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Noviembre 2007 アーカイブ

Noviembre 4, 2007

居候日記その2

大家さん、はじめまして。
大家さんに断りなく突然転がりこんできてしまったにも関わらず、快く迎え入れて頂きましてありがとうございました。
またカナさんと掛布顔姉弟とともに法話を聞きに持仏堂を訪ねていきたいと思いますので、よろしくお願いします~。

さてカナさん、確率や科学的データの話がうまく伝わったようで嬉しく思っています。
「雨が降ることに賭けて傘を持っていくか、きっと降らないさと決めて持っていかないかの、どちらかだけ。」
まさにその通りなんだと思います。
あくまでも確率や科学的データというものは、これからの自分の行動を決定するための判断材料でしかない、ということですね。

とはいえ専門家から「こうしなさい」と言われると、それが一つの目安なり判断材料のひとつにすぎないと分かっていても、「そうしなければいけないのではないか」という不安がむくむくとわいてくるのは当然だと思います。
ブログのほうでも読ませて頂きましたが、離乳を始めていないことに関して、スペインの医師からのさんざんな言われようを知るにつけ、心が痛みました。
医療(保健)機関と上手につきあっていく、というのはどこの国においても難しい課題であるように思います。
日本は今、どちらかというと「こうしなさい」というパターナリズムは消えつつある印象で、「これこれこういう可能性があり、こんな選択肢があります。あんな選択肢があります。さぁあなたはどれを選択しますか?」というふうに、可能性と選択肢を提示したうえで「自己責任」による決定を押しつけ、医療者が責任を引き受けることを回避する風潮にあるように思います。
ですから保健所へ行っても、「指導」されることもなく、予防接種を受けさせていないことに関しても、「ご両親のお考えによるんですよね」の一言ですませられました。
「とにかく予防接種を受けろ」と言われるのもかないませんが、「あなたたちが自分で選んだことなんだから、どうなっても知りませんよ」と言われているような冷たさを感じたのも事実です。
「赤ちゃんの健やかな成長を願って(=愛情をもって)、専門家として自分の意見を言う」ことが、今の医療(保健)現場では難しいと分かっていても、「世知辛い世の中だ」と思わずにいられません。
話が脱線しましたが。

ところでカナさん、満を持して!?ニーニャちゃんの離乳食が始まりましたね。
お粥をちっとも食べないそうですが、はい、こ初々さんもお粥はほとんど食べませんでした。
最近はお味噌汁の中に普通に炊いた米粒を混ぜて食べています。
(あるいは、テーブルの上に米粒をばらまいておくと、手づかみで食べる)
まぁ私もそんなにお粥って好きじゃないしなぁ。
こ初々さんやニーニャちゃんに好き嫌いがあってもおかしくないですよね。

それにしてもちゃんとやろうと思えば、離乳食作りというのは手間のかかるものだと思います。
幸い私が師と仰いでいる助産師さんの教えが、「手間かけんでええよ」というものなので、今まで「いかに手間を省くか」しか考えてきませんでしたが。
そう、せっかく手間ひまかけて作ったものをこ初々さんが食べないと、「せっかく作ったのに!」と思ってしまいそうですが、自分たちが食べるぶんにちょっと手を加えて「はい」と口に運ぶだけならば、たとえこ初々さんが食べなくても「えー美味しいのにもったいないなぁ」と思うくらいですみます。
「離乳食になるべく手間ひまかけない」というのは、生来のずぼらな性格によるものでありますが、同時に私の場合は自分の精神衛生の都合によるところも大きいです。
だいたい離乳食に限らず、生きた子どもという大自然を相手にして期待通りにいくことは稀なので、出来る限り自分の期待を増大させないような方向に自分を持っていくのが無難なように感じています。
そのためには「本来こうあるべき」というものを持たず、「子のため(だけ)に」という労力を省く。
少なくとも私の場合は、そのほうがハッピーでいられるようです。
また前回お話ししましたが、離乳食の開始というものが栄養学的に大した根拠のあるものではないということから考えると、離乳食の目的は「栄養補給」ではないのだろうと思うのです。
では一体その目的はどこにあるのか?
私は「食べるという営みに参加する準備」ではないかと考えています。
他者と食事を共にするために、赤ちゃんがこころもからだも準備を始める。
そのお手伝いが離乳食というものの本来の目的であるならば、「よーし君にも食べるということのシアワセをおすそわけしてあげよう。はい、あーん。」というスタンスで丁度いいのではなかろうかと、勝手に思っているわけであります。

さてさて、「看護のお仕事って、そのひとのためにえらく時間をかけてお粥を作って裏ごししても、でもちっとも食べないようなことの連続」というカナさんのご指摘がありましたが、私の短い臨床経験の中でさえ、そんなにがーい経験がゴロゴロとしております。
その人にとってのお粥の必要性を信じ、あの手この手を使って懐柔作戦を展開するわけですが、美味しそうなお粥の香りに誘われたり、お粥の必要性を理解してもらえることは稀で、まぁよくて「この人がこんだけいうんだから、ちょっと食べてみてもいいかな」と思ってもらえれば儲けもの、何をしても「食べないものは、食べない」という場合が多々あります。
つまり私たちは、その人の「食べる気」を無理矢理変えることは出来ませんが、根気づよく時間をかけてその人の「食べる気」に働きかけ続けることが求められるわけです。
その働きかけが功を奏すことがなくても、諦めずに待つことができるためには、どこかで「この人は、最悪の選択肢を選択する権利があるのだ」ということを頭に入れていないと厳しい。
お粥がどれだけその人にとって最高の選択肢で、健康を維持し、死期を遅らせるものであるとしても、その人はそれを選ばない権利がある、あるいは選ばないでいいという自由がある。
それは、私がーもっと言ってしまえば、人間がーどうこうできる領域のことではない。
そう信じていないと、働きかけが功を奏さなかった場合に、「何をしても無駄である」とこちらが一方的に関係を途絶させてしまうことになるんですね。(いわゆるバーンアウト)
しかし「最悪の選択肢を選択する権利があるのだ」と思っていれば、その人が最悪の選択肢を選択した場合、「まぁそれもやむを得ない。その中でまた最善を見つけよう。」というふうに、次の新しい関係性につながっていく。
それは赤ちゃんにしたって同じで、あの手この手を使ってもこ初々さんがお粥を食べない場合、「あらそうですか。ではまぁ、第二作戦にいきますか。」と思うようにしています。

えー、ところで「家庭内に資本主義と民主主義を持ち込まない」と家庭内で某超大国を全否定しているのはオットでして・・・
私はどちらかというと、経済的な生産性という尺度にずいぶんと縛られてしまってきたと思うのです。
それこそ、ある年齢層の、高等教育を受けている女性にかけられた、何かの呪いだと思うのですが・・・
しかしながらオットが「外で働くのも、家で働くのも、一緒」と言って、どんな労働に対しても「ありがとう」と声に出して言うのを忘れない、その一貫した態度によって私にかけられた呪いは少しずつとけていったのだと思います。
たぶん、この呪いをとくのは、一人じゃ出来なかったんだなぁ。
いや、今でも油断していると呪いに絡めとられそうになるのですよ。
でも少し呪いがとけて気づいたことは、経済的な生産性に対抗するために必要なものは、「自分ひとりという単位で物事を考えないこと。家族(あるいは組織)が円滑に営まれるために、今自分は何をすべきかを考え、相手に配慮し、相手の配慮に感謝しながら立ち働くこと。」だったんですね。
ですから呪いの影が忍び寄ってきたときには、「わたしが、自分が」というのをいったんおいておいて、「ありがとう、ありがたい」とつぶやくことにしています。
(そう思えない時には、言霊の力をかりるわけです)
そして民主主義に関しては、オットいわく「こども0票、とうちゃん1票、かあちゃん2票」だそうです。
これって体のいい絶対君主制?

しかし話は変わって余談になりますが、アイロンがけは私も苦手ですけれども(ずぼら&不器用なので、端っこがちゃんとかけられなかったりすると、きぃぃぃ!となったりする)、お米とぎってどのあたりに「ドンヨリ」なポイントがあるのでしょうか?
何回すすいでも、水が透明にならん!とかかしら。

それにしてもまぁ、結婚して妊娠して出産して育児をすると、ずいぶんと色んなことが自分の中で変化していくものですね。
数年前の自分に会うのもハズカシいくらいです。

では!

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