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三つの名前で出ています

4月7日(金)

「青山ゆみこ」

また新しい名前を作った。

3つ目だ。

本名は「青山友美子」で、戸籍上は変わらない。4年ほど前、自身も3度ほど変名している母親が「そんな年にもなって(30歳過ぎたあたりだったと思う)、落ち着きもしないでとフラフラしているのは名前が悪いせいみたい(誰に聞いたんだろう)だから、ママ、新しい名前みてもらってきたわよ。コレかコレから選びなさい」。そう言って二つの名前を出された。もう一つは覚えていないけれど、「ゆみこ」という読みも変わるものだったので、なんだかそれは気持ちが悪くてパス。という安易な流れで、私は「青山友美子」から「青山裕都子」になった。

「それでやっぱり変わったの?」

この話をすると、名前の一つしかない人の多くは、好奇心満々とちょっとした意地悪ゴコロで聞いてくれる。結婚したのかとかしてないのかとか、そういう女性自身のネタを求めて。

「いやー別に。へへへ」

結婚というものに憧れも失望もない私は、母親とも女性自身な人たちともその返答のポイントはビミョーに違うが、本当に「別に」としか言いようがない。だいたいが、その聞きたいことが変わったならば、「青山」の部分が変わるはずで、そうすっと、母親の探してきた名前は、いったい何を目標としていたんだろう。…ということはさておき、だいたいが過ぎ去ってもうどこにもない「未来だったはずのもの」は、今の私には見えない。だから、本当のところ、何かが変わったか変わっていないのかは、私にももちろん、誰にも分かり得ようのないもので、だから捉えようによってはいつも希望に満ちている「占い」というものに、いつの世も人はオヨヨとすがるのである。


名前を変えると、気分が変わる。というと、「そんな単純なもんなの?」と言われるが、だって、生まれた時につけられた名前だって、「海のように広く大きな心を持った子どもになるように」とか、単純極まりない。でもだからこそ、名前は強い意味を持つんだと思う。世の中のたいていの条理であり情理は、複雑なことではなく単純なことにこそある。


名前を変えると気が付くのだが、フツーに生活しているだけなのに「名乗る」機会はなんと多いのものか。薬局のコクミンカードを作る用紙に名前を書かされ、化粧品屋で会計を待つ間に「よかったらご案内を〜」と登録用紙にも名前を書き、アマゾンで本を買うにもパスワードのみならず名を名乗らされ、メールを送信するたびに名を最後に付け加え…。口頭で名乗るときは「あおやまゆみこ」の音だけだからいいけれど、漢字記入の度に、「青山友美子」か「青山裕都子」か悩み、ニフティでアドレスを忘れたときもフォーム記入の「名前が違う」と拒絶され、化粧品屋でお客様カードを忘れて登録と違う漢字を書いては不審がられ、前の名刺をお渡しした方には、変名の恥ずかしい話を笑い話に変えてご説明している。これで「ゆみこ」を「けいこ」とか変えていたら、どうなっていたのだろう。さらに、結婚して例えば名字が「よしだ」とかになっていたら「青山友美子」の片鱗もない。「よしだけいこ」って、もう別人ですやん、である。


女の多くは結婚し、その中の多くは名字が変わる。「そういうのは女の人権侵害だ」と夫婦別姓を唱える人もいる。たぶん、そういう人は名を名乗る機会が多く、単純に不便なんだろう。それはそうだ。がしかし、多くの専業主婦は特に異論を唱えない。逆に変名することで、社会的に自分のポジションが変わったことを告知できるんだから便利でもある。私のように変わらない人間は、変わらないことでひとつの告知ともなるから、アンケート用紙に「既婚/未婚」なんて書かされるのは個人情報保護法に…とかいう前に、情報はだだ漏れなのだ。でも、そんなことは私にはどっちでもいいのでワーワー言わないんだけど。もしかしたら、夫婦別姓というか、変名を嫌う人というのは、自分の名の持つ「人格」が「名前を変えることで変わること」を恐れているんではないだろうか。それは私にも身に覚えがあるからわかる。恐れてはいないけど。

「青山友美子」は恥ずかしさも誇らしさも歯がゆさも詰まった30年ほどの時間を引きずっているが、「青山裕都子」にその30年はない。「名前の重み」とかいうのは、すなわち「時間の重さ」なのだ。逆にいうと、30年の時間を持たない「青山裕都子」はどうとでも設定できる。ロールプレイングゲームでいうと新キャラみたいなもんだ。

結婚して電話が掛かって来たときに「はい、よしだ(なんでよしだなんだろう?)でございます」と口にした新妻の嬉し恥ずかしな気持ちというのは、愛する男の名を…という以上に「自分が自分じゃなくなるような恥ずかしさ」なんじゃないかと思うのだ。想像だけど。

『千と千尋の神隠し』の「千」と「千尋」の話は、「名前」の持つ力を分かりやすく描いていた。私にとっての「千」と「千尋」である使い分けの「裕都子」と「友美子」は、書ける幅を広げてくれた。「青山友美子」では生々しくて直視はできても客観視できなかった「身内」の話を臆面もなく語らせ、何よりも「友美子」の恥ずかしさを「裕都子」は笑うことを可能とした。でも、これってまるで人格分裂症じゃないか。それに、そんなことを損得勘定とかそんなものでしちゃっていいのかなあ。

しかしながら、「名前を変える」ということは、過去の名前を捨てる、ということではない。一度存在した名前は消えない。ゴミ箱には捨てられないのだ。つまり「名前を変える」と、人生のデスクトップ上にいくつもの名前のフォルダが増えるような感じに近い。都合良く、そこから記憶や時間やなんやかんやを取り出すこともできるのだが、その全ての名前の管理者である私には責任がある。名前というシンプルで不変のシステムが突如バージョンアップしたりしないのは、この責任からは逃げようがないからだと思う。つまり、この責任を一番軽くするには名前は一つでいいし、その方が便利なのだ。

あまり言われていないが、名前は一人歩きをする。なので「便利さになびく」という人間のどうしようもない弱さに魅入られた私は、「青山裕都子」も「青山友美子」も、そして今後は「青山ゆみこ」を使いこなし…と思っているのは自分だけで、名前たちは鵜飼いの鵜のように好きな方向に飛んでいくだろうし、帰ってきたときに何を口に入れているかは私にはわからない。危険が一杯である。でもまあ、えっか。ということで、スピリチュアルなんちゃらとかそういうのでは全然無い、聡明で尊敬する運命鑑定士・内山明玉さんに御墨付きをいただいた「青山ゆみこ」をどう歩かせるか目下思案中。なんだか人生はどんどんとややこしくなっている。なんて思っているのはいったいどの「あおやまゆみこ」なんだろう。

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2006年04月08日 11:31に投稿されたエントリーのページです。

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