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Julio 2006 アーカイブ

Julio 23, 2006

それはぼくのせいじゃないよ


 最近、英語をすっかり忘れてしまった。
アメリカ人である義姉のアメリカ人な両親からは、この数年、「カナは会うたびに英語が下手になるね!」と、驚嘆されっぱなし。
たまに英語でレターを書けば、「メキシコ人の英語みたい」と感動される。
むろん、スペイン語の野郎のせいだ。

 思い出してみよう。英語の一人称は、"I"である。(洋傘ぢゃないよ)
じーさんでもお嬢ちゃんでも大統領でも義姉でも、「アイは、」から始まる。
でもって二人称は、"you"だ。(元フェアチャイルドじゃないよ)
誰だって「ユーを、」と名指される。
戦場で銃を向け合うときも、ベッドで愛をささやくときも、宇宙で人間以外と出くわしちゃったときも、「アイは、ユーを、」と言うのだろう。
現実の世界のどこにも足場を作らずに「アイ」は独りゴゴゴゴゴと立ち上がり、そうやって屹立する「アイ」に名指され、相手(複数=世界の全部を含む)が「ユー」として対峙させられる。
片岡義男『日本語の外へ』を読んで、つくづく思った。
"I love you."、そういう世界観の中に、私はいない。

 愛してる。
という言葉すら、どうも実感が湧かない。使ったことあるかな? あぁ、ごく限定された(大人の)場面で、(大人の)挨拶のように、くらいだわね。きゃっ。
やっぱり「好きです」でしょう。いや、「大好き」だな。
初恋、ラヴレター、チェッカーズ、桂花ラーメンの太肉麺、内側から腹をボコボコ蹴りはじめた胎児、毎晩リンゴを剥いてくれるツレアイ、平和な時間。「大好き」。
こういうとき、「私はあなた(または、これ)を、大好きです」とは、言いもしないし、考えもしない。
「好きです」と人称も目的語も支配しない動詞を一発、どころか、「大好き」と名詞を一発お見舞いして、終わり。
それがボクちゃんの日本語的思考。


■ホセ(仮名)は、こう云った:
"Me gustas."

 スペインに来て間もないころ。いつも親切だったホセが、ある日、私にこう言った。
 スペイン語では、基本的にいちいち主語を表さない。ただし、動詞の活用が人称に対応するので、「主語が何人称(単・複)なのか」までは、自ずとわかる。
とはいえ、たとえば同じ三人称単数のうち、「彼/彼女/あなた/それ」のどれが(隠れ)主語なのかまでは、わからない。
これが、スペイン語のひとつの特徴だ。(だから英語でもうっかり主語を省略し、「メキシコ人みたい」と言われることになる)

 一方で目的語、つまり働きかける相手方の表示は、かなりしつこく要求する。他動詞に限らず、自動詞の場合でも。
スペイン語は本来、語順がわりとフレキシブルで、感覚的に日本語にけっこう近い。
だのに目的語の場所については、(前置詞をとらないときは)必ず動詞の前と相場が決まっている。(「それあげるの、パコに?」は、「彼にそれあげるの、パコに?」でなくてはならない)
英語における主語へのこだわりと同じくらいの強さで、スペイン語における目的語へのこだわりを、日本語人のアタクチは、いつもけっこうな違和感とともに感じる。これがスペイン語の大きな特徴、その2。

 で、ホセの言った"Me gustas."とは、なにごとか。
gustarは自動詞で、おおよその意味は「好む」。gustasはこの、二人称単数に対応する活用。この文の「隠れ主語」は、英語におけるyouだ。
また、動詞の前に置かれたmeは間接目的語で、一人称単数。英語のmeね。
以上を総合すると、"(You) like me."に、なりそうだ。
が、ならない。
Me gustas.の実際の意味はあくまでも"I like you."、直訳風の日本語にすれば「私はあなたを好きです」なんである。
(ということを、私はわからなかった。後日ツレアイに、「どうもホセはお前に気がある。気づかないのかバカ」と指摘されてようやく、わかったのでした)

 しかしスペイン語よ。なんでまた、主客転倒しちゃうのか。
このほかにも、同じ構文をとる文章に、たとえば「痛い」がある。「頭が痛い」は、「頭が私を痛がらせる」と表現する。
「都合の良し悪し」を表すconvenir(英語のコンビニエンスと同源)も、スペイン語では、「この仕事はお前を向かせてないぜ」という言い回しになる。
日常的に頻出する「思う」だって、日本語的に「あんた、どう思う?」と訊こうとすれば、「あんたを、どう思わさせてるの?」になる始末だ。

 その根底に共通するのは、♪俺の、俺の、俺のせいじゃねぇ~! という叫び。
 曰く、
・この頭痛に関して、私は、私の頭の被害者である。
・僕がこの仕事に向いてないのは、僕のせいじゃなくて仕事の側の都合なんです。
・なんとなくそんな気がするんだけど、基本的にはそう思わされてるっていうかんじだわね。
 そして、
・俺がお前を好きなのは、お前が俺を取り込んだからだ。
 ……スペイン語版、「甘えの構造」?


■マリア・エレナはこう云った:
「スペイン語では、受動態はあまり用いません」

 頭痛の場合を、英語も含めて比較してみよう。
(英語)I have a headache. 直訳:「私は頭痛を持っている」
 :主語「私」は、目的語「頭痛」を、持っている。「私」は頭痛に、主体的に関わる。
(スペイン語)Me duele la cabeza. 直訳:「頭が私を痛がらせる」
 :主語「頭」が、目的語「私」を、痛がらせる。「私」は、頭の被害者。
(日本語)「頭が痛い」
 :主語「頭」が、形容詞「痛い」。それに関する「私」の態度は、不明。

 あっ、日本語には動詞がない! そうか、日本語では形容詞が、単独で述語になることができるのだった。
形容詞を補語とする場合、英語もスペイン語も(たしか)SVC構文となり、be動詞のようなものが必要となる。
でも日本語では、動詞なんて要らない。形容詞でいい。頭が、痛い。花が、きれい。
それどころか実際のところ、be動詞的な「です」抜きの名詞一発でもいい。私は、幸せ。今夜は、最高。春は、あけぼの。

 と、ここまで書いて気がついた。
これまでスペイン人に日本語を教えるとき、「が」と「は」の違いの説明に、苦労していた。
・「が」の場合、文のポイントは「が」の前になる。例:「私が、犯人です」(大勢の容疑者の中で、挙手して告白するかんじ)
・「は」の場合、文のポイントは「は」の後ろにくる。例:「私は、犯人です」(まるで自己紹介のように。「犯人」は「長崎出身」や「末っ子」と同価値)
そうか。だから実際に話すとき、主語にポイントがくる「が」の文と違い、述語だか補語だかにポイントがくる「は」の文では、わりと容易に主語を省略しがちなのだな。
「春はあけぼの」だって、いま発語者と聞き手がともに桜咲き乱れる庭園かなんかにいるなら、「あけぼの、だよねー!」で、充分なのだ。

 同じことが、愛の告白の場面でもいえる。
主語も目的語も動詞もない「大好き!」だけで、ふつう、発語者の意味するところは、聞き手に間違いなく理解される。
これが英語なら、(主語として世界で唯一名指しされたかけがえない)俺が(目的語として世界で唯一名指しされたかけがえない)お前を愛する"I love you."。
スペイン語なら、(隠れ主語の)お前が(実は主語より大事でかけがえない目的語の)俺をトリコにしやがった"Me gustas."。
そして日本語では、(省略できるくらい、述語/補語ほど大事ではない「私は」)(省略できるくらい、述語/補語ほど大事でない「あなたを」)、でもこの状態ばかりは間違いなく「大好き!」。


 最近読んだ本に書いてあったのだけど、丸山真男というひとは、古事記に表される日本の原始的世界観を、「勢いよく、つぎつぎに成りゆく」と説明しているらしい。
感覚としてわりあいすぐに納得しちゃいそうなのだけど、日本語というのはどうもそれプラス、「(自分に責任も関係もないところで)勢いよく、つぎつぎに成ってっちゃった結果としての現状」が重視される世界観でもあるのでは、と、いま思いついた。

 そういえば、この「(「病気」や「ハッピー」など、ある状態)になる」とか、(まさに)「そういえば」や「ふと思いつく」こそ、どうにもスペイン語で表現しづらくて困る文だ。
むろん、「(なんらかの行為や原因によって)~になった」とか、「なにごとかが、いま私の頭にある考えを生起せしめた」とは訳せるのだけど、そうなるともう日本語ではない。

 一方、日本語にはうまく訳出できないのだけど、「あぁ、私っていま、すごくスペイン語っぽいスペイン語を喋った!」と思うのは、再帰代名詞の"se"を非人称文の受身(日本語の文法書によると「無人称能動文」)として使い、かつ、自分や相手を目的語として突っ込めたときだ。
「試験に落ちた」を、「(誰だか知らないけど)私を試験に落っことしやがった」。
「植木鉢が落ちてきた」を、「(誰だか知らないけど)私に水をぶちまけやがった」。
「忘れてた!」を、「(なんだか知らないけど)私に忘れさせやがった」。
そう言えたとき、言葉だけじゃなくて思考もスペイン語だったぜ、という達成感がある。

 しかし言語学教授のマリア・エレナは、「スペイン語はあまり受動態を使わない」と言った。
たしかに英語的に"You are loved by me."という表現はあまり聞かない。でもそのかわり、こういう「能動文だけど実は受動態」文型は、実は、ものすごく使われているのだ。
ひょっとしたらスペイン人自身は、「スペイン人は受動態なんて女々しい文型は、ちっとも使わないのさぁ!」と、思っているのかもしれないけれど。くわばらくわばら。

 ちなみに、以上の「スペイン語」とは、あくまで現在標準スペイン語の地位にある「カステジャーノ」のことであり、これは、イスラムの民に追われて逃げた先のスペイン内陸北部の山中から「いんや、キリスト教徒による神の栄光ある国を!」と誕生した、狂信的な理念先行型カトリック国家カスティージャ王国で培われてきた言語です。
「イタリア語は歌を歌うための、フランス語は愛をささやくための、そしてスペイン語は神と語るための言葉」の理由のひとつも、この他力本願的な傾向にあったりして。


 そしてあたちは。
 「私」と「あなた」を世界中から選び出して対峙させる英語の世界観でも、究極には責任者である世界による作用の結果として「私」が被害者的に関わらされるスペイン語の世界観でもなく、私とは無関係に世界はあって、そしていま自分がいる場で同じものを見ているお隣さんとだけ「アレがアレだから、アレよね。ウフッ」と謎かけのようなメッセージを交わす日本語の世界観に、いる。
日本語は、内輪話をするための言葉?

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