つゆのひぬまに
6月11日(木)
一日の仕事を終えると、目がとろんとしてくる。読みかけの本も手にとれぬまま、まどろんでしまう。
6月10日(水)
入梅したらしい。大雨が降る。傘がないと困るだろう程の雨。いちにちの仕事を終えると、目がとろんとしてくる。
ところで、昨日の続きである。「鬱陶しい時季である。じめじめした頃である。こんなときこそ、誰かと話すことが心の支えになることが多い。ちょっとしたおしゃべりなんかで急に楽になることがある。このような実感があるとき、人間はやはり対話するものだなあとつくづく思う」と書いたが、かといって、話せばそれで両者がわかりあえるというものでもない。話せば話すほど訳がわからなくなることもある。と言いながら、話せば話すほど、互いに理解できない、折り合いのつかない箇所があるという相互の理解に及ぶこともある。うまくいけばそうなる。理屈の上では。
けれども、そうでないときのほうが多いかもしれない。とことんまで話すということができないという見解の相違が発見される。そんなとき、おそらく、それは感覚の違いがあるだけだろう。
6月9日(火)
鬱陶しい時季である。じめじめした頃である。こんなときこそ、誰かと話すことが心の支えになることが多い。ちょっとしたおしゃべりなんかで急に楽になることがある。このような実感があるとき、人間はやはり対話するものだなあとつくづく思う。
6月8日(月)
たまには非日常も必要であるのだ。
6月7日(日)
あっという間に一週間。先週は長い日の連続だった。思い出すのにも時間がかかるくらいにあっという間。
6月6日(土)
土曜日は暑い。汗がだらだら。もう夏が近いのだろうか。
6月5日(金)
金曜日が時々憂鬱。どうもまだ身体が熱い。
6月4日(木)
もくもくと木曜日。あちこちでもくもく働く。
6月3日(水)
工夫を凝らしてみると、それはそれで前に進むこともあると実感。稽古法を変えてみたら、不思議なくらいうまくいった感触があった。な~るほど。その感触だけを大事に、その環境だけを大事しておこう。
夕方は、道場にこられている方の作品展を拝見しにいく。植物的な感触があっておもしろかった。
6月2日(火)
まだ微熱が続く。身体の底から休めていない感じがある。
6月1日(月)
土曜日に痛めた肘が気になっていた。今日、予約を取って、三宅接骨院で診てもらう。
昨日の大会も、実は腕がうまく運ばなかったら(動かなかったら)どうしようと心配に思うこともあった。移動のとき、荷物を持つ手がいつもよりもきしんだのもたしかなことだったからだ。本番は、なんとか「動く」程度には、持ち直した。おそらく誰も気づいていなかったことだろう。
実際に治療を受けると、やはり靭帯が少しのばされているとのことだった。のびた瞬間、ほんとうに何が起こったかわからないくらいに痛かった。急激な痛さと感じたとき、すぐさまその場を逃げればよかった。逃げずにしたのは、なぜだろうか。冷却はすぐさま行った。そのあと、稽古後も湿布で冷やし続けるのがよいと伺い、そうしていた。
健康第一。何事も身体が資本である。危険な場所からは遠ざかるべし。最近会得した教訓である。
5月31日(日)
下川正謡会の日。長~い一日である。
ことしから会場が大阪に変わったので、これまであった神戸よりも客層が変わったように感じられる。お越しいただいたみなさま、ありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。
今回は、素謡『熊野』のツレ、仕舞『高砂』に出た。いずれも出番は午前中に終えてしまったので、いつものように朝から晩まで、気持ちを長く強いられることはなかった。だが、これまでの感触からすれば、ややゆったりし過ぎた感じもある。適度な間があるといいなあ。
来年も大会は催される。それまでまた稽古しよう。死にもの狂いで。
5月30日(土)
暑すぎる体育館だ。もう夏が来たみたいである。熱でふんわりしかかっているせいか、ひとがたくさんに見える。
5月29日(金)
たった少しの熱が上がるだけでも、それだけで心身のバランスが変化するものなのか、時を追うごとに、実に細かい調整を身体が行っているのが感じられる。熱いなら熱いなりに変化しているかのようだ。
新型インフルエンザの影響もやや遠くへ追いやられた感のある街並み。マスクをして歩くと、やや時代遅れ的な視線が直接肌に向けられる感じがする。マスクの流行ばかりが、世間を圧倒している感触がして、それがまた気持ちが悪い。マスクをしてどこが悪いのだ。