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大家の仕事は「タイトルつけ」です

4月5日(水)

エルマガジン社の『東京本』打ち合わせともろもろあって大阪へ行くつもりが、久しぶりに風邪の予兆。扁桃腺が腫れている感じなので、自宅で作業。週末にある、『宣伝会議』主催の「編集・ライター講座」の講義のレジュメを作成。ご依頼を受けて「文章を書くということ」についてお話しさせて頂くことになったものの、誤字脱字も当たり前のこんな文章を書いてるヤツが何を偉そうに…という内容の、支離滅裂で偉そうなレジュメが完成。『宣伝会議』の大越さんのアドバイスがなかったら、もっとえらいことになってたはず。というか、違う意味で「偉い」ことになってしまった。


話す内容を考えながら、改めて「書く」って何だろうと頭の中を探りながらレジュメを作成するうちに、やっぱりこの作業=「問いを立てて頭の中を探る」が、すなわち書くということなんだろうと再認識。writeというのは、思考を文字に置き換えるという動作であり手段ではあるが目的ではない。そこにいくまでの道筋を丁寧になぞらえるということが「書く」ということなんだ…と言いたいんだけど言えるのかしら。ワタシは多勢を前に話すのが苦手なのである。


講義となると、どうしても一方的になりがちで、口から出まかせで話はいくらでも出来るけれど、自分のしている話のポジショニングを確認することが難しい。一対一であれば相手の反応を見てズレが直せるし徐々に焦点が定まってくるけれど、多勢の反応を感じるのはそうたやすいことではない。その作業がハードコアパンクなんだよなあ…うじうじ。でも、ふと思えば、こうしてブログを書いているときに、ワタシはどんなポジショニングを取ろうとしているのだろう。ワタシには今、これを読んでいるアナタが見えないのに。


ていうか、違う違う。


このブログは、まずワタシが内田樹先生にテキストを添付したメールを送り、そのテキストを読んでタイトルを付けてくださったものを内田樹先生がこの長屋にアップしてくださる。というシステムなので、ワタシが書いているこの記事の宛先は内田樹先生なのだ。少なくとも、内田樹先生の反応を見ながらこのブログを書いている…はずなんだけど、この長屋の面白いところだが、内田樹先生は記事の内容に一切なにも仰らない。同じ長屋の江さんもそう仰っていたので、どうやらみんなにそうみたいだが、テキストを送っても、オモロイともオモンナイとも、ましてやあーだこーだどーだそーだという言葉は一言もない。


という状況は、走ったところでタイムを計られない短距離走者みたいなもので、ヨーイドンで走ってみたもののゴールにいるコーチは無表情で何も言わない。速かったの? 遅かったの? や、や、やっぱ遅かったんだろう…というような感じだろう。となると、とにかく一生懸命に走るしかなくなる。何だかわからないからもっと必死に走ってみるしかない。少なくとも「おめーおせーんだよ」と罵倒されるワケでもないけれども、「めちゃくちゃ速かったよ。よく頑張ったな」という褒められた状況でもなさそうだ。やっぱり褒められたいよね。どこがまずかったのかな。むー。でも、考えてないで走るしかねーんだよ。そんな状況で書いている。内田樹先生はこの先も何も仰らないだろうし、だから走り続けることが出来るとも言える。自分、そして他の誰か。誰かはワタシではないけれど、ワタシが立ち上げたもの。そしてその誰かを通してさらに立ち上がるもう一人の自分。そうか、そういう構造だったのか。

と書いて、ふと、前ブログでアップした「うなぎなるもの」を思い出したので、一部抜粋して貼り付ける。

<村上春樹が「小説というのは三者協議じゃなくちゃいけない」と言っていて、それを彼は「うなぎ説」という風に呼んでいる。『柴田元幸と9人の作家たち』の中でインタビューでこんなことを言っていた。ということを、前に内田樹先生の日記で目にし、読んだことがある。

「僕という書き手がいて、読者がいますね。でもその二人だけじゃ、小説というのは成立しないんですよ。そこにはうなぎが必要なんですよ。うなぎなるもの」

「自分と読者との関係にうまくうなぎを呼び込んできて、僕とうなぎと読者で、3人で膝をつき合わせて、いろいろと話し合うわけですよ。そうすると、小説というものがうまく立ち上がってくる」

村上春樹は一人でこの作業を誰に言われるでもなくやっていて、そこから秀逸な「話」を作り上げているのだけれど、ワタシのような凡人にはそんなこともできるわけもなく、でも、「うなぎなるもの」を実際に置くと、当たり前なんだけど、いろんなものが立ち上がる。>2004年8月2日(月)

『宣伝会議』の大越さんに「読者のイメージをどのように設定するか」ということをご質問いただいて、その時に答えられなかったんだけど、こういうことだったのかもしれない。こんな話が講義で出来たらいいのになあ。でも、悲しいかな、書き終わったときにしかわからないもんだよなあ。「書きえたもの」というのは、その通り、たいていが事後的にしかわかり得ないものなのだ。だから、それを求めて「書く」のかもしれない…という話をしよう。

そんなこんなのご縁で、また少しずつグルグルと回り出した感がある。皆さん、ありがとうございます。そして、よろしくお願いいたします。

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2006年04月08日 11:20に投稿されたエントリーのページです。

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