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Diciembre 2007 アーカイブ

Diciembre 7, 2007

生きてりゃそれでオッケー

たいへんご無沙汰してしまいました。
折よく結婚10周年を迎える直前に3連休となり、こいつぁ一丁ニーニャに初めての海でも見せるかと陸路350km、車を転がしてバレンシアまで行ってきました。
東京からだとほぼ名古屋に相当するこの町が、マドリードからいちばん近い海なんです。
晴天の下、海辺はそぞろ歩きのひとでたいへんな賑わい。
ジーンズの裾をたくしあげ、ニーニャを抱き上げて波打ち際へ進み、その「大きめのいなり寿司」くらいしかないプヨプヨあんよを海に浸け、た瞬間、まんまと号泣。
「あらあ、海は怖くないのよ」と、してやったりの顔で言い聞かせる私たちに、通りすがりのおばさんが一言:「そら、冷たいんやわ」。
考えれば11月、隣でドイツ人と思しき家族連れが真っ赤な顔で泳いでいたのでうっかりしていましたが、たしかに自分の足を浸してみれば、地中海とて単に冷たい冬の海。
またしても親の身勝手を反省しつつ引き上げてきたのですが、その直後に引いた風邪がグズグズといまも続いているのでした。
相変わらず、しょうもないことばっかりしています。

ほんと、結婚・出産・子育てを経て、私もどんどん変えられているなあと思います。
たとえば、妊娠の可能性がでてきてから授乳中の現在まで丸2年、ほとんど薬というものを飲んでいません。
その間、39度の熱が出たり、ノロウィルスにやられたり、今回のように頭痛・鼻水・咳などはしょっちゅう。
でも薬なしでも、死んでいない。
風邪薬を、予防も含め常用するツレアイと比べても、たいした差はなさそうです。
これで2年間できたのだから、たぶんこれからもこうやっていけそう。
あまり身体の強くない(はずだった)自分に、薬に頼らない生き方ができるなんて、以前は思いもしませんでした。

「生きた子どもという大自然」、素敵なことばですね。
自然、とかじゃなくて、それはもう「大自然」。
なにがほんとうにいいかなんて、人間である私ごときにわかるわけなどない。
人間には大迷惑な地震も、骨盤、じゃなかった、地球がプレートの歪みを直すのに必要なように、親から見たら「なんスか、それ?」も、子どもには必要なのでしょうね。
いま、ニーニャはしきりに家中の埃を拾っては食べているのですが、それも、「21世紀に生きる人間」として必要な免疫を作るため、あえて生活圏の雑菌を取り入れていたりして。
雑菌や風邪を「不純なもの」として排除するんじゃなくて、「そういうのもあるのが世界で、『私』はその一部」と考え、ほなぼちぼち「ご近所づきあい」してみるかと穏やかに構えるというのも、やはり、以前は思ってもみないことでした。
この調子で、「一方的によかれと尽くしてはバーンアウト」しがちだった性向も(そうか、そういうメカニズムだったのか!)、よりまろやかなものになるよう、願っています。


さて、柔和なお顔にお髭がもじゃもじゃ、カルロス先生の今日のことばを聞きますか。

> 可哀想に、子どもたちはしばしば間違った、そして感情的な争いに巻き込まれてしまっているようにみえます。食卓での攻防は、「お腹が空いている/いない」というごく単純な言葉遣いで済ますことができるはずなのに。(p23)

なのに、どこからかやってきた余計なものが、「食べない」ではなく「食べてくれない」へ、「お粥を食べない」ではなく「私の作ったお粥は嫌いみたい」へと、言葉遣いを少し暗い方向へと捻じ曲げてしまう。
カルロス先生はこの「落とし穴」にはまった結果、「単に食べられない」という事実から、つい「この子は私が嫌い」という罪を認定してしまう危険を指摘します。
その母親は次にきっとこう言うでしょう、「ちゃんと食べない子、ママは嫌いよ」。
しかし、この「余計なもの」、いったいどこからやってくるのでしょうね。

世界は自分が見ているようにしか見えない。
なにかとの関係がどうも息苦しいとき、まずは私自身が世界をどう「思い込んで」見てしまっているかを疑わなくちゃいけない、ということを、私はいま(大家さんに私淑しながら子育てをすることで)学んでいます。
たとえば、「子育てはのんびりと」と聞けば「そりゃいい、が、さてそいつはどれくらい『のんびり』なんだい?」と考えてしまう私は、どこかに「完璧な親」というものを想定していたことに、最近気がつきました。
それは、金八ブームのときは生徒会長しながら少しやさぐれ、中学では「まじめだ」「はりきってる」と揶揄されないように装いつつ猛烈に勉強し、高校でワンレンもどき、大学ではロッカーもどきに携帯片手のOLもどき、ITの学生起業で夕刊フジに冷笑的な記事を書かれても大喜び、そうやって「世間」の描く「完璧な・時代の子」イメージを忠実に体現してきた私の、たぶん少し病的なところです。
しかし、ありもしない「世間」相手に相撲をしたところで、残るのは深い徒労感のみ。
ああそっか、それで「報われない」とバーンアウトした結果が、このスペインくんだり昼寝ぐーたら生活なんですね。

んなこんなでいま、意識的にいろいろな情報が耳に入らないようにして、「子どもの生命力を信じてみようぜ! 生きてりゃそれでオッケー、カモン・ばぶれもん・縄文風」でのんびりやっているはずだったのに、それでもやはり「過干渉ではなく放任でもない」、親として「完璧な」地点をイメージしていたみたい。
しかしそれを考えてしまうということは、返す刀で、子どもにもまたどこかで「完璧さ」を求めてしまうことで。
ああ、危ない危ない。

忘れちゃいけない、子どもは「大自然」。
ほんとうにその生命力に敬意を払うならば、親の育て方で子どもがどーこーなるなんて思うのは失礼千万ですよね。
そしてそれはまた、私自身のあれやこれの責任を自分の親や環境に求めないことと、パラレルでもありますね。
私がまず私自身の生命の力を心から信じて敬意を払うこと。
それもいま、子育てをしながら学びたいことのひとつのように思えます。
これができれば、子どもが多少離乳食を食べなくてもなんでも、「私が否定された、ヨヨヨ」などと余計なことを考えずにカラカラ笑ってられそう。
そのときはきっと、お米研ぎも好きになるような気がします。

まだまだ、狭いお釜の中をぐるぐる回ってはいつまでも白濁した水を出し続けるお米を暗い台所の隅でかきまぜていると「うら! お前もしゃきっとたまには外へ飛び出さんかい!」などと思ってしまう未熟者ですが(もちろん、実際に飛び出したお米は拾って戻すのですが)、それでも、ニーニャとの日々は、文句なしにどんどん楽しくなっています。
振り返れば、こんな「しんどい」日々を送っていたんだなあ、と、うろ覚えにログを探し当てて読んでみて、我ながら呆れちゃいました。
(以下、本家ブログより)

> 2007年02月03日(註:ニーニャ生後2ヶ月になる前日)
>『早く動物になりたーい』
> ニーニャと向かい合っていて。
> 「あ、いますごく『慈愛に満ちた母』っぽい」とか、逆に「これって『<慈愛に満ちた母>像を否定するあまり子に対してわりとクールな距離を置いてる母』ってかんじになってる?」とか、なんだかんだそういうことをいちいち考えてしまっている、
> ようだ。
> ことばを使えるのは人間のわりといいところだけど、
> それに振り回されすぎかもしれん。
> せっかくことばを使わないニーニャが目の前にいて、全存在を投げ出してくれていて、> 私もことばをかけなくても乳をかける毎日を送っている(なんせ噴き出すからね)。
> ああ、早くもっと動物的に、ニーニャと向かい合いたい。
> なんというか、屈託なくというか、けれんみなくというか、
> ……つまりこうやってことばを探して感情をそれに置き換えずに、ということなんだけど。

いまはもう、人目もはばからずにメロメロチュウチュウです。
やあ、あと半月で、1歳だ!

居候日記その3

カナさん、みなさん、こんにちは!
私のほうもすっかりとご無沙汰しているうちに、なんとニーニャちゃんは1歳のお誕生を迎えましたね。おめでとうございます!!
こどもを産んでから、自分のこどももよそのこどもも関係なく、その成長を心から楽しみ、喜ぶようになりました。
今までは想像力が足りなかったのかなぁ、なんとなく「こども?自分とは関係ないや。(というより、関わり合いがなさすぎるよね)」と思っていた節がありましたが、いまやどの子をみても「自分とは関係ない、とはとても思えない」。
どうも赤ちゃんを授かって、「(余計な)お節介」度がアップしたというか、よく言えば人間力をアップさせることが出来たように思います。

さて、「この『余計なもの』、いったいどこからやってくるのでしょうね」というカナさんの疑問について、私も少し考えてみました。
離乳食を「食べない」が「食べてくれない」と言葉を変え、最終的には子どもから拒否されたように感じて「この子は私が嫌い」と受け取ってしまうという落とし穴、実は臨床において看護師がよくはまってしまう落とし穴でもあります。
例えば患者さんに、怒鳴られたり、誹謗中傷されたり、あるいは暴力をふるわれたとき。
明確な理由があるときは別ですが、たいていの場合は「たまたまそのときムシの居所の悪かった人のそばに、たまたま居合わせてしまった」だけにすぎない。
つまり天災のようなもので、「運が悪かったんだよね」と思うのがまっとう。
「私のどこがいけなかったんだろう」とか「私のことが気に入らなかったんだろうか」などと考えて、事実を「個人的に受け取らない」ことがベストです。
ということが頭では分かっていても、いざ自分がその立場になると、個人的に受け取ってしまって、うじうじするもの・・・
何ででしょうね、個人的に受け取っていいことはなにもない(ように見える)のに。
自分で自分を責め続けて、いいことはなにもありませんよね。

しかしよく考えてみると根の深い問題なのですが、事実を個人的に受け取ってしまうことの背景には、おそらく「私は、彼(彼女)の、special oneである(ありたい)」という思い込み(願望)があるのではないでしょうか。
なぜならもし事実を個人的に受け止めず、「誰がその場に立ち会っていても、同じ結果だったよね。」と思ってしまったら、「彼(彼女)にとって、私はspecial oneではなく、その他大勢」であることを認めてしまうことになる。
それを認めたくないがために、「いや、私だったから、こうなったんだ」と個人的に受けとめてしまう、そういう「からくり」があるかもしれません。

でもそれが全面的に悪いことだとは、私は思いません。
もちろんそれが行き過ぎてしまうと病的ですし、看護に関して言えばチームで関わっている以上、「私が」とばかり言っているわけにいきません。
またそれは「バーンアウト」にゆくゆくつながっていくことになってしまいます。
しかしながら要は程度問題、ということになるとは思いますが、「それ」(=special oneである、ありたいという思いこみや願望)がなければ、とたんにケアや育児が困難になるのではないでしょうか。
だって、「誰が関わっても一緒だよね」という人にお世話されたいと思いますか?
あるいは「別に私じゃなくてもいいんだよね」と思いながら、他者に手をさしのべられますか?
看護や介護の援助関係においても、親子の関係においても、匿名の関係などあり得ないのだと思います。

ただ、どうしたって個人的に受け取ってしまうことから逃れられなくとも、そこからどうまた関係を立ち上げていくか、というところにその人の知性が深く問われるように思います。
自分を責め続けて関係を閉じるのか。
新しい物語を作って、未来へと関係をつなげていくのか。
「離乳食を食べてくれない。私のことが嫌いなのだろうか。」という思いがふと頭をよぎっても、「いいやそんなわけはあるまい。きっとお腹がすいていなかったんだろう。今度はおっぱいの前に離乳食をあげてみるか。」と思い直すことができれば、それでいい。
そのように試行錯誤できるのは、人間の持つ知性のなせる技なのだというふうに私は感じています。

それから。
患者さんに怒鳴られるにしても、赤ちゃんが離乳食を食べないにしても、形としては「拒否」なんですね。
この「拒否」というもの、人間には相当こたえるものなんだと思うのです。
「個人的に受け取るな」という理性が働く前に、ダイレクトに体へくいこんでくる、そういう「傷つく」体験なのではないでしょうか。
ですから私は、「そんなことくらいで傷つかない自分をつくる」という方向へ努力するよりは、「そういうものだ。(傷つくものなんだ)」と思うようにしています。
なぜなら傷ついた自分を、「それは自分がなってないからだ」といってまた責めてしまう、そんな自罰の輪をぐるぐるとまわりたくないからです。
できれば、「いや~不覚にも傷ついちゃったな。まぁ仕方ない、そういうものだ。」と思ってやり過ごしたい。
そんなふうに今は考えています。

だなんて、頭の中でごちゃごちゃ考えすぎちゃいますけれども。
「しんどい」日々を通り過ぎ、今や人目もはばからずにメロメロチュウチュウですとのカナさんの言葉、同感です。
目の前のいのちの愛おしさが、なによりもまさる。
それは本当に幸せなことだなぁと思います。
でも、時にはどうしようもなく自分の感情が巻き込まれ、イライラしたり、悲しくなったり、嫌になったり、そういうネガティブな感情も抱くものです。
(看護は感情労働だと言われていますが、育児も同じ側面があると思います。)
そんなときに現象やら自分の感情を相対化して言語化できるというのは、ひとつの能力だというふうに私は思います。
ときには言葉もなくメロメロになり、そしてときには目の前でおこっていることを言葉にして自分を支えたり、他者と共有する。
そんなことをよいバランスでできたらいいなぁと、心から思うのです。


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