アジア・太平洋戦争終結後、東アジアで次々と大虐殺が起きました。その一つが、済州4・3です。現在は韓国の一行政エリアとなった済州島で起きた大虐殺について、国内では長らくタブーとなっていましたが、水面下で事実の発掘作業が模索され、民主化を経て公となりました。初めて商業映画として済州4・3を描いた『チスル』公開は、2014年です。「チスル」とは、現代の済州島では商品にならない「ジャガイモ」を意味します。収穫後の畑に残っている、小さなジャガイモです。
その次に2025年映画『ハラン』が公開されました。「ハラン」とは「寒蘭」の韓国語発音で、冬に咲く蘭を意味し、極限状態を生き抜こうとした人びとを象徴しています。日本では、『済州島四・三事件 ハラン』というタイトルで2026年4月3日から上映が始まり、予想を大きく上回る反響がありました。日本での公開前に、報道用資料とパンフレットへの寄稿を依頼されました。日本各地での映画上映も一段落したようですので、公開していなかった報道用資料をこちらで掲載します。パンフレットは、報道用資料を一部削除したものですので、こちらの方がやや長いです。

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「済州島四・三」とは
1945年の日本敗戦に伴い、朝鮮半島にアメリカ軍と旧ソ連軍が進駐、分割占領した。南朝鮮ではインフレや食糧不足が深刻化し、民衆の不満が募っていた。1947年、済州島で行われた三・一節記念集会で警官の発砲により民間人が死亡したのを機に、島民はアメリカ軍政への反発を強めるが、これに対し軍政と結託した極右集団や警察による弾圧が激しさを増していく。1948年、アメリカ軍政が南朝鮮の単独選挙を決定すると、反発した一部の島民が4月3日に武装蜂起。国防警備隊や韓国軍、警察、極右集団が長期間にわたり島民を弾圧した。同年10月に焦土化作戦が始まると弾圧は苛烈を極め、1954年9月までに30,000人近くが犠牲になったとされる。政府の反共路線の中で長らく真相が伏せられていたが、2000年、真相究明と犠牲者の名誉回復がなされることとなった。
(監修:伊地知紀子/大阪公立大学)

報道資料:映画『ハラン』
 映画『済州島四・三事件 ハラン』の日本上映で初めて済州4・3に出会った人は、なぜこのような大虐殺が1948年に済州で起こったのかと疑問を持つかもしれない。日本は、アジア・太平洋戦争の敗戦国として米軍政下にあった時期だが、米軍政の範囲は朝鮮半島南部にも及んでいた。済州4・3は、日本とは別世界で起きたのではない。日本による朝鮮の植民地支配の崩壊と米ソを二極とする冷戦体制の始まりを一気に強いられた地が、済州であった。
劇中、島の中心にそびえる漢拏山に残された日本軍のダイナマイトが示すように、日本による植民地支配下の済州は、対米戦争の最終決戦地とされていた。1945年8月15日を迎え、解放朝鮮では、各地で自分たちの手による国づくり(「理想の社会」づくり)が活発化した。だが、朝鮮半島部での自立的な動きは、日本の次にこの地に踏み込んできた米ソとその手先となった人びとにより次々と弾圧され、済州は最後の標的地となったのである。
 済州4・3の「4・3」とは、1948年4月3日を示す数字だ。この日、南北分断につながる南朝鮮単独選挙への反対、また米軍政・警察・右翼による横暴への抗議から、300人ほどの島民(済州4・3の歴史では「武装隊」と呼ばれる)による武装蜂起が決行された。同年10月、韓国軍による「焦土化作戦」が始まる。国軍の指揮権は駐韓米軍司令官にあった。海岸線から5キロ以上の山側エリアは「敵性区域」とされ域内にいる人間は殺戮の対象となった。解放前に立命館大学を卒業した武装隊司令官・李徳九は49年6月に戦死したが、朝鮮戦争の最中にも虐殺は続き、武装隊の最後の一人が逮捕される57年4月までに3万人近くの島民が犠牲となる凄惨な結末を迎える。政府軍(済州4・3史では「討伐隊」)による犠牲者が8割という事実は、半世紀後の95年に初めて明らかになった。残り2割の中には、武装隊による犠牲者もいるということだ。
 劇中、何度も出てくる「理想の社会」という言葉は、もちろん全ての島民にとって同様に掲げられていたのではない。家族を探しに下山しようとしたイチョルは、途中で出くわした村人らに政府軍への密告を疑われ、「家族が死んだら理想も何もありません」と返答するが射殺される。同様に娘を探しに下山しかけた主人公である母・アジンは、自分たちを標的とする政府軍に銃や槍で立ち向かおうとする人びとに対して叫ぶ。「理想の社会」を掲げても「復讐したらあなたも彼らと同類です」、と。政府軍とて一様ではない。「助ける」と自首を促す政府軍のビラを見て山から降りようとする村人に、「山へ戻ってください」と話かけた軍人は、上官に直ちに射殺された。殺された軍人は済州語を話しており、地元出身だったのだろう。
 済州4・3は、韓国歴代政権のもとで半世紀近く正史から消されてきた。韓国という国家の正統性を揺るがすものだったからである。『済州島四・三事件 ハラン』は、済州4・3のなかにいた人びとの姿をくまなく描き出そうとする、限りなくノンフィクションに接近したフィクションである。済州4・3を描き出そうとするとき、加害と被害をきっちり分けることは凄まじく困難であることを多角的に映し出す。

 済州4・3の最中に、父・兄・姉を殺された安基男さんの家に30年以上通いながら、各村むらの体験、またこの時期に渡日した経験を数多くの人びとから聞いてきた私にとっても、劇中で描かれるシーンごとにお一人おひとりの姿を観るようだった。安基男さんの父は、同じ村の人の密告により政府軍に殺された。日本の植民地期に小金を稼いで脱穀場を経営していた父への妬みが理由だったという。村の18歳から35歳までの男性が集められ小学校で政府軍に集団虐殺された中に兄もいた。姉はお腹の子どもと共に政府軍の流れ弾に当たり手当てもできないまま、腹の子どもと共に亡くなった。朝鮮戦争が始まる前に同じ村の女性と結婚した安基男さんは、政府軍の男性に妻を奪われた。政府軍に殺された者の家族は「暴徒」、つまり共産主義者の遺族となる。安基男さんは、国是が「反共」である韓国で生き延びるために、朝鮮戦争勃発後に韓国軍に志願したのだった。
 生き延びるために向かった先に、日本がある。ただ、村を出るのは容易ではなかった。劇中に触れられるように、「通行証」を持たずに村から出ることは禁じられた。アジンのような女性たちはどのように生き延びたのだろうか。村の領域ではあるが、済州の女性たちが多く従事した海女仕事のために、海に入るにも厳格な時間制限があったという。当時12歳だった新村里の金徳仁さんは、ワカメや海苔、ヒジキを海辺で採集し粟と炊いた。腐ったイモも団子にした。「生きてきたのが不思議だ」と語った。
 大林里で大海女だった李性好さんは、父や兄姉のいる大阪での工場労働を目指して解放前に渡日し、結婚のため帰郷、済州4・3では夫婦で武装隊側の北西部地域の代表として活動した。日本語を話し土地勘のある李性好さんは、武器の調達を依頼され大阪へ密航し、銃を一丁入手し再度密航船で済州に戻る途中、同乗者に銃の存在を知られ海に投げ捨てた。上陸するや否や警察に拘束され拷問を受けながらも署内にいた親戚のおかげで釈放、大邱の刑務所に収監されていた夫の元へ向かうも瀕死の状態であった。夫を荼毘に付し、身の危険を考え兄のいる大阪へ渡った。
 東日里で生まれた姜京子さんは次兄と次姉が武装隊に入り母と自身は村に残ったが、母は警察で激しい拷問を受けた。釈放後に次兄と遭遇した時に、彼が「お母さん、ごめん」、「僕らのために、お母さんこんな目に遭わして」と泣いた。母への拷問のあまりの酷さに祖母が母娘で日本に行くように勧め、父・長兄・従兄が解放前から在住する大阪に向かった。
 兵庫県西宮市で生まれ高等女学校を卒業した高蘭姫さんは、解放後一家で本籍地の新村里に向かった。新村の学校で教員をしていた李徳九に誘われ、武装隊との連絡係を担当した。そのことを密告され、父が高蘭姫さんを母方叔父のいる大阪へ逃す手配をした。密航船に乗船した時に、港に来た李徳九が「君たち、良心があったら今すぐ降りろ、こんな大事な仕事の途中で自分らだけ逃げて、どうするんや」、「おまえらは逃避者や」と叫んだ。高蘭姫さんは父の願いと李徳九の声の狭間で葛藤しながらも大阪に到着、その後、父は娘の身代わりとして政府軍に「代殺」されたのだった。ある女性は、政府軍による強姦の噂を聞き、便所に溜まっていた糞尿を体や部屋に塗りたくり気が違ったふりをして襲撃を逃れたと語った。その後、直ちに彼女は大阪に密航した。いずれも、私が大阪で伺った話である。

 間に一人置けば、みな親戚姻戚あるいは知り合いだというほど人間関係が密な済州社会の中で、加害と被害が錯綜し、「暴徒」遺族と記録されれば就職も困難な時代を生きてきた人びとは、声を奪われ、感情を潰されてきた。その姿を、小説『火山島』を代表とし済州4・3を書き続けてきた作家・金石範は「悲しむ自由」さえなかったと表現した。脚本・監督の両方を務めたハ・ミョンミが「身体的な体験に焦点を当てること」に注力したと述べるように、もう一人の主人公であるアジンの娘・ヘセンは、済州の人びとの身体感覚を体現するかのようだ。政府軍の一斉射撃により、集められた村人は次々と倒れていった。祖母と共にいた6歳のヘセンだけが偶然銃弾を受けずに生き延びる。その後、ヘセンは声を発することも表情を変えることもなく、難を逃れるために漢拏山に上がった母・アジンのもとへと向かう。
『済州島四・三事件 ハラン』の登場人物たちが放つ言葉は、虐殺に正当な理由などあるのかという、歴史的にも現在的にも世界各地で繰り広げられてきている不条理に向き合うことを促す。二度とこの悲劇が繰り返されないために、アジンがヘセンに語る言葉は観る私たちへと向けられている。

 読み書きができるようになったら、今日起こったことを書き記しておいて。話し言葉
は消えても文章はずっと残ると、あなたの父親が言っていた。読む人がいなかったとし
ても、この恐ろしい惨劇をあなたと私が忘れてしまったら誰が記憶にとどめると言う
の?ヘセン、生きるのよ。生きてほしい。

 済州では、毎年4月3日に漢拏山の麓にある済州4・3平和公園で「済州4・3犠牲者追念式」が開催されている。映画『済州島四・三事件 ハラン』を観て、済州4・3についてより知るために関連書籍を読んだり、現地の追念式や済州4・3平和公園内に設置された資料館を訪れるのもいいだろう。すぐに済州に行くことが叶わなくても、毎年4月に東京と大阪で済州4・3の慰霊祭が開催されている。2026年は東京では4月25日に「追悼の集い」が、大阪では4月19日に「慰霊祭」が予定されている。大阪には、2018年に天王寺にある統国寺に建立された「済州4・3犠牲者慰霊碑」がある。済州4・3に出会う場は、日本の中にすでにある。

12月29日

 2024年3月に内田先生のブログ長屋に入居させていただき、年の瀬を迎えています。タイトルは内田先生が決めてくださるということで、どんな看板になるのかな〜と楽しみにしていました。いただいたのは「イヂチノリコのコリアタウンに霧が降る」でした(イヂチがイジチでないところはさすが!です)。
 この「霧が降る」という下りが絶妙だな〜と思い、「夜霧よ今夜もありがとう」という歌が思い浮かんだので、ここからの援用でしょうかとお尋ねしたところ、そうではなく「哀愁の街に霧が降る」からですとのお返事でした。内田先生が6歳くらいの時の流行歌だそうです。子どもの頃にこの歌を歩きながら歌っているとお母さんにどやされたというエピソード付きで紹介いただいたので、こちらにも挙げておきます。歌手の山田慎二さん、素敵なお声です。
https://www.youtube.com/watch?v=lPxHc7g7v54
「霧が降る」つながりで、いろいろ検索してみると椎名誠の『哀愁の街に霧が降るのだ』がヒットしました。内田先生が以前、「若い人にお薦めする本」のアンケート本に取り上げたほどの椎名誠の最高傑作とのことで、早速購入しました。1944年生まれの椎名誠が学生時代を過ごした1960年代初頭の東京の片隅にあった、一筋縄ではいかないけど何となくまとまっているようにも見える共同生活の場「克美荘」の日々が描かれています。面白すぎで声を抑えられず笑いながら読み、思わずページに頭を突っ込みそうになりながら読みました。時代も、生育の背景も、地域も、ジェンダーも違う、なのにどこか「懐かしい」んです。私は、この「どこか懐かしい」という感じが好きで大事にしたいな、と思っています。
 大阪コリアタウンに「鳥よし」という鶏屋さんがあります。鶏肉だけを扱う店で、仕入れた丸鶏を、店内で解体して唐揚げと照り焼き、蒸し鶏を店頭で売っています。蒸し鶏は丸まま蒸して店頭に置かれ、丸一羽でも、半羽でも、頼めばこれらをぶつ切りにしてくれます。店内は通りから全面丸見えなので、丸鶏を出刃包丁でバンバン切り分け、唐揚げ粉をガンガンまぶして、たっぷりの揚げ油の入った業務用フライヤーにどんどん放り込み、カラッと揚がった鶏唐が網でザブザブ掬い上げられているのを観ているとウキウキします。作業場の奥で仕上げられた手羽、手羽先、ムネ肉の照り焼きは、「これ1パック」というつもりの口を「やっぱり2パック」と言わせてしまう強力な照り照りぶりと香ばしい匂いを発しています。なんせ、手羽先7つ入って500円という料金設定は今どきのおかず市場でなかなかお目にかかれない、「どうや!買ったってや!!」というお店の心意気を感じるものです。そんな大阪のコリアタウンのど真ん中からちょっと東にある「鳥よし」ですが、お店の方は、皆さん、淡々と作業し、静かに客と対応して商品を捌いておられます。
 その中で、店主の娘さんと思われる女性がいます。私は、その人とやりとりするのがとても好きなんです。年齢は、私より10歳ほど下のように思われる彼女は、作業中に店頭に客が来ると、目の片隅でピシッとまずは相手を確認し、全く愛想など入れない調子で「なにしましょ?」と対面に来てくれます。それは無愛想という態度とは全く違っていて、店内で展開される鶏の解体や調理の流れから店頭にやってくる、という風にみえます。店頭で注文数に迷いが出た私を静かに観察するようにまっすぐ見て、決して急かす雰囲気はなく、ただ待ってくれています。私はおかずを買う時、即決が苦手で、食べる人の顔や場を思い浮かべながら注文する、かなり面倒な客なので、後ろに人が並んでいると「イラつくだろうな〜」と思いながらも「急いては事を仕損じる」という立ち止まりが同時多発するので、「迷惑」な客となるのですが、彼女は「そんなことは気にしていません」とばかりに待ってくれています。ようやく決意して、「唐揚げ1袋」(これも500円で10個ほど入っている)、「やっぱり2袋」と揺れた結論を出す私の注文を、やや低めの声で「2袋で」と受け取り、熱々になるよう二度目の揚げにかかり、ザブサブと私の唐揚げをたっぷりの油に泳がせてくれるのです。ここの唐揚げは、肉に最低限火が通った段階で一旦店頭に並べ、家で二度揚げする場合はそのまま、しっかり揚げ切った段階で持ち帰る場合は、二度揚げを店内でしてくれます。
 私の唐揚げがフライヤーで泳いでいる間に、彼女はもちろん別のオーダーを待ち、隙を見ては他の店員に短い指示を低い声で出し、全体を観察しながら事を進めているのですが、その無駄のない動きを店頭の隅で見ながら唐揚げを待つ間、何か懐かしい時間に戻るようにも思えます。ぼうっと立っていると、「はい、お待ち」と袋を差し出されハッとなり、ああ立ち去らないと、と思います。袋を差し出す彼女の目はとても澄んでいて、ほんの少しだけ笑みを含んでいるようにも感じます。そんな差引のないやりとりの余韻が、懐かしさなのかもしれません。今年は、年末最後まで大阪コリアタウン歴史資料館の展示改訂作業で、稽古納めには参加できなかったのですが、ちょうど「鳥よし」で直会の一品を買う機会にもなり、彼女とも年末のやりとりができたのでした。この大阪コリアタウンにできた大阪コリアタウン歴史資料館物語は、また別の機会に。
 皆さま、良い年をお迎えください。安寧!

生きていれば

 弟は今どこで何をしているだろうか、生きてれば。と思うことは、1年に1回あるかないかです。それは薄情では、というご意見もあるかもしれません。そうですね、自分では薄情な方だと思います。それなのに、なぜこういうフレーズが出てきたのかというと、術後連日連夜、韓流ドラマを観ているからなんです。
 以前は、観ようと決めた作品しかみませんでした。コロナ禍前くらいまでの韓流ドラマは最終回までの放映回数が多く、『チャングムの誓い(原題:大長今)』なんて全54話でしたし、見出したら止まらなくなることはわかっているからです。あれやこれやと思いつくもんですから、朝から寝るまで、暇さえあればパソコンの前であっちに連絡こっちへ依頼、どんどん貯まる執筆宿題にダラダラ取り組む日々の中にどっぷりいたので、そんな時間は取れないな〜と思い込んでいました。ですから、観たことのある韓流ドラマは、『冬のソナタ』『オール・イン』『チャングムの誓い』『イ・サン』で一旦止まり、『愛の不時着』(これは2周しました)で再開し『ミスター・サンシャイン』でまた一旦停止。
 人生2回目に入院した時(初回は、難産のため1泊だけでとっとと助産院へ転院)、あまりにも暇なうえに部屋から出てうろうろできない、という事態に置かれ、はたと「韓流ドラマでも観よう」と思い至ったのでした。さて何を観るか。済州を第二の故郷と思う(そもそも第一の故郷が「ここ」というところがないのに)私は、以前から道友に勧められていた『俺たちのブルース』を観始めることにしました。最初は、撮影場所が済州のあちこちであることがわかってしまう(1年に3〜4回、30年も通っているせいです)、一つの村であるかのように構成されることへの違和感や、済州出身の俳優であるコ・ドゥシム(海女の親分)と地元のエクストラの方々以外の出演者が頑張る済州語が耳についたりして、慣れるまでしばらくかかりました。有名俳優を配していることもありますが、ストーリー構成も面白く、続けてみていると「自身との和解」の物語であることがわかり見応えがありました(最後の漢拏山登山はちと長すぎるけど)。
 ちょうど退院し、食事はゆっくり時間をかけ食後もしばらく休憩という体に変身したので、そのまま夕食後に1本いくか!という調子です。韓流ドラマに別の理由で距離を置いていた相方も、結局引きづられて一緒に鑑賞。あっという間にのめり込み、検索魔なので作品情報やら俳優の履歴や日常について、娘や私よりも博識になっています。一作品観終えると、次に何を観ようかとなるのですが、私はすでに教えてもらった情報はほぼ忘れているので提案なし(あんまり観たくない感覚を持つ作品はある)。そこで、次第に脚本+俳優陣という観点から相方が選んでくるようになってきました。その中で、今のところ最も筋書きの予想が難しかった作品は『シスターズ』。女性の多様な顔(欲望)を描き出す脚本、すごいですね〜、チョン・ソギョン。そして、今観ているのは『ザ・キング』です。
『ザ・キング』主演の一人、イ・ミンホは私が制作に関わったAppleTVドラマ『パチンコ』でもメインキャストの一人。人気俳優のようですが、私の従弟に少し似ているという変な理由で何となく積極的に彼を観たいとは思えないところ、『ザ・キング』はストーリー推しということで視聴開始。脚本は、『ミスター・サンシャイン』『太陽の末裔』『トッケビ』などを手掛けた金銀淑(キム・ウンスク)。1894年建国の大韓帝国が現在まで続いている世界と大韓民国がある世界、パラレルに存在するこの二つの世界が交錯していくことになる展開です。同じ顔の人間が、それぞれの世界にいるという設定。であれば、大韓民国ではすでに死んだ人も、大韓帝国では生きているかもしれない。主演の一人、キム・ゴウン演じるチャン・テウルは、大韓帝国皇帝イ・ゴン(イ・ミンホ)に連れられ別世界への扉の中へ。そこで彼女が思い立ったのは、5歳の時に死別した母と同じ顔の人がもう一つの世界では生きているかもしれないということでした。8話まででは会えず終いですが、このエピソードに私は「その手があったか」と不意を突かれた感じがしたのでした。ドラマでは、王朝もののような儀礼が必然的に出てくる作品以外は、なかなか日常での祀りごとの場面は出てこないですが、何となく死者との対話が顔をだすと作品の流れにぐんと厚みが出るような気がします。あったかもしれない時空と今いる自分を振り返る機会は、ありそうでなかなかないものです。ドラマを観る時間を持つようになり、いろんなリハビリにもなっているようです。
 明日8月19日からは久々に済州に行きます。村のオモニの祭祀です(他にも仕事がありますが)。祭祀に行くと、あるいは実家や叔母の家にある仏壇に手を合わせるとき、たまに行く墓参りで、そこに眠る人の当時や、もしやの今をふと思います。その瞬間が、時空を超え亡き人と共にいる静謐なひとときなのかもしれません。

 今日は5月5日、世間ではこどもの日ですね。私にとっては、術後3ヶ月目の日となります。昼ごはんに、家のレトルト食品ボックスにあった「ボロネーゼ」の箱を見つけ、冷蔵庫にちょうど白いマッシュルームがあったのを2個取り出し、プライパンで一緒に炒め煮をし始めたところ、「お、冷蔵庫には確か白ワインが」と取り出して気分良くちょびっと投入。ちょうどよく野菜室にパセリがどっさりあったので、刻んで乗せたらいい感じになって野菜を摂れることになるかも、とスパゲッティの量を術前と同じにしてみたのでした。
 う〜〜ん、食べ切れるだろうか、、、と、お店で出てくるように盛り付けた皿を見ながら、最近の楽しみである『哀愁の町に霧が降るのだ』の下巻を片手に持って読みながら食べていると、なんと!九割食べてもダンピングが起こらないのでした。ダンピングというのは、胃を切除したため嚥下した食物がそのまま腸に流れてしまい、腸が渋滞を起こして食道から腸までが硬直したようになって(私の場合は腰のあたりが鉄板のようになって)、うんともすんともならないまま、何とか苦しさが紛れる姿勢を確保し、渋滞解除を待つしかない人になる、そんな感じです(人によって感じ方は違うと思いますが、私はそうなります)。
 退院して数日後、大好きなパスタをいよいよ食べようとした時、よく噛んで食べる基本方針を守って食べ始めると、それはただの小麦の塊という食感しかないのでした。く、くやしい〜〜、満足感なし。それ以来、パスタと私の縁は遠くなり、近所の大好きなイタリアンレストランの前を通る時も、「これまでのお付き合いもここまでですね」という視線を送っていたのでした。それが、何を思ったのか、今日は暑いから韓国冷麺にしようかなと台所にかがみ込んでボロネーセソースのレトルトと対面した時、いきなりスパゲッティ・ミートソースに挑んでしまったのです。韓国冷麺は辛いピビン冷麺と辛くない水冷麺があり、どちらのレトルトも私の家には常備していますが、小麦粉麺ではないからか、食べてみても全く問題なしでした。
 胃を切除した人のための食事本というのは、とってもたくさん世に出回っているようです。私に胃がんの診断が降りてすぐ、相方はどしどしこの手の書籍を購入してくれました。ただ、どの本を見てもゲンナリ〜というのが、手に取って見た率直な感想です。ところが、退院後、食べたいものと食べられるものが違う、という厳しい現実に向き合ったのでした。食べたいものと食べられるものが違う、脳と身体が別方向、という断崖に立ったといってもよいでしょう(ちょっと極端)。食べられるもの(嚥下しやすいもの)にして眺めの良い崖の手前で過ごすのか、崖からダンピング覚悟でダイビングして食べたいものに邁進するのか、選択を迫られたわけです。私は、この二者択一が大の苦手で大嫌い。そこで、ずりずりと崖を降りることにしました。食べたいものをよく噛んで食べる基本方針の下で食べる。その都度、食べられるだけ食べる。この方法は、私の「性に合う」ものでした。そうして食べていると、この3ヶ月の間に、何度か、身体が内側からぐいんと弾むような感じを得る瞬間がありました。その時、あ、身体が何かを主張している、と感じるのです。いい感じ!と言われているようなぐいっと感です。
 この「ずりずり作戦」は、合気道のお稽古復帰にもぴったりでした。最近出版された胃を切除した人のための食事本を開くと、運動への指南も掲載しています。「最初は家事、買い物など、その後2〜3ヶ月かけて散歩から自分に合う運動へ」とのことです。この段階的指南というのが、私が苦手なんです。階段をひとつ登ると次の階段に上がれるなんて、誰が決めたんかい、と言いたくなるわけです。「順番に!」と言われた瞬間、どうやって隙間を見つけるか探してしまう性分なので、土台無理な話です。それよりも、これなら今の自分にはできるかもしれない、なので試してみて、ダメなら引っ込む、という「ずりずり、亀の首、あるいはろくろ首(古いかも)作戦」は、合気道と杖道の復帰と「性に合う」ものでした。近年の医療技術はどんどん進化しているので、私が受けた手術は腹の4箇所に穴を開け、ヘソを4センチほど切るというものでした。この場合、身体への影響はかなり抑えられているといって良いでしょう。そこで、退院後2週間目に合気道のお稽古に道着を着て参加してみました。合気道には見取り稽古があり、他の人たちの様子を見ているだけでも自身のお稽古になります。見ているうちに、自ずと「ここなら入ってできるかも!」と思えるところがあります。その繰り返しの中で、いや〜今日は半分くらい動けたな〜、という時が出てきました。
「性に合う」と、腑に落ちるいう実感を持てます。私は、何についても「性に合う」かどうかを見極めの指標としています。「性」(しょう、と読みますね)とは、心と生の組み合わせによる漢字ですので、これが乱れるととんでもないことになります。最近は、「性」が束になると「類」になるのではないか、と勝手な妄想を膨らませています。このあたりについては、追い追い、私の出掛け先での話題も交えて別稿にしたいと思います。来週は、術後3ヶ月検診です。なんで3ヶ月おきなのか、誰も説明してくれないので理由がわかりません。例えば、海に潜るのは月の満ち欠けに合わせるんだよ、という海女の説明には納得が行きます。月の形の変化と海の潮の満ち引きが関わっていることがわかるからです。第二便は、『哀愁の町に霧が降るのだ』からインスパイアーされた文章を書きたいと思ったのですが、がはがは笑いながらちびちび楽しんでいるので持ち越しになってしまいました。そんな5月を迎えたところです。とりあえず無事に検診が済みますように。

こんにちは。伊地知紀子(いぢちのりこ)と申します。内田樹先生に凱風館で合気道と杖道を教えていただいています。

金の切れ目は縁の切れ目、とよく耳にしたものですが、胃の切れ目は何だろうとふと考え始め、この度、内田樹先生がH Pの中に開いておられる長屋へ入室をお願いしました。
「切れ目」と「切り目」は文字通りに異なるだけではなく、「れ」と「り」が呼び起こす力のかかり具合は違います。
そんな、どうでもいい、けれどもなんだか捨てては置けない日常の些細な事柄について、徒然に綴ってみようと思い立った次第です。
そういう契機は、実は何度か自分に訪れていたのですが、ただ見送っていたんですよね。
自分でWEB上にブログを開設したりするのは苦手ですし、読んでくださいね〜とお知らせするのもなんだかな〜というところ、内田先生の長屋を思い出しました。内田先生、O Kくださり誠にありがとうございます。
長屋にふらっとやって来て住まうというのは、「お侍さん、いつから此処にお住まいで?」という、時代劇でよく見るシーンのようで親しみが持てます。

胃の切れ目は、2024年2月5日に私の身体にできました。胃がんになり、胃の3分の2を切除したんです。
切除したのは、消化器外科で執刀担当の医師ですが、胃を直接カットしたのはダヴィンチという現時点で最新の手術ロボットです。
もちろん、私はそのことを術前の説明で聞いており、術後にも「予定より2時間も早く手術が済みました。うまく縫合もできましたよ」とおっしゃる執刀医の声に「そうですか」と応えました。
でも、切った部位も見ていないし、手術用ホッチキスで残部を縫合したところも見ていないし、あの胃はどうなったんでしょうね〜、と呼びかけても、もうきっと身体は変化し続けていて、あの時を見ることはできないんですよね。

手術から約2ヶ月が過ぎました。この間にも、微細でいろんな変化が起き続けています。
かといって、じーっと自身を見つめるなんて飽きっぽい私には無理なんですが、それでも「へ〜」という出来事があります。食べることについてが大半ですが、退院直後にびっくりしたことの一つは、そうめんひと束を完食できなかったことでした。
あんなちょろっとしか量のない、以前なら二、三口で平らげた束を食べきれないなんて、一体どういうことやねん、と自分につっこんでしまいました。そして今日、術後初めてそうめんをひと束全部食べられたんです。
Netflixで「We are the world」制作ドキュメンタリーを見ながら食べたからでしょうか?ちょっとびっくり。だからどしたん、というようなあれやこれやは次回以降ということで、まずはご挨拶まで。
どうぞよろしくお願いいたします。