12月3日
今日も祖母宅にお泊まり。
実は、ここ3日ほど、またまた微熱が取れない。
そもそも風邪気味だったのだから、当たり前である。
朝になると下がるので、寝ている場合ではないため出勤したりしていたが、今朝は朝になっても下がらない。
困った。
やはりまだ少し休養が必要なのか。
母に言われていたのだが、自分の身体の方が大事なので、たん熊のお稽古をあきらめ、午前中を身体を横たえて過ごす。
ああ、明日から雨だから洗濯したかったのに、その気力もなかったなあ。
午後になって、漸く動きだし、先週血液検査をしてもらったので、結果を聞きに主治医のところに行く。
「うーん。こんな事言うのも何やけど、結果は風邪やな」と言って笑いながら、「風邪らしいから検査したから、当たり前やなあ」と続ける。
ぶっと吹き出してしまった。
ただ、身体の免疫力が落ちているらしいことが伝えられ、ついでに鉄分不足とも言われた。
ここで検査が出来ないが、どうも肺結核になりかねない感じなので、今すぐとか結核になっているとは言わないが、念頭に置いて、咳など気になるほどひどくなれば、専門医にレントゲンを撮ってもらいなさいとも言われた。
笑いで気分がとても紛れたので救われたが、少しショック。
けほけほ。
12月1日
早いもので、もう師走。
師でもないが、私もばたばたと走り回っている。
映画の日、及びレディース・デイなので、そろそろ終わってしまうであろう「隠し剣・鬼の爪」を、早退して見に行く。
誠に申し訳ないが、「たそがれ清兵衛」とダブることが多く、二番煎じに見えて仕方ない。
また、「チャンバラ」シーンが相変わらず少なくて、もう「殺陣」はチャンバラの醍醐味として位置づけられないのであろうか、それともやはり動きが出来ないせいか、と少しばかり悲観する。
ついついそこに目がいくのは、おそらく私の専門としているところであるからであり、他の観客はそんな風には見ていないのかも知れない。
観客も結構ご年配が多く、映画終了後の感想に聞き耳を立てると、「映画館で時代劇を見るのが久し振り。やっぱりいいねえ」といった事を言うてはる。
おそらく映画全盛期に、洋画もいいが、時代劇も楽しみに一つであったのであろうと推測し、参考にしたいと思ったが、さすがに話しかけることは出来なかった。
小心者である。
さてさて、映画に話を戻すと、「ナンバ走り」(パンフレットにも記載してあったが)を強調するように描かれていたのは、ここ最近の流行の取り入れか?
でも、メインとなる侍たちには指導したのであろうが、その他大勢の人たちはもちろんのこと全く出来ていない。
これも時代の流れで仕方ないのかも知れないが、方言に力を入れているのは分かるが、あちこちで現代語の台詞が耳について仕方がない。
まあ、矛盾が多々あるのは、いつの時代も変わらないのでそこは楽しんでみているが、妙なところで「リアル」に見せようとするだけに、どうしても目についてしまう。
荒唐無稽でもいいではないか。
それを、或る場面ではいかにも、当時を再現しようとしたこだわりが、悪く言えば誇張的に見えてしまうため、全然出来ていないところが結局対照的に浮き上がってしまう。
永瀬君も頑張っていたが(私はずっと彼の演技を高く評価してきた)、時代劇向きではないのか、それとも時代劇をするために稽古する時間がなかったのか、ちょっとね。
やはり目を引いたのは、田中みんである。
舞踏家の身体運用が今回も生かされていた。
そういえば、映画で思い出したが、「ゴジラ」が50周年、ファイナルだとか、映画殿堂入りだとかで騒がれている。
ハリウッドに出たゴジラの着ぐるみ(だよね)をTVでみてがっかり。
初期のゴジラの姿よりも、ハリウッドがリメイクして製作された「爬虫類恐竜」にしか見えないゴジラに近かったからである。
そんなにゴジラがアメリカで受けているとするのなら、最初1954年に生まれたゴジラの第一作をちゃんと見ているのだろうか?
ゴジラがどうして生まれたのか、あの映画の悲哀を理解しているのか?
ゴジラは「水爆」という人間が作り出した愚かな兵器故に生まれてしまった、いわば戦争被害者の別の形ではなかったか。
あれは、単なる娯楽特撮映画と位置づけるだけでなく、平和を願い、水爆(原爆・核兵器)に対する批判の映画としても位置づける作品である。
それを、核兵器を作り続け、自称世界警察として、他国を脅かし、また批判だけはすぐするくせに、自国の核実験だけは棚の上に上げている国がもてはやしているとはどういう事だ。
リメイクでよく分かる。
単なるエンターテイメント、キング・コングや恐竜と同じ扱いで、水爆による悲劇によって生まれた哀しい怪獣の運命なぞ、全く伝わっていない様に思われる。
たしかに、私のゴジラ主張もかなり主観的で正しいものであるとは言い切れないが、ゴジラがアメリカでもヒーローとなるのなら、世界平和を見直して欲しい。
核兵器の恐ろしさをきちんと理解して欲しい。
そんな憤りを覚えなくもなかった。
複雑な心境。
11月30日
昨日はお稽古日。
そして今日は「能特訓日」であった。
そのため日文研は両日お休みし、昨晩は祖母の家に泊まったばかりでなく、昨日はお稽古の他、1日祖母に付き合うことになった。
祖母の希望で、夕食を作って欲しいといわれ、また大叔母に初携帯を持たせるために、携帯ショップに付き添ったりしていたのである。
夜中になって漸く少し自分のことをしていたが、どうも疲れが溜まってきたのか捗らなかった。
朝ご飯を用意して、祖母が病院に行っている間、居間で仕事を少ししていたが、やはり捗らない。
実は、いろいろな締め切りが迫っており、こんな悠長なことをしている場合ではないのだが、情けに負けてしまう。
能特訓日では、やっと能の手順を最初から最後までお稽古した。
「船弁慶」は、結構長い演目であるので、シテの謡を覚えたと思っていても、動作が伴うと、初めて習う所作に気を取られ、謡を忘れる。
前シテをようやく通して習い、そちらに気が行ってしまい、既に何度かお稽古がすんでいるはずの後シテをど忘れしてしまし、またもや叱咤される。
能楽しかも初能でするにはよっぽどお稽古に時間を割かなければならないと諭されるものの、かといって就職浪人の私としては、優先順位のトップに「お稽古」を持ってくることは出来かねる。
はあ、やりがいのあるお能で、誠に楽しいのは事実であるが、通してお稽古をすると、この上さらに装束・面がつくことを想像すると、ほんまに出来るんやろか、と嘆息。
先行き不安である。
11月28日
しんどい。
昨日と本日にわたる西山祭典が無事終了。
こんな事なら、西山祭典をこの日記でもっと宣伝すべきだった。
西山祭典というのは、昨年秋に京大桂キャンパスがオープンし、移ってきた工学部の大学院生が中心となり、昔から京大のある吉田山、すなわち「東山」に対抗して(と思われるのだが)、地域や企業と密着し、西山文化を発信していこうという構想の第一歩である。
第一歩というのは、西山祭典というのを開催し、どのようなことを西山にある大学や研究機関が行い、知ってもらうための試みとして企画された「学園祭」を大きくしたようなものであり、もちろん今回が第1回であった。
西山にある大学で古いのは、京都市芸大であり、次に研究センターである日文研、そして昨年越してきた京大工学部の大学院である。(もちろん他にもあるが今回メインとなった3機関がこれである)
大学同士は早くから話を打ち合わせ、テーマを「科学×芸術」と掲げ、かなり綿密なプロジェクトを企画していたのだが、日文研はやはり研究センターであるがゆえ、学生中心になってというほど、簡単には事が進まない。
企画の中心となった人が、日文研の先生にコンタクトを直接取り、その先生が多忙ゆえ実際に動くスタッフとして連絡するようにと言われたのが、実は8月末だったか9月初め。
すなわち、11月末に既に日程も決定し、おおまかなプログラムの構想も出来上がっていた段階で、話を振られたので、非常に対応に戸惑い、また9月はほとんど逃亡生活を送ることになる私は、同僚と院生に実質的な仕事を託し、連絡だけしたままほとんど手伝わず、当日にスタッフとして参加というずるい輩となりはてていたのであった。
さて、いざ本番になってみると、第一回のためいろいろハプニングが起こるのは予想してはいたが、それを上回る連絡ミスが多発。
こちら(日文研スタッフ)としては、当然、事前準備の段階で確認して当たり前であろうと思われる些細なことだが、初歩的なことが多々抜けていたことに、愕然としたのである。(例えば、出来たばかりのキャンパスなので、どこに何があるか矢印や表示をあちらこちらに立てておくとか。何処の大学祭でも外部の人が来るのを前提にそれぐらいしているものだと思いこんでいた。)
だが、私は当日飛び入りスタッフと変わらない立場ゆえ、そんな事をいえるわけがない。
おまけに、土曜日の記念講演会には、お世話になっている日文研の先生の一人がされることに決まったので、実行委員としてお手伝いするよりも、結局は先生のお世話係の方がメインとなってしまった。
私の手落ちなのだが、一体実行委員がその先生にどのような連絡をしているのか全く知らなかったので、先生に質問されても、これまた私もよく分かっていないという悪循環に陥り、そのため忙しく立ち働く実行委員の人に、当日になって質問し、かなり手を煩わしてしまった。
スタッフ参加どころか、足手まといになったことに深く反省。
また、フィナーレと併行して行われた「黄昏コンサート」の事を日文研スタッフが誰も把握できておらず、また、そのコンサートに是非ご出席願いたいという連絡を、実行委員が所長と最初にコンタクトを取った先生にしていたことすら知らされ