千秋楽考ならびに社会学の御利益について
正月公演がめでたく千秋楽。
往古のむかし、雅楽を奏する場では「千秋楽」という曲が一番最後に演奏されたことから、興行物の最終日を千秋楽というようになった。という説があるが、本当かどうかは分からない。
ちなみにお芝居の世界では秋の字を避けて千穐楽と書く。
なぜなら芝居小屋に火気は禁物だから。お洒落だ。
歌舞伎の役者さんはひと月単位で生きている。
千秋楽は月と月との間の大きな区切りである。
多くの役者さんは翌日か翌々日から来月の公演の稽古が始まるし、来月は休みという人も当然いる。
地方公演のために、楽屋口を出たその足で東京駅や羽田空港に向かう人もいる。
給与支給とか各種支払いとか主に経済的理由で、私どもの生活にとってひと月は確かに区切りではあるけれども、「今月はひと月休み」とか「来月はひと月大阪で暮らしてその次の月は名古屋」とか、生活自体の大枠を規定するような区切りではない。
しかし彼らはひと月ごとに出勤場所や時には住み処が変わり、勤務時間も仕事の中味も一日の生活の時間配分も変わり、まるまるお休みの月もある。
慣れれば何とも思わないだろうが、ひと月刻みで人生が過ぎていくというのはどんな気分だろう。
足立区女子高生コンクリ殺人の犯人がその後暴力団員になって「俺は人を殺したことがある」と脅しながらの監禁でまた捕まったり、3歳の子が新聞紙を敷いた木の床の上で床ズレだらけで6kgの体重で餓死させられたり、仮出所中の強姦犯が女子中高生への再犯40件以上でまた捕まって「罪が重くなるのは分かっているが性欲を抑えられない」とコメントしたりしているのを聞くと、こういう安直な反応はよくないなと思いながらも、もう日本はダメかもしれないと爺臭くつぶやいてしまう。
さしあたっての問題は、理不尽な暴力からどうやって自分や家族を守るか、ということである。
ここで「家族という制度は近代に捏造された云々」とからんでこられては困る。
私は現代日本の婚姻制度や戸籍制度をひとまず是認しその管理下にあることに甘んじている人なのであって、余人は知らずまた良し悪しはさておいて、そういう人にとって家族は厳然と存在しているのである。放っておいてもらいたい。
また「自分と家族さえ守れればそれでいいのか」というからみ方をされても困る。
現在の私の立場と能力とを冷静に吟味するに、それがさしあたっての現実的な問題であろうと申しているだけなのである。
なぜこういういじけた物言いをしてしまうのかというと、社会学系統の学識を積んだ方々に言葉の端々をとらえて言い負かされては悔しい思いをしたという暗い記憶がいま急に甦ったからなのである。
学生時代に学科合同のゼミなどで社会学の学生と多少とも抽象的な議論になると、バリバリ文書史料主義のわが日本文学の学生などは、おずおずとした発言のあんなとこやこんなとこを捕まえられては手もなくねじ伏せられ、「そりゃリクツはそうだけどさぁ・・・」とぶちぶち言いながら下を向いて黙ってしまうのであった。
それで当時の私には、社会学の人=とにかくもスキのなさそうなロジックを組み立てるのが得意な人、といういささか否定的なイメージがうえつけられた。
私の目には彼らが「いかにスキのないロジックを構築するか?」というゲームに興じているように見え、「ゲームなんだからルールにのっとって勝てばいいんでしょ?」と思っているように見え(私の妄想かもしれぬが)、繰り出されたロジックがどこかか弱い作り物めいていたからである(これは妄想ではないと思う)。
もちろんそんなのは学部生レベルの話であって、社会学という学問のありようとはそれほど関係がない。
瑣末な歴史の知識にこだわって文書史料に書いてあることの引用しかできない(と見えたであろう)日本文学の学部生が、日本文学という学問のありようとそれほど関係がないのと同じである。
敬愛するフランス文学のT先生に渋谷のワインバーで伺ったところによると、相変わらず外国文学科への進学人数が極度に低迷しているのに対し、社会学科はこちらも相変わらず「ほっといても集まって来る」大盛況なのだそうだ。
私は恥ずかしながら社会学を筋道立てて勉強したことがないし、二十歳前後の若者が、マスコミ等への高い就職率はさておき、ほかにどんな芳香を嗅ぎつけて社会学科に集まって来るのかはよく分からない。
しかし彼らの知的渇望を癒やす何ものかが社会学という学問にはそなわっているのであろう。
なんだかよく分からないが、景気のいいものにはあやかりたいものだ。ナンマイダナンマイダ。