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アオヤマらも行かへん?

有給消化期間に入ったことだし…といいながら、今日もミーツ誌の取材に勤しんでいたし、別冊の打ち合わせだのなんだかんだのツーツートンで出社。まとまった休みも取れないままに来週はミーツの「東京本(仮)」の打ち合わせで東京出張。こういうのを有給消化っていうのだろうか。でもまあ、まだ在籍してるのにこうしてブログで会社のこと書いたりしてる分でプラマイゼロということか。いや、どうだろ。 というよりも、時間ができてすることといえば、元町商店街周辺をぶらぶらして本屋をのぞいたり新店見つけて編集部に電話したりブログやなんやと書き物したりしているだけで、こういうのはミーツ在籍時代からなんら変わらない。つまり、今のこの状態に対して仕事をしていると言ってしまえば、同様に前のあの状態は仕事をしていなかったと言えそうな気もして、そんなこと言うと前科者のワタシは揚げ足取られそうでオヨヨという感じなので、証人喚問でのヒューザー小嶋を見習って「刑事訴追の可能性がありますので発言を控えさせていただきます」。全ては、執行猶予がとれたときの話にしたい。 てなんの話だかわかる人にしかわからなくて申し訳ない。ともあれ、自分がいったいどういう状況にいるかなんて、相田みつをが「しあわせはいつも自分のこころがきめる」と正しく言い当てた通りジコチュー判断この上ないもんで、みつを風に考えるならばワタシは今「有給消化期間にもかかわらず、愛社精神により自発的に業務協力をしている。だってお世話になったんだもの」。まあ、そんなこと本当はどっちでもいいだけど、善悪の決着つけたがるのが人間てもんで、だから相田みつを信者が世の中にはこんなにいるんだろう。なんだか相田みつをっていつも高みに立った物言いで偉そうだ。一見どうしようもなく謙虚そうにみえて、その実よく考えるといつも俺の方が物がわかってて我慢してて許してやっている風で、それを自嘲ギャグにでもしてくれるなら笑いもできるが、そこに広がるのは「本当の自分探し」の無限地獄なので、とことん追いつめられて「人間だもの」という極論に落ち着くしかない。つらい。つらすぎる。 でもなぜ今さらのように相田みつお? …いや、みつを、か。ていうか、ややこしいなあ。話が変わるけど、「中島らも」さんの「らも」はいったいなんで「らも」なんですか? という質問が、らもさんの名物コーナーだった朝日新聞の「明るい悩み相談室」にあった。その回答は、大学時代、友達に誘われるときにいつも、「中島らもいかへん?」という具合に、単体ではなく、自分を含む複数形で呼ばれていたので、「中島らも」と名乗ることとした…という話だった。関東の方の言葉はどうだかしらないが、関西のイントネーションでは、この「らも」という複数形の表現は、「ら」にアクセントがある…というか、そういえば、ドラマなどでは「ねえねえ、今日の飲み会、ケンジくんらも行こうよ」なんていう台詞を聞いたことがないので、もしかしたら関西特有の言い回しなんだろうか。ということは、「中島らも」さんは、やっぱり関西でしか生まれなかった存在だと言える。という街に繋がる深みのある話が「相田みつを」にはないし、らもさんの話を書いたとたんに晴れやかな気持ちになって気が付いた、相田みつをを話すときに知らずにどんよりと絡みつくネガティブパワー。ある意味すごい。 翻って、なぜ相田みつをかというと、失業を目の前に自分を見つめ直して相田センセイのお言葉を反芻し反省し…というわけはもちろんなく、トイレに入った時に、「便所の神様」相田みつををふと思い出したからだ。昨日、本棚整理で出てきて読んだ、今はなき『噂の真相』の佐高信の連載コラム「タレント文化人 一刀両断!」(2000年6月号)、その第128回のお題が「相田みつを」だった。その冒頭はこんな調子。 『前郵政大臣の野田聖子、歌人の俵万智、俳優の高橋英樹、佐久間良子、藤田まこと、そして牛尾治朗等の経営者が、みんな、この“便所の神様”の信者になっている。まことにクサイ相田を、こう評したのは小田嶋隆だった。トイレの日めくりカレンダーに相田が使われることが多いからである。 (中略) 「変わる外側に眼を向けているかぎり、本当の安らぎはありません。本当の安らぎを得るためには、眼を自分の外側ではなく、内側に向けることです。そして、自分が自分になることです」 相田は麗々しくこう書いているが、ここで勧められている「自分」とは、「外側」に反応しない自分ということだろう。「内側」にしかない半分人間である。 (後略)』 「まことにクサイ相田」という哀臭だたよう佐高信の物言いと、“便所の神様”という小田嶋隆の秀逸なコピーワークもさることながら、相田の「自分が自分になること」を、相田は「外」ではなくて「内」からするものだと言う論理が、今更ながらにショッキングであった。佐高信はそれを「半分人間」だと指摘するが、ワタシは半分もなにもないと思う。自分が自分であるということは、「自分が、自分ではない人間、ではない」というところからしかわからない。ややこしいけど、つまり「外」も「内」もどちらかがあってはじめて存在するもんだから、常にそれらは表裏一体、同時にしか存在しえない。人間様が思うようにどちらかだけなんて都合のいい選択はできないもんだから、悩み苦しむものなのだ。それにしても「自分が自分になる」っていったいなんなんだ。「本当の安らぎ」って…。悩んでいるときに、こういうとてつもなくハードルが高いことを要求されたら、内にこもるしかなくなる気持ちがわかる。 会社にいけば利己心に凝り固まった偉いさんがいて、その下にはその傘の下で安穏とする偉いさん候補がいて、家に帰れば高校生にもなって進路決めずにクスリをキメたりするバカ息子がいて、残業で帰宅するも冷やご飯にホットな罵詈雑言で、どこかのサイトの掲示板みたいに「あんたの方こそ」「そういうあんたこそ」と、とにかく揚げ足を取ることに命がけな鬼嫁がいて、そんな切ない人生ならば、そう、そしてワタシを含め、大多数が多かれ少なかれこんな状況、つまり自分がこうだったら楽ちんなのにという対極にある状況であろうからして、相田センセの「内重視主義」はその時々は楽かもしれない。クスリでいうとマリファナな相田みつをの言葉は心地よく、ハッピーに響くかもしれない。 そして、こんな風に納得する。 ~引用始め~ 憂いがないのではありません 悲しみがないのでもありません 語らないだけなんです 語れないほど深い憂いだからです 語れないほど重い悲しみだからです 人にいくら説明したって 全くわかってもらえないから 語ることをやめて じっとこらえているんです ~引用終わり~ (同コラム内の、佐高信による相田の『善林句集』の引用より) あ~、ふわふわして幸せだなあ。憂い? ファッツザマター? 煙ぱかぱか。気分ふわふわ。…でも、すぐに切れてきて、バッドトリップしてきたぞ。じっとこらえてたけど、はたして誰かが助けにきてくれるんだろうか。ていうか、一生こらえ続けるの?  そうしてゆみこはもうマリファナみつをでは耐えきれず、アメ村の売人からコーク麻原をゲットし、いつしかヘロインで出家し溺れ気が付けば第7サティアンの風呂に沈められていたのでした。でも、いくら説明したってわかってもらえないんです。だからこらえていたんです。でもどうにも我慢できなくなったんです。そんな弱いのは仕方ありません、人間だもの。むー。 「相田みつを」は、その名に「を」という接続語を持ちながら、その行く先は不明だから仕方なく「内」に向かいUターン。まるでバッドトリップ。名は体を表すというが、ワタシはやっぱり「中島らも」といきたい。でも、そういう人は命が短い。やっぱり、長生きするバカを目指すには相田みつをなんだろうか。

コメント (2)

くっ~、ひさしぶりのアオヤマさんの文章・・。
ずっと、ずっと読みたかったですよ。
嬉しいなぁ。
これからまた楽しみに拝見します。

財布のS:

勝手ながら再会できて嬉しいです!
また日々の楽しみが増えました!
どこかでお会いできたらまた一献!

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2006年03月19日 16:24に投稿されたエントリーのページです。

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