お疲れ気味なのでビデオを見て休日を過ごす。
本当はこういう時こそ体を動かさないといけないのだがまあそこはそれ、ごくごく。
百間先生のおっしゃるとおり、冬のビールはうまいものですから。
ジョージ・A・ロメロの「ゾンビ」のリメイク「ドーン・オブ・ザ・デッド」。
「ゾンビ」が歴史的名作であるだけにあれをどう現代的に料理するのか興味があったのだが。
寝起きそうそう隣の娘と夫に襲われたヒロインは、車に乗り込んだものの事態をつかめず呆然と住宅地の中を徐行する。
早朝、同じような家と広い芝生が整然と並ぶ無機的でアメリカっぽい住宅地を、住人(とゾンビ)が必死で
走り回るのがフロントガラス越しの「引き」の画面で映る。
かろうじてリアリティを感じさせたのはこの場面だけ。
全編にわたって迫力や緊張感がなく、かといってスプラッターのグロっぷりがものすごいというわけでもな
く、ニヤリとさせる本歌取りがあるわけでもない。
ゾンビ・ベイビーなどのご趣向もハナっからみえみえの上にしょぼいし、変に登場人物のキャラを立たせよ
うみたいな色気があるので展開がもたれて仕方がない。ゾンビ映画に人生だの恋だのの描写はいらんのだ。
あまりのユルさに一瞬「物語史上ゾンビはもう終わったキャラなのだろうか」と思ったが、ロメロの「ゾン
ビ」はきっと今観ても面白いだろう。
同じく古典的キャラの吸血鬼を使った「フロム・ダスク・ティル・ドーン」みたいな作り方の映画だってあ
るわけだし。
中途半端なユルユル加減に最後まで付き合った結論は「ロメロは偉かった」。
メル・ギブソンの「パッション」。
イエス・キリストへの残酷な拷問シーンが話題になった映画だが、メル・ギブソンがやりたかったのはまさ
にその痛そうなところだけらしい。
人物像に斬新な解釈が見られるわけでもなく、名場面・名セリフの数々もほとんどカットされていて物足り
ない。
「キリストだって痛かったんだよ」ってひとこと言ってくれれば「ああ、そうだよねえ」って言って別の映
画みたのにい。
私は退屈のあまり「マリアに田之助、マグダラのマリアに雀右衛門、ローマ総督夫婦に梅玉・時蔵、ヘロデ王に福助、パリサイの大司祭に段四郎、ユダに吉右衛門」と歌舞伎バージョンの配役を考えながら時を過ごした。イエスは難しいぞ。
だいたいマグダラのマリアにモニカ・ベルッチを起用していながら、イエスの足を髪と香油で洗うシーンが
ないのはなぜだ。納得いかん。
「中国の小さなお針子」。
いかにもおフランスの作品らしく(原作は読んでいませんが)一つ一つのエピソードや小道具にきちんと意
味があって、それぞれがうまく噛み合って全体を構成している。
1000段の石段を登ってたどり着く、水墨画の掛軸の中みたいな、つまり山以外なにもない村で、目覚まし時計・ヴァイオリン・外国小説・映画・眼鏡・歯医者などなど西洋近代文化のアイテムがきわめて象徴的な意味を担って登場し活動する。
これがフランス映画だけにうっかりすると鼻もちならない文化侵略の図になりかねないのであるが、文革の嵐のまっただなかという「縛り」がかかっているので、それらのアイテムはあくまで可愛らしくきらきら輝
いて見える。
こういう「非文化的かつ抑圧的な状況下で、禁じられた文化的なものにこっそり触れるヨロコビ」というの
は私の大好きなモチーフである。
しかしヨーロッパの小説や映画には「本を読み聞かせる」のが男女の交情の象徴としてよく登場する。
たぶん近世・近代の日本文化にはあまり見ないワザだと思うが(実はすごくあったりして)いま交際中の男女もやってみてはどうだろう。
しかし何を読むかによってその後の展開は大きく左右されるな。女友達との会話で「自然主義はないよねーふつー」とか槍玉にあがってたりして。
あと主人公が病院の破れたガラス越しに映る、そのガラスの使い方など、映像上のテクニカルな小ワザがあちこちに利いて秀逸。映画文化の厚味というやつですな。
でもヒロインが妊娠するというのはちょっと余分なつけたり。
あとヒロインが感化されて都会に出奔してしまうのが、他の作家ではなくてバルザックの小説だというのには、なにか深い意味があるのでしょうかしら。ここは。どうなんでしょう。