11月15日
49日の法要と食事会は無事終了。
昨日は、12日以来低迷している体調が今ひとつ復帰せず、なんとなく祖父に対して悪い気が残る。
しかも、何故か今週は予定が立て込んで、祖母の処に泊まりに行くことができないので、17日の本当の49日にも顔を出せないかも知れない。
なんとか風邪も治ってきたし、全体的に機運をアップさせたい。
頑張りたいなあ。
でも、少し嬉しいことがあったので単純だけど、気分を変えられそう。
だって、ブルーでいるとずっと悪循環に陥りそうやねんもん。
11月12日
ああ、ついていない日。
最低な日。
相変わらず、痰が絡み、鼻水が止まらない。
まあ、これって白血球が戦ってくれた印だと思うので、一応快方に向かっていると思うのだが、それでもまだ頭痛が取れず、微熱が続く。
しかし、旅行や映画祭、そして予期せぬ祖父の死を迎えて全然NOVAに言っていない私は、どうしても今日はNOVAに行かなくてはならない。
それは、別に構わない。
ただ、咳がひどくてここのところほとんどちゃんと眠られない(ああ、不眠はいつもか)ため、かなり自律神経の失調がひどくなっている。
げほげほ咳をしながらフランス語と英語のレッスンを受けた後、またもやカウンセリングを受けろという。
NOVAの人に言わせると「先生からのメッセージを伝える」というのだが、私にしたらそれだったら、すぐすむ話をなんで手短に出来へんねん、といつも思う。
こちらだって暇ではない。
おまけに今日は、咳をして誰が見ても私はしんどそうに見えるだろう。
実際しんどいねん。
自分であとでものすごい嫌なおばちゃんになっていたと思うが、若いスタッフがまったくとりとめのない事をだらだら繰り返し、「手短に言えよ」と思いながら、淡々とかなりはっきりと切り返しているのに、それさえまったくくみ取らず、マニュアル通りに喋っているのに、ぶち切れ寸前になってしまった。
ほんまに、その時は「あんた、ええ加減しいや。ひとの話聞いてんのか?」と喉元まで出ながらようよう押さえ、最後に抵抗していったのは「すみません。今日は風邪がひどくて、病院に行くために休んでいる時間を割いて来ているので、もう時間がないんですけれど」だった。
それでもさらに10分も待たされ、その間に怒り狂ったおっちゃんが降りてきて「暇があって遊びで金払うてるんとちゃうんや、お前のところは質問に答えへんのか!それとも生徒やいうて馬鹿にしとんのか!」と怒鳴り散らし始めた。
ああ、おっちゃん、その気持ちわかるわ。
レッスンでどないめに会うたか知らんけど、スタッフがこれやもん。
腹もたつわなあ。
そういうものすごい嫌な気分になって、ふらふらになりながら主治医のところにようやくたどり着くと「すみません。急なのですが今日は代診で」と言われ、さらにショックを受けて仕方なく、薬だけもらって帰宅。
やりきれない気持ちと自律神経失調で全身が寒気で震えだして、吐き気が止まらず、疲労困憊。
自己嫌悪と自分でコントロールできない体調と抱えてノック・ダウン。
明日49日の法要だというのに、ブルー・・・
11月10日
とうとう六・七日。
一七日で四九日だが、四九日の法要と食事会は、週末の方がみんなが集まるため一三日の土曜日に行うこととなっている。
だいぶんと咳から鼻水に移行してきて、どうも風邪だったらしいものが治りかけてきているから、朝、少し早めに祖母の家に行く。
まだ、いろいろと手続があるらしく、朝から長男である伯父が中心となって、いろいろと難しい相談をしている。
今のところ伯母とならんで七日七日の法要に皆勤の勝手がわかるだけに、お寺さんが来る準備(お菓子とお茶とか、蝋燭とか花とかいろいろ)をして待つことに。
四九日の法要も、家が狭いので孫(およびひ孫)は遠慮することになっていたが、近所の私だけは孫でも例外で参列させてもらえる。
ずっと近くで育ったために、きっと孫の中で私なりに悔やみが残っているので、ずっと法要に参列させてもらい、祖父の極楽浄土への旅路を祈っていられるのはせめてもの救い。
だけど、あまりにも日が経つのが早すぎて、戸惑いが残っているのも事実。
いつまでも固執していては、魂を引き留めてしまうからいけないのだけれども、アカンたれなのでどうもね。
本日、『破れ太鼓』を上映。
そう、今日が法要の日と重なっていたので、この作品を選んだのだ。
でも、もうこんな頑固親父はいないよね。
せめてもの私の追悼の意だ。
付き合って下さった皆様、ありがとうございます。
11月7日
祖母の家に昨晩泊まる。
本当は伯母の番だったのだが、前回の秋期練習会のときにお茶のお稽古(伯母は表でお茶を教えている)が終わってからしか塚口に来られないので、スケジュールがきついというのだ。
そこで、私が代わりに泊まることを申し出たのだ。
ただし、私も夕飯は失礼して泊まりにだけ行くことにしたのだが。
というのも、実は金曜日から咳が止まらなくなってしまったのだ。
雰囲気的には、春先に発症した気管支喘息一歩手前、の状態に近い。
だが、昨晩、頭が痛くて微熱をだしてしまったので、もし風邪であったなら祖母にうつしてはまずいと思ったから、接触を必要最低限にしたかったからだ。
今朝も咳がひどくて、母に電話してできるだけ早く来て貰い、交代で家に帰ろうと思っていた。
ところが、来ないのだ。
私は咳が出るのを無理矢理押さえながら、祖父に朝の挨拶とお線香をあげ、祖母が起きてくるまでは、二階に籠もっていた。
祖母は気を使って、朝から温かいうどんを作ってくれて、「なおちゃん、咳大丈夫?」と心配してくれる。
ああ、心配かけてどないするねん。
かといって、祖母を一人っきりにして帰るのも気が引ける。
一応、祖母の家で仕事ができるようにしているのだから。
朝ご飯を食べて、二人でニュースなど見るが、日曜日というのは1週間を振り返るニュースが多く、よって新潟中越地震の話題を中心に、暗いニュースばかりが繰り返される。
お昼頃に来る伯父もまだ来ない。
母も朝電話したのに、全然来ない。
祖母は関東大震災と、阪神・淡路大震災を両方経験してしまった人であるので、地震のニュースはどうも見たくないようだ。(私だって見たくない)
そこで、来週発表というとおこがましい報告に使用する映画が、ちゃんとビデオに入っているかチェックしようと思っていたので、「おばあちゃん、映画見ませんか?」と声をかけてみる。
映画なんて、もう何年も見ていない。
そういう祖母に「1949年の日本映画のビデオですから」と言って、薦めてみると、これまでそんな機会もないから見る気になったらしい。
映画は木下恵介監督の『破れ太鼓』。
バンツマの唯一の現代劇コメディ(現代劇は代表作が他にもあるが、現代劇の喜劇はこれだけ)である。
裸一貫で会社を立ち上げ、家では子どもたちがびくびく顔色をうかがい、息子らは殴られて育ち、そして自分の苦労話を何度も繰り返し聞かせる。
それは、亡くなった祖父と似ているから、祖母がこういう映画をどう見るか興味があった。
もちろん、ビデオのせいもあるし、途中用事をしたり、映画に集中してはいないが、それでも楽しんでみていたようだ。
映画の途中に伯父が来て、終わり頃に漸く母が来たが、親子3人で「まるでお父さんのようだね」と祖父を思い出すように言いながら、笑って見ていた。
終わってから「面白かったわ」と言ってもらえて、お世辞でも気分転換になれば嬉しい。
まあ、祖父は子どもを自分の会社に入れなかったし、会社を倒産もさせなかったし、豪邸にも住んでいないし、家庭崩壊もなかったが、それでも共通する特徴があるだけに笑える。
いい意味で、祖父を偲ぶことになったかも知れない。
母がお昼を買うてきて、それを4人で食べてから、麻雀となったが、さすがに昨晩から祖母に隠しているとはいえ、微熱が出ている私は、丁寧に辞退して漸く家に帰る。
本当はすることが山積みなのだが、頭がふらふらしてダウン。
夕食も祖母と伯父・伯母たちと外食の約束があるので、とりあえず休養。
11月4日
今日は、祖父の社葬と言うより、「お別れ会」。
祖父は戦後、3人のブレーンと会社を立ち上げ、生涯現役。
さすがに晩年は会社に通えなくなったが、それでも相談役であった。
会社の話は、何度も何度も聞かされたが、実際のことはもちろん知らない。
改めて、祖父の偉業を知った。
戦後の混乱期から、裸一貫で関西に来て、町工場から一部上場(っていうんだよね、かぶのことはわからないけれど)の企業まで大きくした人だった。
もちろん、今の現役社員は祖父の顔なんて知らないでしょう。
立ち上げメンバーは、もうすでに鬼籍に入っているし、役員も祖父と接触した人はごく一部。
もう、現役を退いた人が挨拶に来ていたが、その人たちも「昔、可愛がって頂きました」と言うのだから、もう私の想像を超えた世界。
こんな祖父のそばにずっといて、小さい頃から時には厳しい叱責を受け、また特別扱いしてもらうほど可愛がってもらった私は、幸せ者だったと思う。
明治生まれで、まさに20世紀の動乱を生き抜いてきた人に、いろいろと学ばしてもらえたと思う。
さすがに、弔辞と献花の時には、こらえきれずにまたもや落涙。
ほんまに、あかんたれやわあ。
11月3日
五・七日の法要。
とてもいい天気で、秋らしくてすがすがしい。
実は、今日は祖父母の結婚69周年に当たっていたのだ。
そんな日にちょうどお寺さんが来るなんて、なんか不思議な感じ。
60周年の時、繰り上げ「ダイヤモンド婚」を祝って、親戚で有馬温泉に行った思い出がよみがえる。
結婚69年とはすごい。(まあ、果たされなかったのだが)
69歳まで生きられるかも分からないのに・・・
祝日とあってか、お昼御飯を集まった伯父・伯母・母(もちろん祖母)とおそば屋さんに食べに行く。
ひとしきり、思い出話に花を咲かせ、家に帰る。
今晩はイーグスルスのコンサート。
18時開演と少々早め。
大阪ドームなので、豆粒にしか見えないが(スクリーンは別)、それでも生で聞くと感動!
さすがに客層の平均年齢が高い。
私めでさえ、この中では若年層に入るな。
1時間演奏後、いきなり休憩。
ええ!おじさんたちは疲れるのかしら?
19時半に第二部スタート。
ううん。かっこいい。
そして、アンコールは・・・やはり「ホテル・カリフォルニア」。
引っ張って、引っ張って、漸く歌い出したときには、もう全身鳥肌もの。
第1部の時は、アリーナの人たちでさえ、みんな座っているのにも(私は1塁側)驚いたが、さすがにアンコールになると、アリーナはほとんど総立ち。
やはり、ロック・コンサートは、立って踊らなきゃ。
「ホテル・カリフォルニア」が終了し、メンバーが引っ込むと、客席から混雑を予想した客がぼろぼろと帰りだした。
しかし、それは甘いよ。
さらに粘ると、なんとその後にさらに2回もアンコールが続いたのだから。
アンコール3回は、ちょっと感動。
大体2回が定番だから。
終わったら、21時を過ぎていた。
高かったけれど、やはり生で聞くのは、音の振動が身体に直接ぶつかってくるので、聴覚だけでなく全身で感受できるので、最高やね。
楽しかった。
10月31日
下川正謡会秋期練習会。
お稽古場で、内輪の発表会を行うのだ。
普段は歌仙会といって、夏の間に行うのだが、今回は社中の日程が上手く合わず、2月も遅れて秋になった。
朝から、謡、地謡、仕舞、雑用と大わらわ。
謡曲「船弁慶」のシテを頑張って、無本で挑戦。
最初からつまって、ひやひやしたが、なんとか謡い終えた。
でも、予想通り、「あちこちふしが間違っていましたよ」と注意される。
すみません。
精進します。
仕舞の長刀は、緊張してしまって(こんなところで緊張していてどないすんねん)、手に汗を掻いてしまい、一瞬取り落としそうになる。
あわてて左手を添えて、ごまかしたものの、師匠の目はごまかされない。
またもや注意。
ははあ。
毎年にくらべ、お稽古期間が2ヶ月多いだけあって、例年にくらべ、水準が高い。
やはり、お稽古って大事なんよね。
同じ長屋仲間のドクター佐藤さんに、念願の対面。
HP上あるいは、内田先生の日記で、存じ上げていたので、なんとなく初対面の気がしない。
朝から夕方まで、ご見学頂いた。
とても好感度溢れる人であり、嬉しいことに大変興味を持って頂いているような印象を持った。
是非是非、お稽古始めて下さいね。
今後ともよろしく。
これで、10月の大イベントが終了。
1日に祖父が亡くなってから、あっという間の1ヶ月だった。
振り返ってみると、あまり何も出来ていない気もする。
忌明けまで、なんて言い訳は通じませんね。
仕切直し!といいたいが、今日は疲れました。
10月27日
早いもので、もう四・七日。半分が過ぎた。
昨晩は、祖母の家に泊まった。
祖父が亡くなってから、(亡くなる二週間ほど前からも、介護のために誰かが泊まり込んでいたが)祖母が介護疲れとやはり長いこと一緒にいた伴侶を亡くした精神的なものから調子を少し崩した。
もちろん、気丈に振る舞ってはいるが。
そこで、人手は必要ないが忌明けまで誰か一人が泊まることになった。
私もそのメンバーに入っている。
昨晩、祖母と一緒にテレビを見ていた。
「おひとりさま」の楽しみ方、といったものだった。
祖母は「これから一人だからこれを見て一人の生活に役立てる」というので、一緒に見ていたのだが、どうもかなり金のかかる企画ばかり。
夜更かししてしまった。
次の朝、お寺さんが来るまで、二人で朝御飯を食べ、準備をする。
今日は、夕方から研究会と思っていたが、内容的にとりわけ行く必要もないので、午後から伯父と市役所にいろいろな手続に行く祖母に頼まれて、なんとなく伯母と一緒に留守番をしていた。
私は昨晩から泊まり組なので、パソコンなどあるからいくらでもすることがある。
本当は家に帰って資料の整理などしたかったけれど、どこか寂しそうな祖母に言われると、断れない。
優太ちゃんの救出劇を見て、夕食を共にし、そして祖母の希望ではんちゃんの麻雀を二回もした。
祖母が、元気に麻雀をして、和気あいあいと笑い声が上がる明るい居間の再現を、私は嬉しく思ったのは事実。
けれども、これは毎回付き合うことも出来ないとも、非情に思ったのも事実。
気がついたら11時近かった。
あわてて家に帰る。
今日は、何も自分の事しなかったなあ。
これぐらいのことしかできないのだから、たまにはいいか。
10月25日
朝からお稽古。
9月は研究会、旅行、京都映画祭と一度も稽古せず、10月1日に祖父が永眠してから、ばたばたとして、一度少しだけ顔を出しただけ。
31日には、内輪の練習会があるので、なんとか仕上げなくてはならない。
しかし、さぼっていたので、大幅に忘れており、あれやこれやと復習と叱咤の嵐。
ああ、こんなんで、来年能楽が出来るのか?
祖父に私の初舞台を見せる事はかなわなかったけれど、来年のお能をすることは快く承諾し、励ましてもらったのだから頑張らねば。
けれども、久し振りに長刀を持って、お稽古していたら、もう腕が棒のようだ。
うちの師匠は、稽古熱心で大変ありがたいのだが、たまにとんでもない喩えを出してくる。
例えば、長刀を持つ手が重さにたえられず、ぶるぶる震えてこようものなら、「巴御前は、もっと重い長刀を使い、その上甲冑をまとっていたのだから」とそんな弱っちいことでいいのか?と諭してくる。
さすがに「いいんです。木曾義仲がいるわけでもなし、甲冑も持っていませんから」と言い返してしまう。
他にもある。
さんざん稽古をした後、仕上げに腕立て伏せをさせられるのだが、私は昔から本格的な腕立て伏せが出来ない。
けんすいなんてとんでもない。(斜め懸垂がやっと)
握力はあるのだが、腕力(それに背筋)が全然ないのだ。
しかし、それでは許してくれず、「プロのアスリートは100回ぐらい平気でやる」と言われる。
別にプロのアスリートじゃないからいいんです・・・と、つい口答えしてしまう。
普段は、恐ろしくて口答えできないのだが、笑ってしまうのだ。
もう少し、説得力のある諭し方して下さい。
全く稽古不足で、いたらないのは反省しているのですから。
10月24日
お天気になってよかった。
今日は、藪内流のお茶会に招かれて、天竜寺に行ったのだった。
雨だったら洋服にしようかと思っていたけれど、晴れたのでもちろん着物。
気分的にまだ忌明けしていないので、赤など派手な色目は着る気がしない。
とはいえ、私のお気に入りの黒地の訪問着は、あまりにフォーマルすぎる気がして、結局母の濃い緑地に菊の模様の入った小紋を借りる事にした。
ちょうど季節柄、菊の模様もぴったりだし。
私はお茶を習った事がないので、作法を全く知らない。
一度、茶会席の料理の事について習った事があるが、それは茶会席料理を作って盛りつける方がメインであって、肝心の作法や心得はあまり触れられなかった。
今回は、点心、濃茶、薄茶とフルコース。
さすがに私だけでは心許ないとおもわはったのであろう。
さらに表と裏をお稽古している二人を誘って、三人で出かけた。
まだ、紅葉には早い嵐山であるが、さすが観光客だらけ。
また、先日の台風23号の被害の跡が生々しく残り、桂川の川岸には、立ち入り禁止の赤いロープがはりめぐらされ、渡月橋の橋桁には大量の枝やゴミなどがひっかかって見苦しい。
おまけに、水かさがひいているとはいえ、こんなに濁流の桂川は見た事がない。
少し早めに着いたので特別拝観している天竜寺のお庭や建物を見学し、秋晴れの嵐山を着物で散策。
とても楽しかった。
とにかく、作法は知らないが、お声をかけて下さった先生の濃茶は、とても美味しかった。
以前に、一度だけ濃茶を飲んだ事があるが、その時はあまり美味しいとは思わなかったので、きっとお茶だけでなく、練り方が上手かったのであろう。
お茶のお稽古も始めたいなあ。
そんな、暇も金もないんだけれど・・・
お稽古好きの私は、今とてもやりたいお稽古が二つある。
一つは柳生新陰流(本当は香取神道流にひかれているのだが、関西では本格的には無理なので)。
そして、もう一つはお茶なのである。
まあ、欲を言えば、字が汚いので、お習字もしたいのだが、最近PCの普及で何かと間に合わせてしまうから、後回しになる。
お稽古するには、やはり定収入について、安定した生活を送る事が先決かあ。
10月23日
兄にどうしても用事があったので、出勤時刻を聞いて、夕方京都へ行く。
別に他意はなかったのだが、母に「京都に夕方行くからね」と言うと、一緒に行くという。
なんだか、母も用事があったようだ。
まだまだ片付かない資料の整理をしながら、少しゆっくり目に家で過ごす。
家の掃除もしたいが、資料が散乱しているので、これを片づけない事には研究はおろか、掃除すら出来ないという悪循環に陥っている。
しかし、そうも言っていられないので、必要に迫って別の資料を取り出すと、さらに部屋が散乱。
ああ、どうしてこんなに要領が悪いのだろう。
午後になって、母から連絡があり、祖母と麻雀をしたいのだが、夕方何時に行けばいいのか?と聞かれる。
祖父の(もちろん祖母のためにも)呆け防止のために、しんどかろうがなんとか1日1回は麻雀をするようにしてきた。
祖父が亡くなって、祖母が麻雀をしようという気になったのは、好い傾向ではないか?
そう思ったので、「どうぞ。終わったら連絡して」とだけ答える。
その後、実家に明日着る着物を取りに行き、京都へゴー!
久し振りに京都で外食をしようかという話になったので、前から行きたかった「Divo Diva」に行く。
コースは多いので、単品を取ったが、量が多い。
美味しかったので、かなり満足したが、席料を1人500円取られたのがちょっと引っかかった。せこいけど・・・
兄の店は、土曜日と言う事もあってか、結構混んでいて一安心。
でも、このところの野菜の高騰ぶりに、食事メニューが辛いそうな。
水商売は大変だねえ。
まあ、就職浪人の私もかなり大変何やけど・・・
10月22日
だめだ。
朝から絶不調。
昨晩も、家に帰ってから疲れ切って、ソファに横になると動けなくなってしまった。
またもや、睡眠と覚醒の区別ない夜を過ごし、寒いのだか暑いのだか感覚がなくなる。
日文研を断念し、昼過ぎまで倦怠感に悩まされ過ごす。
なんとか動き出して、這うようにして主治医のところへ。
長時間待たされる事を覚悟で、いろいろ時間つぶしの道具を取りそろえ、待合室にて待つが、まだまだ時間がかかるだろうと診察券を出して、よそに時間を潰しに行っている人が重なったおかげで、幸運にもすぐに順番が回ってくる。
こんな事もあるんや。
おかげで早く帰れました。
一瞬、NOVAに行こうかと迷ったが、自分の体調を考えると不可能な事が判明。
あきらめました。
大体、あまり行く気が起こらないねんな。
私が気落ちしてどないすんねん、と思うんやけれど、ぽっかりと穴が空いて、バランスが取れない気がして、落ち着かない。
でもね、祖父母の家で泣く事がだけは止めると決めたんや。
とりあえず、無理してもしゃあないが、ぼーっとしとっても時間は過ぎる。
半歩でもいいから前進しなくては。
10月21日
す、すごい台風だった。
もちろん、お稽古は中止。
昼過ぎからの大雨を「よう、降るな」と思いつつ、家に帰って資料整理、及び呆然を繰り返していたが、いったんおさまってからの風がすごかった。
南側の窓に直接当たる風の不気味な音と、それに引っ張られるかのように北側の窓のざわめき、そしてドアが、まるで誰かがノックしているかのように時折「ドンドン」と鳴るのが恐ろしい。
眠られなかった。
まあ、眠られんのはいつものことやな。
睡眠と覚醒の区別のない夜を過ごして、日文研に行く。
なんとなく、微熱が続きすっきりしない。
仕事をしていても、自律神経が失調しているため、意味不明。
困った。
夕方早々に帰り、お稽古に向かう。
それでも日文研から御影のお稽古場は遠い。
すっかり暗くなった道を急いで歩いていたら、携帯が鳴り「何処にいるの?お稽古に行くの?」と世話役である母からせっつかれる。
きっと、みんなお稽古が終わって私だけが来ないから、先生がしびれを切らしておられるのだろう。
あわてて、駆けつける。
お稽古不足だから、休むわけにはいかない。
こんなに遅くなったし、次の月曜日もお稽古だから今日はさらっとおさらいして、なんて思っていたら、長刀を持つ手が震えて腕がおかしくなり、全身汗だくになるまでたっぷりお稽古をつけてもらいました。
しんどい。
祖母の家に顔を出して、祖父にお線香をあげてから、帰ろうと思うと「夕飯は?」と聞かれる。
家に帰ってから食べるつもりと告げると、残り物でよかったらと食べさせて頂きました。
ありがとうございます。
ご馳走様です。
今晩は大叔母が泊まる日なので、家に帰る。
なんだか、疲れた。
調子が悪い。