもある内田先生は1950年生まれでちょうど「団塊の世代」と呼ばれる人々の範疇に入ったりしますし、例えば橋本治のように「団塊の世代」であっても極めて賢明なものの見方をする人々がいたりするので、以下の記述はわたくし個人の意見ではなくM台S司の言っていることをわたくしが拡大解釈したものと捉えてほしいのですが、団塊の世代の人々は人数的に多数派を占めていて民主主義政体では有利に事を進めることができるはずなのに現実では彼らより上の戦争を経験した世代に政治的・経済的なイニシアティブを握られたままで世代交代を完了させることができていません。このあたりの理由が「彼らが現実に有効な行動を取ることより感情の表出を優先させること」と「会社とか政党とかそういう大いなる共同体に一体化する傾向があること」にあるのではないかとM台S司は言っているようです。
 『感情の表出』ということについてはM台S司が「サイファ覚醒せよ!」の中でちゃんと解説しているのですが、極めて単純に要約すれば自分以外の他者に対して自分の思い・考えを伝えようとする「表現」に対して自分の内部の感情のわだかまりやうっぷんを解消する手段としての「表出」があると彼は言っているようです。もうちょっと具体的な例をあげるとすると同じ「カラオケを歌う」という行為でも誰かの楽曲を歌うことを通してわたくしが貴方に対して心の内を伝えようと試みるとすればそれは「表現」であり、ブルーハーツでもシャウトして自分の心に蓄積した様々な鬱屈を外に出そうとするならばそれは「表出」に分類されます。なぜM台S司がこのような区別を強調するかというと、彼が個人情報保護法案や児童ポルノ・児童売春禁止法案に対するロビー活動を行っていた時にいわゆる「思想が左側の人々」が国会周辺でデモ行進を行いシュプレヒコールを叫ぶだけで現実的に法案を書き換えさせるような実効性のある行動をしようとはしなかった、いうことに対する諦めが底流にあるのだとわたくしは解釈しています。
そして現状を変えていくためには単なる「感情の表出」を行うだけでは無意味で現実に有効な行動を取って結果を出していくことが重要だということを彼は強調しているようです。
 『大いなる共同体への一体化』の一体化というのはきちんと説明すると長くかつ収拾のつかない文章になりそうです。しかしそれでもあえて説明すると今ここでまな板の上に乗せられているような「一般的な団塊の世代の人々」というのは口では民主主義・個人主義を主張するのに対して実際の行動の次元では個人の精神で孤独やアノミー(前提空洞化)を引き受けたりするようなことはせず、会社であるとか国家であるとかあるいは政党であるとかそういう自分より大きな共同体に一体化し個人の自我を溶解させることによって孤独やアノミーを解消する傾向にあります。また、そうして「共同体の喜び=個人の喜び」であるような状態に身を置きつづけることで次第に思考停止状態に陥り知らない間に共同体を操る人間の意図の成すがままになってしまっているというのが現在の「団塊の世代」の人々の現状であるような気がします。現在自分たちが歴史上どのような文脈に置かれており、そしてどんなアドバンテージとディスアドバンテージを自分たちが持っているかをきちんと理解し、さらに自分たちの政治的
目的を達成するためにどのような手順、どのような戦略が必要であるかをリアルかつクールに考え抜くという能力が今ここで論じられているような「一般的な団塊の世代の人々」に致命的に欠落してしまっているのです。(しかしこの辺りの能力はM台S司の世代でもわたくし達の世代でも致命的に欠落してしまっているのですが。)
 ・・・・・・これで貴方の疑問は少しは解消されたのでしょうか?それとも「ますます分からなくなったじゃねーか」と怒ってるんでしょうか???いずれにせよこのあたりがわたくしの文章力の限界なのでもう寝ます。おやすみなさい。 
 補足:高遠さんに対してM台S司が「他人の承認を得るためだけに何もイラクに行って日本国民に迷惑をかけることをしなくてもというようなことを言う可能性はあるかもしれませんが恐らく「世間様が許さない」というようなことを言うようなことはないでしょう。その理由を解説するとただでさえ長い文章がさらに長くなります。

5月3日

 せっかくのゴールデンウィークなので、今日は2ちゃんねるでものすごく賛否両論の大論争になっていた「CASSHERN」を見に行くことにする。
 本当は職場に立ち寄って用事を済ませた後すぐに映画館に直行すればよかったのだけど、今ONAIRされた「徹子の部屋」に小室哲哉先生が出演されて30分間お話しになる(この前のライブでは最後に「ありがとうございます」くらいしか言葉を発しなかったのに。)という情報を入手してしまったので「徹子の部屋」を見終わった後、急いで渋谷に向かうことにする。 
 渋谷に到着したのは1時ちょっと過ぎなのに、3時40分からの整理券は既に無くなっていて7時30分の回のしか残っていないという。会場が狭いのも理由の一つかもしれないけれど思った以上に混んでいるようだ。
 そして、ブックファーストで「ミーツ」を読んだりフレッシュネスバーガーで腹ごしらえをしたりして時間を潰して上映時間を待つ。
 上映時間の30分前に映画館に戻ってパンフレットを買って入場を待つ。開始7時30分で終了が10:00という回なのに満席。この様子だと興行面で大失敗して配給会社が大損、ということはなさそうな感じ。
 そして見終わった感想を書いておくと、やはり扱っているテーマが重いせいか爽快な気分にはなれず鬱状態が進行した気がする。CGの映像自体はとても綺麗なのですが。。。しかしどうしても「完全な正義など存在しない」「僕たちは生きているだけで他人に傷を負わせてしまう」「破壊や暴力では世界を救うことができない」というメッセージが重くのしかかってしまう。ある程度精神状態が良い時に見に行って本当に良かったと思う。
 だからといって、2ちゃんねるで酷評されているように「ストーリーが破綻した超駄作」とも言えないのがなかなか難しいところではある。紀里谷さん(宇多田ヒカル夫)が現実逃避気味のわたくしたちにこういうメッセージを是非とも伝えたいという熱い思いは痛いほど伝わってくるし、宮迫の演技は超絶に凄まじいし、要潤はものすごく格好いい。そして秋葉でパーツを買って自作したPCでエンジニアさんが気合いで一コマ一コマずつ加工して仕上げたという画像は本当に綺麗なので映像作家才能自体は本当に凄い物があると考えてもよいとは思う。
 しかし、ラストの宇多田ヒカルのテーマソングの「誰かの願いが叶うころあの子が泣いてる......」という部分を聞いて「ああこれは誰か巻き添えにして見に行こうかとも一瞬考えたけれど一人で見に来て良かった。」と思ってしまった。まあこれは個人的な理由が背景にあるのですが。


5月2日

 一日中ごろごろしたり軽くお掃除をしたりネットを見たりして一日が終わる。
 まあこれもゴールデンウィークの正しい過ごし方ではある。

5月1日

 アイルトン・セナが事故死してから今日でちょうど10年。
 そういえば10年前わたくしがまだ高校生だった時に生徒会のお友達同士で発行していた冊子にアイルトン・セナの追悼文を書いたな、ということを思い出した。
 その文章の現物はもう残っていないし、あったとしてもあまり読み返したくない。その時文章を書いたことは書いたけれど、後で全校に配られたものを改めて読み返したときに「わたくしは所詮この程度の文章しかかけないのかよ」とかなり落ち込んだ記憶がある。その辺りのころと比較すれば、今はだいぶ自分の納得できる文章が書けるようになった。
 これも、一応は10年間の成長の表れ、ということなんだろうか。
 思い返せば10年前のこの日を境にF1をほとんど見ることが無くなった。(そして大学に入ってからお馬の方に転向した。)今、新宿高島屋でアイルトン・セナ追悼展を行っているけれども、見るといろいろ辛くなってしまいそうなのでたぶん見に行くことができないような気がする。
 そういえば10年前の今日はサイレンススズカが生まれた日でもあった。
 これについて語り出すと長くかつお馬が大好きな人にしか理解できない文章を書いてしまいそうなので省略しようと思う。

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2004年05月10日 14:58に投稿されたエントリーのページです。

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