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Febrero 2007 アーカイブ

Febrero 12, 2007

子連れセニョーラ喜捨の旅


■アルトゥーロ・ペレス・レベルテはこう書いた:
「物乞いたちから悪態をつかれたくなければ、丁寧に『申し訳ありません。持ち合わせがございません』と謝る必要さえあったのだ。」(アラトリステ、邦訳イン・ロック社)

えー、昨年4月に妊娠がわかり、同時に切迫流産の恐れありとして安静を命じられたもので、三十路過ぎにして意気揚々と通っていたコンプルテンセ大学スペイン学コースはドロップアウトとなりました。「一年間で学ぶことを、」という約束が果たせずごめんなさい。
そして12月上旬、立ち会ったツレアイ曰く「キリンの出産を思い出した」という分娩室所要時間10分弱の大爆笑ハッピー安産にて、いまどきあまり聞かないビッグサイズのニーニャ(女児)を出産。
現在生後2ヶ月、どこへ行っても「あらま、おでぶちゃん!」と肥満大国スペインの面々をも驚かせるくらい順調に成長中なので、ブログを再開させていただきたく蹌踉(っていうのは、睡眠不足でフーラフラ)。

さて。
『アラトリステ』という、スペインの人気小説がある。「大」人気小説かな。
なんせシリーズで通算400万冊以上売れているらしく、ほとんど意味はないとは思いつつも「スペイン人の10人に1人は買っている」と考えるとけっこうすごい。
だって、地下鉄でも10人に1人が本を読んでいるかどうか、というこの国でだよ。
小説の舞台は17世紀、いわゆる黄金時代のスペイン。
主役は退役軍人にしてときには食うために必殺仕掛人もしちゃう剣の達人アラトリステ。
物語は、詩人ケベドや画家ベラスケス、スペイン宮廷にイングランド王室など絢爛豪華な脇役を絡ませつつ、けれんみたっぷりに進行する。
江戸ならぬマドリード情緒を存分に愉しめるような細かい仕掛けも随所にあり、言うならば池波正太郎的大娯楽小説といったところ。
で、上記の引用は第1巻より。主人公が芝居見物に出かけた場面で、劇場入口にたむろする物乞いについての描写。

スペインの物乞いは偉そうだ。
という話はいまもよく聞くし、実際にそう感じたこともある。
おそらく現代に生きる作者にも、当時の資料の有無は別として、この一般常識ないし通念が、上の文章を書かせた背景にあるはずだ。
つまりスペイン人は、スペインの物乞いが偉そうだという事実を認めている。
……事実?
いやちょっと待て。考えてみたら物乞いは、わりと「お願えしますだ」と哀れんでみせることもあるぞ。
そうだそうだ、私がより強い違和感を抱いたのは、いわゆる物乞いではなくもっとふつうのひとの方だ。
それについてスペイン人が話しているのを聞いたことはないけれど、つまり、ふつうのスペイン人である彼らがなにか施しだの親切だのを受ける立場になったときに、いつもどうも偉そうだということなのだ。

たとえば、奢り奢られる場面がある。
土地柄の違いはあるが、とくに大阪的田舎気質が強く残るアンダルシアやマドリードでは、バルを中心とする気軽な飲み食いの勘定は、会食者の誰かひとりがもつことが少なくない。
つまり、ひとりが奢り、残りは全員奢られる立場になる。
というのも、彼らにとって割り勘などはケチ臭くて我慢ならぬ行為らしいのだ。
かつて「3人で1000ペセタの支払いに、カタルーニャ人は誰が334円を出すかで揉め、ドイツ人は死ぬまで333.33……と数え続ける」と、経済的に豊かな先進地域への揶揄というかやっかみを多分に交えた喩え話を耳にしたこともあった。
ちなみにそんなアンダルシアは、「宵越しの金は持たねえ、なんせそんな金ねーからね!」と啖呵を切る、スペインきっての低所得地域。マドリードへの出稼ぎも多い。
あれだ、貧乏人ほど見栄を張る、ってやつだね。ドキッ。

で、同じような境遇の友人同士なら「前回はお前が奢ったから、今度は俺ね」って具合に順繰りに奢り、奢られる。
これは奢られる側としても、気が楽。
だが、誰かひとりが年長者だったり、明らかに裕福だったりすると、毎回そのひとに奢られることになる。
なんせ、アンダルシアは父権主義的な雰囲気が根強く残るところでもあるのよね。
で、こうやって奢られ(続け)る側になると、私なんかはけっこうな精神的負担を感じることになる。
そこでつい小心者でお調子者の本領を発揮して、「いやもう、いつも本当にありがとうございます。お陰様でホラご覧の通り、スペインのセニョーラたちもまっつぁおのこの肉置きの良さでごぜえますよ、えっへっへ」と、追従だのおべんちゃらだのを揉み手もので言いながら頭を下げたりしていまう。
それが、しかしまったくウケない。そいつはもう、てんでさっぱり。
だいたいうるさそうに遮られるか、ときにはストレートに「しつこいよ!」だの、あるいは婉曲的に「日本人は本当に礼儀正しいね、『ありがとう』ってそう何回も繰り返してさ」だのと言われる。
私が日本的に頭の中で想像している「どういたしまして」という微笑の返礼など、一度もない。
ではスペイン人はどうしているかというと、これが、すごく偉そうなのだ。
百万年同じひとに奢られ続けても、それがけっこうな額でも、こんなこと当然!って顔してすぐに次の話題にいってしまう。

スペインでは、弱者が施されるのは、当然のことらしい。
おかげで、言語が不自由でありかつ女でさらに最近では赤子を連れているという念入りな社会的弱者である私は、日々、様々な形の「施し」を受け取っている。
というのも、カトリックが9割以上を占めるこの国では、喜捨はすなわち天国に富を積むことになるから……というもっともらしい説明を何度も耳にしたが、ほんとかね?
思うに、スペイン人は、ただ単に極度の見栄っ張りなだけなんじゃないんだろうか。
だから「奢った」という行為だけではなく、「その奢った行為をもって、善いことをしたと考えるほど、ちっぽけじゃない俺のどーんと広い心」まで承認されることを欲するのではないだろうか。
そういえば以前、危難に際して手助けしてくれたご近所さんにお礼のワインを持って行ったら、「俺はお礼が欲しくて親切にしたわけじゃない、バカにするな!」と怒られたこともあった。
数十年前、たしかフランコ時代末期に田舎から出稼ぎにきて、いまもパッとしない地区のパッとしないアパートに住む、いつも少しきょときょとした彼の顔が、私に対して怒ったその瞬間、ひどく輝いて見えたのを覚えている。

ちなみに上記引用文には、次の文章が続いている:
「このように、物乞いの仕方にまで、国柄が出るものなのである。ザクセン人は群れをなして金をねだり、フランス人は祈りながら卑屈に施しを求め、ポルトガル人は嘆きながら、イタリア人は自分の不運をくどくどと訴え、そしてスペイン人は横柄な態度で相手を脅し、減らず口を叩きながら、無礼かつ短気に金品をねだるのだ。」

これはスペイン人によるスペイン語の文章で、オチがスペイン人についてであることからも、全体としてスペイン人読者を対象にスペイン人とはなんぞやということを説明するのが目的であると考えられる。
もちろん結論に至る前の「○○人は」という部分は、「そうではない」スペイン人を語るために引っ張り出されてきた、いわば鏡だ。
とすると、スペイン人の自己イメージは、「群れをなさず一匹狼で、なにかを乞うために自らを貶めることなく、また他人に向かって哀れみを請うなどという情けないことをしない」といったあたりになるだろう。
そして最後の、「横柄な態度で相手を脅し、減らず口を叩きながら、無礼かつ短気に金品をねだる」スペイン人であることを許すのがスペイン人、とういわけだ。
なぜ許す?
そりゃ決まってるぜ。ほら、なんせスペイン人は度量が広くて豪気だからさあ。シー、セニョール。

思うにこの小説の大ヒットの理由は、このあたりにあるのではないだろうか。
黄金世紀が舞台とはいえ、ここに描かれているのはおそらく、現代スペイン人がこうありたいと望むスペイン人像だ。
それは、寡黙で、豪気で、いちど交わした約束はなにがあっても守り、大切な友のためにはすすんで命を張る、マッチョな男。
ということは実際のスペイン人は、驚くほどおしゃべりですごくナイーヴで約束を破ることなど屁とも思わず自分の利益のためならすすんで友を売るマザコンで泣き虫な男……ってのは少し言い過ぎかもしれないが、でもデフォルメはしてても彼岸ってわけじゃないぞ。
そしてそれは、登場人物がごく人間的な悩みを抱えつつ最後にはしがらみや家族を含む私個人の保身や損得計算を離れて公に属する理想のために清々と殉ずるというような代表的パターンをもつ司馬遼太郎の作品群が日本で圧倒的な国民的人気を得ているのと、パラレルに考えられるかもしれない。
つまり実際の日本人は……。ま、そいつはいわぬがなんとやらってやつね。

ちなみに、この『アラトリステ』邦訳版は現在漸次刊行中だが、翻訳を手掛けている佐々木いずみさんは、地中海に浮かぶマジョルカ島で素敵なダンナさんと娘さんと犬3匹と鶏5羽ともに、裏庭にオレンジとレモンの樹と井戸のある家で暮らす、大切なお友だち。
本を見かけたら、よろしければ手にとってみてくださいね。

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