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「こんにちは」なヤンキー賛

6月9日(木)

4月の1発目のこのブログでちょこっと書こうとした「ヤンキー」というものについて考えている。
というより晶文社の名編集者・安藤さんからのリクエストもあって、これはぜひとも書き切らねばならない。

いきなりだが「あなたはヤンキーですか?」と訊かれて、あからさまに「違いますよ(ぷんorげっ)」と怒る人は、関西とりわけ大阪ミナミや岸和田といった街では、周りとあまりコミュニカティブかつ愉快にやってこなかったのではないか。
これまで「ひょっとして自分は、この街にそぐわないのではないか」と、しょっちゅう思ったりしていて、東京に(NYでもパリでもどこでもいいけど)行きたいなあ、なんて考えたし、今もそう思ったりしているのではないか。

また、その「大阪ヤンキー的感覚」がわからない人は、新興住宅地のしか住んだことのない人か、あるいはそういう外見で「ツッパる」ことしか出来ない社会にいる、本当の田舎の人だと思うのである。
そして、よく「ヤンキー的なるもの」は閉じられた旧いムラ社会的で、開かれた新しいマチ社会的ではないという主張があるが、それも微妙に違う。

社会学者 の「ほんとうは“とても”いいやつ」ミヤタケさんも、前のブログにコメントしてきて

>ヤンキー的な、「知り合い=いいやつ」で構成されてる集団って、「社会」じゃなくて「共同体」、つまり「ムラ」じゃないですか?
>「なぁなぁ」の「信頼」感、もとい「安心」感で支えあってる人々って、つまりは「ムラびと」です。
・・・なんて、社会学っぽく言ってみましたが、
>要は、田舎くさーい感じです。
>そういや、ヤンキーって、田舎に多いですよね。

と書いてきているが、それは北関東とかに多かった、シャコタンの竹槍出っ歯クルマとか、長ランぺしゃカバンのスペック・ヤンキー世界軸しか見えていないのだと思う。
ただの不良少年は、ただの不良少年でしかなく、そんなのは大変つまらない。

橋本治さんの『いま私たちが考えるべきこと』(新潮社)を読んでいると、大変面白いことが書いてあった。
橋本さんが、かけだし作家だった頃、商店街の菓子屋を商っていた実家に住んでいた。
ある日、橋本さんの家に編集者が迎えにきて、そこから駅に行くまでに30人を超える人に「こんにちはー」を繰り返し、その編集者は「なんでそんなに知ってるんですか?」と驚かれた。
橋本さんの実家は、「気取ってる」と言われがちな東京の山の手で、べつに「人情厚い下町ではない」と書かれている。
そして何でそうしているのだと説明されているのだが、それは「地域社会が健全で健在だったから」としか言いようがなく、そういうところで育った自分はムラ社会的な人間かもしれないのだが、「誰彼かまわず」はムラ社会ではなくて、「マチ社会」だろう。
けれども「マチ社会だってムラ社会みたいなもんだから、マチ社会とムラ社会のちがいなんかよく分からない」と思っている。
ただ「こんにちは」の関係性がある社会は、あった方が楽で、それは「(よくは知らないが)よく会う、つまり知っているだけの人」が「敵意の持つ必要のない人」になるから、そのことによって住環境はおだやかになるから、悪いことじゃない。
それは「人と人との間にあるのりしろ」みたいなものだ、と書かれている。

わたしは、
>ヤンキーは、剃り込みを入れたり、ウンコ座りしたり、道に唾を吐いたり、ジャージを着て街を歩いたりしている人のことを指すのではないし、決して高校を中退したり10代で出来ちゃった結婚をする人ばかりではない。
>何が言いたいかというと、「ヤンキー/非ヤンキー」においてはヤンキーの方が、ずっと社会的であるということだ。
>ただその「社会」というものが、「知ってる人」ばかりで構成されていて、「知ってる人=いい人」。逆に自分たちの社会の構成員でない「知らない人=いい人とは限らない」が明確すぎるくらい明確なだけだ。
>これはちょっと困るけど、複雑である。
>どういうことかというと、病気になって「ヤンキーでない」看護婦さんに当たるととても「ビジネスライク」に看護をされて怖いし泣かされそうだし、「ヤンキーでない」鮨屋の板前さんならいいネタを出してくれなさそうだし、「ヤンキーでない」建築関係の土方や大工さんならコンクリートに混ぜものをされたり梁を1本手抜きされそうだからだ。
>だから若い衆始めだんじり関係者がヤンキーでなかったら、誰も大工方になって屋根には乗ろうとしないし、怖くて前梃子なんて持ってられない。若頭筆頭なんて、とてもとても…なのである。

とこのブログで書いたが、いま読み直していてもやはりしっくりきてしまう。

だんじり祭の場合で考えると、それは極端に顕著に「知ってる人=町内の同じだんじりを曳いてる人」と「それ以外の人=よその町の人」の分別がはっきりしている。
それはもう、これ以上はっきりしすぎるものがないほどはっきりしている。
青年団とかの下の者がオレら若頭(橋本さんによる「(よくは知らないが)よく会う、つまり知っているだけの人」)に、たまたま道で会って「こんにちは」がないと、たちどころに団長が呼び出される。
「ちょっと、うちの若いもん、このごろ行儀悪いんとちゃうんか。挨拶もせえへん、どないなってんや」である。
だからこそ、外の人間からするとその社会は「知りあい=いいやつ」ばかりで構成しようというベクトルが強い、排他的なムラ社会的に見える。

けれども実際はそう単純ではない。
こと祭ごとに関しては、小唄にも唄われる「年に一度の大祭」のいきなり「何だかわけの分からないだらけの世界」に放り込まれる。
どうして、命を懸けてまで、こんな4トン以上の重たい木のカタマリのだんじりを曳き回すのか。
何で曲がり角は、危険極まりないのに全速力で走って曲がらないといけないのか。
そもそもなにが原因で、よその町と大喧嘩するのか。
などなどといった、ほとんど元々考えることすらナンセンスな問いが立てられる前に、いきなり「お前らわかってんか! いかんかえ!」「はいっ」「よっしゃ」なのである。
つまり「わけの分からないこと」で叱られ、それをまるごと受け入れることからしか、この祭は始まらないのであり、参加できないのである。
そしてこのだんじり祭は、よく知られているように、常に死と隣り合わせだ。
一人の不注意やポカやミスが、そのまま自分だけではなく、前梃子や大工方を初めとする「上の人」のそれへと直結する。
だから普段から「○×ちゅうやつは、ほんまにエエ加減や」とか「おまえみたいな頼りないやつは、知らん」とかほとんどボロクソで、いざ祭の最中でも「こらあ、何やってんなぁ!」「しっかりせんかえ!」と容赦なく怒鳴りつけ、時にはパンチを見舞うことがあるのだが、それはだんじり祭というものは「命がけの祭」だからである。

長幼の絶対関係やその年の責任者の発言力が絶大で、けれども何があってもそれに下の者がついてくる。
なぜかというと、上の者は祭について「自分より、よく知っている」からである。それはほとんど幻想かもしれないが、祭とはそういうものである。
そして、いざ祭の曳行時の綱元や前梃子や屋根乗りの「上の人」は、なによりもかっこいい。毎年かっこいい。
さらに、そのかっこよさは、祭以外の日常でも居酒屋などでたまたま出合って「こんにちは」と挨拶すると、「お前ら何人や、そうか4人か。ねえちゃん、この子らにビール10本出したって」であるし、スポーツ大会や会合の弁当の際にも「おい、全員に回ってるか。下のもんから先に食うてええど」「いただきまーす」だからだ。
それは大げさに言うと「何をおいても、自分を犠牲にしてまで、最後はわたしをかばってくれる」という、徹底した身びいきの論理が貫徹されているからだ。
その身びいきの論理には必ず「お前のこと、憎うてこんなこと言うてんちゃう」が根底にあり、逆説的には祭の際の「下の者」への徹底的な信頼感、つまり「お前ら、若い衆! 頼んどくど」につながる。
でないと、上の者=高年層だけでは、だんじりは疾走しない。当たり前の話だ。

「心意気」とはつまりそういうもので、わたしとあなたは「知っている人」で、だからこそいつもあなたの言うことを「意気」に感じ、いつでもどんな場合でもそれに応える用意がある、ということだ。
ここに外見だけ、「イキってる=意気がってる」だけのスペック・ヤンキーとの決定的な違いがあり、ことだんじり祭においては「何イキってんな、気合い入れんかい」が優先されなければ、だんじりは曲がらない。
そこには「自分一人では、そんなものどうしようもない」、けれども「自分がいないとだんじりは動かない」という、とても難儀な両義性への接近が必ずある。
この街での社会性、つまり人と人との言葉や身体運用のやり取りを支えているのは、「自分自分、いうてナンボもんやねん」というある種の諦観と、言えそうでなかなか言えない「オレが、やっちゃる」のある種の使命感の両立で、それに引き裂かれた実経験が「昔は、オレもヤンキーやった」という「照れ」なのだ。

だんじり祭以外でも、岸和田というところにある中学は、伝統的に野球やサッカーが強くて、生野や東大阪はそれがラグビーで、それら一流選手の名産地であるが、やはりそのチームの構成員全員がヤンキーでないとそういうことはちょっと無理だと思う。
それが分からない人や違和感を覚える人は、IT関連やM&Aとか、戦略マネジメントシステム、eビジネスいった「六本木ヒルズへの道」の方が、むしろ近いのかもしれない。

祭もせず、街や外に出ていかず、一人で部屋に引きこもって「まったり」してしまっていては、いつまでも「こんにちは」はわからない。

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コメント (1)

門葉理:

江編集長のおっしゃるヤンキー精神、これって伸び続ける企業に必要な精神ですよね。
そして、現代が、(決してロボットでも、ゲームの中の一度死んでも簡単に生きかえる登場キャラクターでもない、)『人』の生きる空間・時間であるために必要としているもの、なんだと思います。

“大げさに言うと「何をおいても、自分を犠牲にしてまで、最後はわたしをかばってくれる」”のが、「上の人」。
だから、その「上の人」はかっこいい。
そして、そのかっこよさに憧れ、目標とし、自分も「下の人」を守れる人になろうと、懸命に頑張る。


たかが祭り、のために、岸和田の方々は、転職退職をしてしまわれる、と、よく書かれてますね。

それは、祭りの中には、その職場には存在しきれない、人間として一番大事にしたい精神、生き方そのものが、充満しているからなのではないでしょうか。

岸和田のだんじり祭りは、単に祭りではなく、生き様そのものを反映し、自分の存在を充分すぎる程に、堪能し得るものなのではないでしょうか。


今日のブログを拝見し、理解が深まった気がします。

江編集長が、祭りと両立しつつ、京阪神エルマガジン社を「辞めちゃるわい!(←こんな感じで岸和田弁、あってますか?)」にならなかったのは、
(もちろん、江さんご自身の涙ぐましい努力の上にではあるでしょうが、)
祭りと同じ精神が、御社には宿っているから、だと思います。
前回ブログの、編集者のみなさんへの呼びかけ、「ええかー、わかってるかー」と重なり、
御社の熱い精神、息遣いが、感じられてなりません。


「ヤンキー」は、どう考えても、「街的存在」であると、再認識した次第です。

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2005年06月09日 21:45に投稿されたエントリーのページです。

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