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面をつけると眠くなるんです

1月23日
久しぶりにNOVAに通う。
2ヵ月半に1回というとんでもない生徒で、毎回カウンセリングを申し渡されるのであるが、前回、「ええ加減にせんかい」という気持ちが、言葉にならずとも態度にありありと現れ、おまけにタイミングええことに怒り狂ったおっちゃんの怒号が鳴り響いたこともあったのか、今回は何も言われず。

先生には、「久しぶり!」といわれながらも、レッスンも順調。
間接的なスタッフとのやりとりももちろん必要ではあるだろうが、レッスン最後に先生より直接ちゃんと釘を刺されて、その意味を理解しているのであるから、こっちのほうが気楽である。
余計な売り込みもされへんさかい。

ついでに、友人の出産祝いを贈るため、ひさびさに百貨店なぞに行く。
子持ちの友人たちにいろいろ聞いてまわった結果、おもちゃを買いに行ったのだが、これまでは京都でばっかり購入していたので、大阪ではどの百貨店にそのメーカーが入っているのか分からない。
近場の阪急で発見できず、個人的に好きな阪神百貨店に行く。
おお、ちゃんと入っているではないか。
郵送をお願いして、すこしばかりうろうろするが、子供売り場はごっつい人である。
不況といいつつ、子供をターゲットにしているところは盛況なご様子。

もっとうろつきたい気分であったが、なんだか体調が優れず、帰宅。
夜になると、喉が痛くなってきた。
明日から結構スケジュールがつまっているのに、ここで体調を崩すわけには行かない。

大人しく、映画を見て、本を読んで、思索にふけり、服薬しました。
早く、眠気が来ないかしら。

1月21日
能特訓日。
今日は初めて、前と後の両方の装束と面をつけて、本番さながらの稽古をする。
前シテは前回、面と装束を一度付けているので、細かいところの注意とやり直しが中心となる。
問題は、後シテ。
本番さながらというのは、前シテを少し繰り返し稽古したことを除くと、前シテを終えると、すぐに衣装替え、面を変えて、すぐに後シテを始めた。
当たり前である。
本番では、休憩時間などないのだから。

情けないことに、後シテのカケリのところで、飛び返りで長刀をきめようとして、ポテっとこけてしもうた。
あわてて、体勢を立て直そうとすると、あわてすぎて大口を踏んで、ドテッと尻餅をついた。
ああ、なんて無様な・・・
ちょうど、その直前、子方に坐って頂いた先生に向けて斬りつけたのだが、それまでの動きがよほど悪かったのであろう。
小さい面の穴から顔を見ると、怖い顔をしてにらまれているように思え、余計焦ってしまい、もう蛇ににらまれた蛙状態。
おまけに、長刀を捨て太刀を抜いた辺りから、視界が何かに遮られ、ただでさえ面をつけて見えないのに、何かが目の前にふさがってきて、前がほとんど見えない。
それでも、わずかな隙間から勘で最後まで舞い終えたが、当然叱責が飛ぶ。
確かに、叱られるのは当然です。
もう一度、やり直し!も、当然です。
その前に、「先生、何が被さっているのかわからないのですけれど、前が見えません」
「ちゃんと面をまっすぐあてた?」
「最初は見えていたのですが、途中からずれてきたみたいで、見えません」
そこで、面をつけ直すと、別に何も目の上に被さっていない。
あれ?っと思って面を見ると、面に付けたアテがずれて下がっていたのである。
「アテ」とは何か?
ちょい、解説。
面は直接顔に当てません。
もちろん、面の表面もべたべた触ってはいけません。
そのために、面の内側に小さいクッションみたいなものを付けて、間接にあてるようにするのである。
それは、額と両頬につけてあるのだけれど、その額の部分が下がってきて、眼の穴を半分ふさいでしまっていたのだ。

それから、また付け直して、さんざん叱られて後をもう一度通し。
「全然だめ。もっと走り込まないと」と失望されたように念を押される。
ははあ、ほんまにそう思うてますけど、今日初めて装束と面をつけたのは、やはり考慮してもらわれへんねんなあ。

そういえば、毎年、何らかの形で1回は装束を付けていただく機会に恵まれているのだが、実際能を披かせてもらうことになり、装束付けが増えてきた今日、前からうすうすと感じていたことが、はっきり感じられた。
なんのことかいな?というと、おそらく私だけかもしれないが、眠気である。
装束を付けられている間、強烈な眠気に襲われるのである。
それは、不眠がなおりつつあるという意味ではなく、不眠になる前のよく眠っていた頃から、そして、強烈な不眠状態に陥った時も、今現在もこの感覚は変わらない。
変身願望に託されて、一瞬眠くなり、起きたら違う人物になっているという自己暗示か?
眠気に襲われても、そのまま装束を付け終えても眠いということは一切ない。
付け終わると、すぐに頭がクリアーに覚醒し、それからちゃんとお稽古しているのである。
終わってからも、疲れているはずなのに眠くならない。
まさに、つけているそのわずかな時間だけなのである。
もちろん、実際に眠ってしまうことはないが・・・

うーん。不思議やわ。

1月20日
朝に、軽い喘息発作。
またもや遅れて、昼前に日文研に到着。

「おはようございます、昨日はお休みしてすみません」
と、プロジェクト室にはいると、
「オガワさん、その声、全然大丈夫じゃないですやん」
そ、そうかな。

一応、呆然としながらも仕事をしようとするが、どうもうまく事が運ばない。
なにしても、どんくさいんやわ。

そういえば、昨日も夜10時前に、「そういえば何か食べなきゃ」と近くのスーパーに買い物に行き、簡単な食事をこさえて、ニュースを見ながらもそもそと御飯を食べていた。
そのうち、なんだかお箸を持っている右手の人差し指が痛いなあと思って、何気なく手元を見ると、お箸が血まみれになっていた。
どうやってこんなところを斬ったのか全く覚えがない。
でも、右手の人差し指の腹がさっくりと切れている。
ここ一週間、そんなポカミスというか、どんくさいことが多い。
例えば、これもどうしてこうなったんか不思議やけど、右手の手首を真横にやけどした。
軽かったけれど、いまだに傷跡が残っている。
パンフレットの整理などしているとき、よくあることやけれど、これも左手の手首をスパッと切った。
これでは、まるで両手首、リストカッティングの痕のようではないか・・・
右手首の腱鞘炎は癖になってしもうているし、調子がはかばかしくあらへん。

せやけど、こんなしょうもないことでとどまっとっても、なんも変わらへんさかいなあ。
今日は、効率悪うても少しずつ仕事をし、15時から久し振りに、研究会に出る。
この研究会は、いつも興味深いので、でたかったのだが、どうも夏からタイミングが悪くて顔を出せなかった。
今日も、まだ仕事があったので、途中で抜けたりしながら、参加。
一人目の発表は、結局途中で仕事に抜けてしもうて、残念ながら半分しか聞けなかった。
二人目は、私の個人的関心事のところ。
全くの自分の興味でしかない知識で、生意気ながらいろいろ失礼な質問を浴びせてしもうた。そう、まさに思いつくまま浴びせてしもうたのだ。
すまない。
もう少し、簡潔にまとめて発言すべきやったね。

懇親会は遠慮しようと思っていたけれど、久し振りに顔を出した上、言いたいことだけ言い逃げは、ちょっと失礼かなあと、やはり少しだけ顔を出す。
主催の先生とは言葉を交わさず、帰り間際に挨拶だけする。
「もう、帰るの?まだ一言も話してじゃないか」
「いえいえ、今日は急ぎますので。また報告の方で、是非ご指導下さい」
「あれいつもオガワさんがやっているじゃない。見るたびにまたオガワかよ、と思って」
「そんなこといわんといて下さい。試行錯誤してやってるんですから」

学生やなくなったら、当たり前やけどもう自分でやりなさいってことね。
いつまでも、面倒見てもらおうという根性がアカンねんなあ。
せやけど、まだまだ未熟者やさかい、びしっと指導して欲しいのは、甘い考えか。

早めに帰ったとはいえ、22時半。
あわてて、泊まる用意をして、祖母の家に向かう。
この前は、夜中3時まで起きていた不良老人であったが、遊び相手がいないので、今晩は到着したときには、既にお風呂から上がったときだった。
二人で、少しだけニュースと、プチ・ドラマをみて、お風呂を頂く。

ふう、ここのお風呂って、湯船が深いなあ。
祖父は、最期の2週間をのぞいて、ずっと一人でお風呂に入っていた。
よくこの深い湯船に、事故もなく入浴していたものだと今更ながら感心。
もちろん、祖母も健在で、一人でお風呂に入っている。

考えてみれば、昔の家は結構お風呂って深かったんだよね。
家では、小さいお風呂で半身浴だから、どっぷり肩までつかれるお風呂はここだけやなあ。
明日は、能特訓か。

もうそろそろ寝なくては。

1月19日
今日は、中間報告であるので、日文研に行く予定にしていた。
しかし、やはり、17日前後から、私の精神状態は不安定になっていったらしく、とうとう今日になって、完全に鬱状態に陥った。

5時頃には目が覚めて、前の晩に何時に寝ていようと、はっきり起きてしまう。
でも、寒くてしんどくて、ぐずぐずしていて7時頃になると、活動を開始していても、またぐたっと倒れて(どこでも横になって)それから、1時間ほど眠ってしまう。
それが、疲れや寝不足を補う眠りではなく、ほぼ意識を失うような眠りなのだ。
なにか、嫌な外界からシャットダウンするように・・・
また、すぐに起きるのだが、今度は身体が動かない。
脳の命令を聞いてくれない。
眼をぎんぎんと見開いて、だけど横たわったまま何も出来ない。

そして、今日、行くつもりでどんなに努力しても無理で、午前中にするべき仕事の連絡を、便利なもので、横たわったまま、時間をかけて携帯メールでなんとかし、休ませてもらった。

私は、何様なのだろうか?
そして、今、また夜中の1時半になっている。
今日1日は、ほとんど引き籠もりで過ごした。
家の外に一歩も出ず、横たわり、少し、家を片づけてうろうろし、すぐに横たわり、京都テレビで「鉄火若衆」を再び見て、漸く落ち着いた。

明日からは、ちゃんと出勤して、仕事をしなくては。

それにしても、日記の更新が遅れたのには震災以外の理由がある。
ノート・パソコンが私の書く速度についていかず、何度書いてもすぐにエラーがでて、フリーズしてしまい、書いたものがすぐにわやになってしまうのだ。
悔しい。
それを、ここ2週間ほど繰り返していて、どうしても途中で断念してしまい、暫く時間をおいて、続きを書いているのだ。

今晩なんか、4回もエラーやで。
もう、堪忍してや。

1月17日
阪神淡路大震災から10年経った。
なんだか、気持ちがすっきりしない。
情けない話だが、私は被災しても本当に大変だった地区に比べれば、屁ぐらいのものだった。
家は傾いただけだし、部屋のものがすべて倒れたとはいえ、幸い下敷きになることはなかった。
それでも、あれ以来、その部屋(当時は実家にまだいた)で眠ることは出来なくなった。
なので、家が全壊し、建物や家具の下敷きになり、避難所で着の身着のままで過ごしていた人たちが、どれほど精神的に深い傷になっていることかと思うと、私がトラウマになっていると言っては申し訳ない気持ちである。

昨日は御影の先生宅で能特訓日であった。
まずは、前シテの装束をつけて、前シテ1回通し。
次に、面をつけて、もう1回通し。
初めてである。
次に、面をはずし、大口だけ付けて、太刀をはき、長刀かつぎ、後シテを一回通し。
それでも、まちがいまくって、「これに装束をつけて、面付けたら、こんなわけにいきませんよ」と諭される。
今日、初めて装束をつけたのだから、大変なのは推測できますよ。

その後、実は今日が稽古日だったのだが、イベントが入ったため欠席の旨を伝える。
下川師匠宅は、10年前、家及び稽古場の舞台が全壊した。

私は、母と一緒におにぎりを大量ににぎり、飲み物をかついでリュックに詰め、西北から神戸まで歩き、その惨状をみて、いかに自分たちが軽かったか、助かっていたかを確認しながら神戸から西北までの知人、友人宅を廻って歩いたのである。
そして、御影の下川師匠の家が(一戸2階建てで2階が舞台であった)、ものの見事に西に崩れ落ちて全壊しているのを見た。
師匠は、崩れ落ちている家の隙間に入り、私が屋根から以前2階であったであろう隙間に入り、余震(新潟ほどひどくなかったのが幸い)のある中、先生が背中をつかって全身で壁や倒れかかっている梁を持ち上げる一瞬に、引っかかっている面箱など、取り除く作業に加わった。
雨が降ったら、面をはじめ、能装束が台無しになるからだ。
火事場の馬鹿力など、暢気な言葉ではない。
みな、必死ですごい力をだして、自分の生活を支えている。
うちは、大阪に近かったので、本当に比にならないぐらい軽被災だったのだが、実際どんな被害があったのか、全体像を知ることはもう少し後のことであった。
だから、トイレ及び仮設トイレが、汚い話だが汚物であふれかえり、余震で傾いていた。
コンビニでは、ソーセージ1本が6千円だったと情報が流れた。
まさに、人それぞれが本性むき出しだったのかも知れない。
あれだけの災害時だ、当然だろう。
私も家では被災者だと思ったが、一歩外でて、神戸に出かけると何が起きても仕方ないと思った。
私は、被災したと言ってもいいのだろうかと思った。

だけど、10年経った今、私は明らかに精神的に不安定になっている。
先に書いたけれど、祖父の誕生日だったために、これまでの9年間、テレビがベッドに飛んできたにもかかわらず、 ベッドの端っこで小さく丸まっていた祖父は、ケガがなかった。
それだけ運の強い祖父の誕生日を祝うことで、震災の時の親戚の幸運を毎年祝って、忌まわしい恐怖の記憶を、新たな幸運をかみしめることで差し替えて来たのだ。
だけど、生存していれば満94才になったであろう祖父を失い、また例年に増して、実際目の前にしてきた場面を、映像と形で繰り返し、ニュースやTV番組で見て、だんだん不安定になってしまった。
私は、長田でもっと大変な被災をした親友と連絡を取り、夕飯を共にし、泊まってもらったのだ。
それでも5時前には完全に目覚め、無理矢理引き留めた親友が早く家を出て仕事に行かなければならないという引け目と共に、TVをつけてまたあの光景を見てしまった。
しかも、実際の追悼の時間には雨が冷たく降りしきって、部屋にいるのに寒かった。
一人だったら、もっと不安定になっていたかも知れない。

親友のおかげで、無事午前5時46分を過ぎ、本日行われる公演のスタッフとして、地味な着物を着た。
それから、会場である楠公さんの神能殿に行き、マチネーの公演を手伝った。
皮肉にも、スタッフの中で、ちょっとでも被災したのは私だけであり、また楠公さんの神能殿に縁が深かったのも私だけだった。(訂正:5月29日です。そこで初能を披かせていただくのは。ぜひぜひ見に来て下さい。下手ですけれど)

私は、自分ではその時気付かなかったが、一人で神経が過敏になり、いつも仲のいい同僚たちにかなりひどい態度で接してしまったらしい。
しばらく、私対スタッフ全員で険悪な雰囲気なってしまった。
会場で、そんなことをしている暇はないのに。
それでも、公演の当日に内輪もめしている暇はない事はお互いわかっている。
すぐに、お互い謝りあい、私もおかしくなっている自分に驚きながらも、本当にみんなに悪いことをしたと反省した。

そうして、無事に阪神大震災十年追悼公演は終えて、窓口で設けた中越とスマトラ沖地震の義援金にも多くの募金を頂いた。

みなさん、ありがとうございました。
スタッフの皆様、横柄な態度に出て申し訳ございませんでした。
言うべき立場の人は、私レベルではないのです。
すみません。

1月15日
今日は、祖母の家にいる。
しかも、もう夜中の3時半だ。
なんだか新年の感じもせず、追われるように今日まで来たので、今年に入って祖母の家に泊まりに来るのが、今日が初めてである。
せめて、週1回は泊まりに来てあげたいのだが・・・(祖母は週3回ぐらい期待しているので、申し訳ない)
それにしても、なんでこんな夜中に書いているかというと、やはり多忙な1日だったからである。

今朝は、10時からの研究会に出席するために、頑張って日文研まで行き、昼間は、お茶を飲んで、幸いにも同僚に駅まで送ってもらい、そのまま神戸文化ホールへ。
私鉄の駅で言うと、桂駅から高速神戸まで、さすがに遠い。

新春能である。
家元の能「楊貴妃」と、狂言「梟」は逃してしまった。
師匠の舞う仕舞と、最後の能「国栖」を鑑賞。

祖母、伯母たち、母と4人で塚口に帰り、そのまま中華料理「愛蓮」へ。
実は、17日が祖父の誕生日なのである。
毎年、新年に親戚一同集まり、そして17日前後の週末には、有志で祖父の誕生祝いに集まって、賑やかな新年の始まりを迎えていたのである。
今年は、昨年祖父が他界したので、新年の集まりもなかったので、祖父の誕生日に近い本日、親戚集まれる人はみんなで会食の運びとなったのだ。
突然のことであり、また曾孫たちがいるので、座敷で多少騒いでも良くて、しかも祖母の家の近くとなると、ここしかないのだ。

会食が終わり、私は一度家に帰って泊まる用意をし、祖母の家に行くと、元気なもので、車をおいていた伯父と母と三人で麻雀をしている。
それが、終わって母が帰った後、祖母は「なおちゃん、今年はまだだし、泊まりだから一度やろう」と言い出して、それからまた三人で麻雀。
私にとっては初打ち。
伯父は、帰るはずだったのだが、結局泊まりとなった。
それで、麻雀が終わったのが夜中一時半。
お茶を飲んで、伯父がお風呂に入って、出てきたので、入ろうと思うと、祖母が捜し物をしている。
一緒に探していて、見つかったときに二時半過ぎ。
それから、漸くお風呂に入って、長風呂をしたら、出てきたのが三時半。
家の戸締まりを確認し、少しだけストレッチをしたら、四時になったのだ。

こんなに毎日忙しくしているのに、それでも眠くならないのが不思議やわあ。

1月14日
朝から、またばたばた駆け回る。
ようよう昼過ぎに用事を済まし、やっと一段落。

今日は、後輩の博士論文公開審査である。
ほんの少し遅れて、公聴に行く。
考古学なので、私は全くの門外漢だが、緊張しているのが伝わる。
結構、厳しい質疑応答が交わされ、昨年の自分を思い出して、非常に辛い。
もちろん彼は、最終的には余裕で日文研内では承認され、あとは全体会議を待つばかり。
でも、分野が違うとはいえ、どの先生方も仰ることはごもっともで、本当に耳が痛い。
この1年の間に、私は少しは歩を進められたのであろうか?

その後、来週の震災追悼公演の準備を手伝うが、週末も忙しく、夜遅くなりそうだし、審査を終えた後輩と飲む約束もしていたので、申し訳ないが途中で辞退。

駅前で、飲んでいる後輩やみんなに合流。
といっても、野郎ばっかり4人で飲んでいて、「どないしたん?」と聞いてしまった。
大体、いつもにぎやかに飲みに行ってるんやけどなあ。
来週と再来週に、中間報告、1回生の発表が控えているから、きっとつきあいが悪かったんやね。

はあ、疲れた。

1月13日
今日もまた、ばたばたと朝から走り回り、疲れた。
17時に終わって、お稽古に行きたかったのだが、どうしても今日中にしなくてはならないことがあり、終わったのが18時。
あわててバスに乗って、桂駅で一応電話すると、
「もう、今日は遅いから、稽古は今度にしましょう。今度の能特でゆっくりしますから」
と、やはり断られてしまった。
とほほ、出来るだけはよう帰ったのに・・・
やはり、御影までは遠いわ。

ちょっと肩すかしを食らった気持ちで家に帰り着くと、携帯がなる。
母からだ。
確か、今晩は祖母の家に泊まることになっているのに、何だろう?と思ってでると、「どこにいるの?」と暢気に聞かれる。
「今、帰ってきたところ」
「いや、おばあちゃんと二人だから、御影で夕飯食べて、あんたのお稽古の帰りに拾ってあげようと思って、先生の家に着いたのよ」
って、それなら、今日は遅くなったからお稽古を断られたこと既に知ってるはずやん。

で、なんかええ事あるんかと思いきや、「残念やったね」と終わった。
なんやねん、二人で美味しいもの食べてきた報告だけかい。
ちゃかしとるだけやないの。
なんちゅう親や。

あほらしうて、しんどさが増したわ。

1月12日
今日は大映の『水戸黄門海を渡る』について考える。
「水戸黄門」といえば、私はTV時代劇の東野英治郎黄門で育った。
東野英治郎が黄門役をやめはってから、どうもしっくり来ず、あまり見なくなった。
時代劇映画にはまり始めてから、東野英治郎黄門を越えて、私の中で水戸黄門と言えば、と位置づけられたのが、なんといっても東映の月形龍之介黄門である。
かっこいい。

今日考えたのは、「長谷川一夫」黄門に、雷蔵・勝新の助さん、格さんである。
まあ、雷蔵が見たくてたどり着いたといった方が正しいのだが。
この映画を見るのは、3回目。
一度はビデオで、2度目は雷蔵映画祭で、そして今回またビデオで。
見るたびに、いろいろな発見があって映画はやめられない。

月形黄門でも、長谷川黄門でも、この当時のあのおきまり台詞が楽しい。
いまでは「助さん、格さん、こらしめてやりなさい」だけれども、もっと黄門様は強かった。
例えば、月形黄門シリーズの「水戸黄門」(何年か失念、東千代之介と大川橋蔵が助さん格さんで、オールキャストのもの)では、「不埒もの」とか「助三郎、格之丞、一人残らず斬り捨てい!」と喝破し、みずからも立ち廻りをする強くてかっこいい黄門様。
長谷川黄門はもう少し言葉が丁寧?だが、「かまいません。斬りなさい」という。
(多少の語尾の間違いは、今記憶をたどっているので、見逃して下さい。)
そして、やはり自ら立ち廻って、強い。
そういえば、最後に印籠を見せるのはいつからだろう?
簡単に調べただけなので、確信はないが、映画化された黄門さまは80本はある。
尾上松之助だけでも10本以上ある。
ただ、映像が残っていないのか、まだお目にかかっていない。
ずっと黄門シリーズを見比べたら、楽しいだろうなあ。

1月10日
資料をかなり整理して、洗濯して、掃除して、朝から精力的。
と言っても、報告をひかえているので、それからレジュメを作りはじめ、いろいろ調べものをするために、自分のまわりに、資料や本や雑誌などを積み上げて、とりかかる。
あああ、朝の掃除は何処へやら。
結局、またもやちらかってしもうた。

しかも、途中で疲れると、趣味本を読んだり、映画を見たりしていたら、散らかし放題のまま、1日が過ぎていく。

そういえば、今日は月曜日であり、成人の日という祝日だったことに気がついた。
なんか、15日が成人の日で長らく育ったものだから、いまだにしっくりこない。
夜のニュースは成人式の様子が伝えられ、ああ、そうかと思う。
この前、言葉の問題で自分の年齢を思い知らされたが、またニュースを見て同じ事を思った。
毎年同じ質問がなされていると思うが、「成人になって、どんな大人になりたいか?」とか、「何をしたいか?」といったたぐいのものである。
一言で言うと「学校の先生になりたい」と言うことをもう少し詳しく長いコメントをしていた人がいた。
コメントの学校が小中高のいずれか忘れてしまったが、とにかく教育現場が崩壊していく中、なかなか良い志だと思う。
頑張って下さい、と思うと同時に、「その前にあなたの日本語を見直してね」と思ってしまった。
もちろん、これは先生になりたいという人たちだけではなく、私を含め子供からみた大人に見えるわれわれが、ある程度キチンとした言葉を話すことが大事であろう。
子供たちは、本当によく見ているのだから。

夕方は、家族でいきつけのお寿司屋さんに行く。
常連の人にも挨拶。
そこで、いま問題になっている詐欺の電話がかかってきたという話になった。
警察及び病院関係者を名乗り、息子さんの名前を言って、「何時にどこどこで事故を起こして、命に関わる重大事」とらしき事を言い出したそうである。
「お宅の息子さん」ではなく、実名を言うところがポイントらしいが、とっさに機転を利かして「こちらも今、手が離せませんので、折り返し連絡します」という事を言ったら電話が切れたそうである。
その後、一応息子に連絡を取ったら、やはり騙りであることが判明。
何もなくて良かったが、息子さんに「それがほんまやったら、命に関わるときに忙しいなんて、薄情やなあ」と言われてしまったとか。
なかなかうまい切り返しやなあ。

しかし、ほんまにこの手の詐欺は深刻らしい。
気をつけないとアカンね。

1月9日
はあ、年明けて1週間経っただけやのに、すでに疲れている。
今日と明日は基本的に予定がない。
基本的というのは、私の勝手な予定である。
実は、年末の忘年会で、夙川でバイトをしている後輩と話をし、「夙川って美味しい店たくさんあるやん」と言ったことから、じゃあ、一度御飯でもという事になっていた。
後輩は、関東出身で、今は京都在住なのである。
自分が阪神間で生まれ育ち、京阪神は自由に動いているので、あまり感じないが、京都に住むと神戸が遠くなってしまう。
つまり、「夙川」というのは、京都とは違う「神戸」という別都市らしい。(ほんまかなあ?)
その時、「じゃあ、何が食べたい?」と聞くと「フレンチ」といわれて、その上、「どうせ、口約束だけでしょう」と突っ込まれた。
「そんなことあらへんよ」
「でも、携帯番号知らないでしょ」
「知らん」
「どうやって連絡取れるんですか?」
「ほな、教えて」
「8日にしましょう」
「共同研究会やわ」
「じゃあ、9日は?」
「ええよ」
と、全く信用されていず、9日にバイトが終わったら連絡をするとその場で約束したのだ。
とはいえ、それは忘年会の酒の席。
その後、年末年始を通して、全く連絡がないので「そういうあんたもほんまかいな」と思いながら、一応おうちで連絡を待ちながら我が事に時間を割いていた。

そうすると15時半頃かなあ、携帯が鳴る。
ああ、勝手に忘れて予定いれんで良かったと思う、極悪非道である。
フレンチと言えば、苦楽園にたくさんあるし、美味しいところを知っているが、いかんせんランチと違って夜は高い。
そこで、最近知った夙川のビストロを見つけ、中高部の親友の実家が近いので、年始にそこのママ(中高時代を通じてお互いの家をみんなで行き来し遊んでいたので、友達のお母さんを「おばさん」と呼ばず、お互いのニックネーム+ママと呼んで、お世話になっていたので、へんな意味ではない)に、「あの店は美味しいわよ」と教えてもらっていたのだ。
自分が初めていく店に連れて行くのもなんか悪いが、情報源は確かだ。

それで、一応予約を入れ、食べに行く。
後輩はどう思ったか知らんが、私は美味しく頂き、値段も手頃で良かった。
今度は、また中高時代の友人の集まりで、グルメな親友たちと行ってみたい。
ただ・・・結構、親友たちは酒飲みなので、今日の値段ではすまへんなあ・・・

六甲山が白んで、冷えてきた。
来週は寒そうやな。

1月8日
計画性のない私は、ふらふらである。
昨日と今日と、今年最初の共同研究会。
メンバーがとても素敵な人々なので、刺激を受けるし、勉強になるし、楽しい。
今回も、楽しませて頂いた。
今朝が、朝早かったので、昨晩は京都に泊まり、メンバーの方と夜中2時半まで、いろいろな話をさせてもらった。
私はあまり寝ない人なので、夜が遅くても平気なのだが、相手は今日1日お疲れになったのではないかと、後から反省する。
楽しくて、時が経つのを忘れていたのだ。
まるで、子供のようである。

などと、いいながら、逆に今日は悲しいことに「もう、歳やわ。おばちゃんやわ」とも自覚した。
そんなことは、周知の事実で自覚していない自分の方が非常識なのだが・・・
たまたま共同研究会の関係で、他大学(日文研は研究センターだから、現役大学生に接することはほとんどない)に訪れたのである。
その時、20才前後の若者(ババくさい表現・・・)たちの言葉に驚いたのだ。
一月ほど前に、東京に調べものに行ったときは、「ぶっちゃけ」「っていうか」などと連発する会話を生で聞いて、「いやあ、マスコミがわざと取り上げている、ごく一部の現象やないんやわ」と驚いたが、そこまで言葉が違うと自分では使いこなせないので、まるで異国の言葉を聞いているようで、おかしくて一人で大受けして笑い転げていた。
まあ、失礼な話だが、おばちゃんだから仕方がない。
今日の会話は、笑って受け流すほど新語などではない。
もう、何年も前から「日本語が乱れてきている」と言われ出した代表格の「ら」抜き言葉である。
今では、自分でもうっかり使ってしまっているので、それほど気になる言葉ではない。
しかし、徹底して「ら」抜き言葉で発せられている気がして、「そんな動詞も「ら抜き」で言うんや」と思っていたが、気になっていたのが、いつしか気色が悪いというか、居心地が悪い気分になっていた。
これを録音して(ってもう出来へんがな)他の人に聞いてもらい、私だけが気になるのなら、それは世代の差か?
それとも、言葉は生きていて流動するということを受け入れられず、何かにしがみついているのだろうか?

確かに、自分だって、正しく美しい日本語を使いこなしているわけではなく、今など方言丸出しで、なんの不自由も羞恥観?も感じず、それが標準語であるかのごとく日常を過ごしている輩となりはてているのだが。
しかし、一応は言葉を使い、ものを考えたり、書いたり、人に伝えて理解してもらおうと思っているのであるから、自分なりに少し言葉というものにこだわりたい、と言いたい。
(ちゃうやんか、嘘つき!と指摘されそうやな)

1月5日
ああ、間抜けやわ。
今朝は、日文研にたどり着くまでに、すでにさまざまなハプニングが起こり、疲れてしもうた。
まず、電車の中で携帯を忘れたことに気がついた。
普段は、殆ど連絡などないのに、こういうときに限って、連絡が入る。
家に帰って、着信履歴を見て、ため息。
年末から連絡が取れなくて、心配していた親友から連絡が朝に入っていた。
折り返し、連絡してもまた通じない。
まあ、連絡があったから大丈夫かな。

その他、いろいろなことをまた同時進行で考えながら歩いていたり、行動するので、どうも要領を得ない。
こんなんで、やっていけるんやろうか?

妙に胸騒ぎのする1日であった。

1月4日
仕事始めである。
パートとはいえ雇われの身になって、教職員の仕事始めの儀に初めて参加する。
所長や顧問のご挨拶を聞き、お世話になっている方々にご挨拶。
個人的には気分が喪中なので、勝手に新年の挨拶を省略し、「今年もよろしくお願いいたします」とだけ不自然に言う。
本当は、そんな必要ないのかも知れないけれど。

年末のあの悲惨な地震から津波の被害、さまざまな負のエネルギーが満ちているこの世界で、今日の暦に従い、新年を迎え、少しばかりの休み明けに合わせる顔は、みな元気そうで、笑顔で互いに挨拶が出来る。
その事の重みをずしりと感じる。
仲間との笑いに溢れたこの瞬間を大事にしなくてはと思う。

「笑う門には福来たる」とは本当によく言ったものだ。
昨年より、やり残していることがたくさんあるのだから、こうして可能な限り、こなせていけたらいいなと思う。
昨日「なんだかまた人の多いところは面倒やな、もう少し一人で居たいわ」などと思っていた自分を反省。
そんなことが思えること自体、すでに恵まれている証拠なのだから。
ちゃんと、自分の足下を見なあかんなあ。

本年も、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。

1月3日
とうとう、冬休みも今日で終わり。
やのに、なんもでけへんかったわ。

昼間に録画していたため、映画を見ることが出来ず、本を読んだり、ぼーっとしたり、資料を整理したり、明日配布する案内を作成したりと、なんだかんだと時間が過ぎる。

考えてみれば、昨年は本当によう人と一緒に過ごしていた気がする。
まあ、働いている人は普通はそうやし、家族と一緒の人は、家に帰れば一人ではないんやから、普通はみんな人と過ごしてるんか。
なんやかんやと日文研に行かせてもらい、週末も研究会やなんやと出かけ、後はお稽古場とか。
まあ、ひとりぼっちよりはにぎやかでよろしいやないの、といわれれば、誠にその通りである。
せやけど、こうやって一人ゆっくり過ごしてみると、少し人あたりしてたんかなあ、と思う。
なんや、贅沢言わしてもうたら、1年の疲れがでたっちゅうか。

時間が出来たら、あれやこれやしようとずーっと思っていたのに、いざ出来ると、一度に欲張ろうとするから、結局どれも満足に手つかずになるんやろうか。
欲どおしいなあ、あかんわ。
疲れが出ても、爆睡できんし、プチ贅沢といえば、半身浴かなあ。

さあ、明日は仕事始めや。
今年も少しは運気が上がるように、半歩でも前に歩けるようにせな。

とはいえ、明日がくるんやろうか。
「今」と思う瞬間も、既に時間が流れている以上、既に過去であるんやから、此処におる自分はようわからんし、今年のいろいろな予定を約束している私はどこに、確信があるんやろうか。
そんなこと考えてたら、また気分がダウン。
あかんたれやな。

1月2日
毎年、親戚で集まって食事をするのが恒例であったが、長であった祖父が他界したため、今年は何もなし。
また、毎年3日にお節を食べ尽くしてもらいがてら、中高部時代の友人が実家に集まってくるのも今年はなし。
久し振りに、ゆっくりとしたお休み、と思っていたが、昨晩、友人よりメールがあり、東京から帰省している友人と会おうという話になって、結局出かけました。

夙川に行くと、集まったのは3人、すなわちメールで話し合ったメンバーだけ。
やはり、みんなはうちのおせちを期待していたのだが、今年は喪中だから、集まろうという声も上がらなかったそうだ。
要は、みんな自分が仕切るのが面倒くさいってことね。

さて、2日というのは、まだ店が開いていない。
大体は3日からとか、あるいは夕方からである。
12時前に集まって、夙川のめぼしいところを歩き回って、とうとうなくて、車で芦屋に移動して、無難なところで神戸屋に落ち着いた。
というより、そこしか空いていなかった。
おそらく、そういう人たちばかりなのだろう、「なんでこんなに神戸屋が混んでんねん?」と思うぐらい混んでいた。
結局、席に着いたのは13時半。
2時間ほどかけて、喋りながらゆっくりランチをして、別れた。
東京の友人は、来年度は娘が中学受験だから、帰省できないかも知れないといっていた。
そうか、お受験やねんね。
大変やねえ。

夕方に家に帰り、ビデオの整理をしてしまい、大掃除が出来なかったので、少し片づけて、後は映画を見よう、あの本を読もうと思っていたのだが、ダウン。
ずっと、人と一緒にいるから、やはり1年の疲れが出たらしい。
そこで、「爆睡!!」というのが夢なのだが、夢は夢で終わる。
眠れないんよねえ。
だけど、倦怠感で何も出来ずに、ぼーっと炬燵に入って、ビデオやら本やらパソコンやらを目の前にしながら、時間が過ぎて外が真っ暗になっていた。

もそもそとおせちを出してきて食べる。
一応、毎年、作った品は全部味見をすることにしている。
今年は出来が良かったとか、新しい品を挑戦すると、どんな出来具合かチェックもかねる。

TVは見るものがないし、津波のニュースは悲惨で涙が出るので、小津に思いを託して作られた番組を録画していたので、それを見る。
あー、久し振りにまた小津が見たくなった。
明日は、また少しお片づけをして、映画を見たいなあ。

でも、今日は疲れたので、とりあえず服薬して、横になります。
あ、初夢。
薬で寝ていると、レム睡眠、ノンレム睡眠といった綺麗な睡眠サイクルが上手くできないことが多いので、見なかったなあ。
今晩は、初夢にならないのね。
どうせ、見ないけど。

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2005年01月25日 17:47に投稿されたエントリーのページです。

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