8月15日(金)
お盆最終日は、終戦記念日。
ことしは、4年に一度の夏季オリンピックに、日本においては毎年の夏の高校野球、そのうえ帰省ラッシュときたものだから、肝心の終戦記念日が埋もれてしまいがちである。新聞の夕刊あたりにひっそりと、戦争関連記事が書いてある程度だ。テレビでは、神社参拝のニュースが流れるくらい。おそらく、テレビのニュースにしたって、アナウンサーは、やっぱり、まっさきに「北京オリンピック○日目の今日、○△選手が□※メダルをとりました~」と言いたいのだろう。これが、いいとか悪いではなく、日本という国が、それだけ平和なのか?あるいは、平和になったのかと思う。
8月14日(木)
オリンピック開催年に行われる夏の高校野球は影が薄いという印象がある。ことしは、高校野球も開催が何十回目かの記念大会とかで、いつもより出場校が多いそうである。だが、実際問題、あんまりどこがどうなっているのか、興味もなく、関心もない(個人的なこと話なので、あまりお気になさらず)。
ただただ暑い中、野球をしている高校球児がたいへんだなあと思う。ああ、たいへんだ。たいへんだ。
夕べの「星野ジャパン」によるキューバ戦は、途中で眠ってしまった気がする。あんまり記憶にないのだが、試合終了後、「ダル(ダルビッシュ有)が、どうのこうの」と星野監督がコメントしていたのを見た。当のダルは、中盤、ベンチから心細くメガホンをもって、続投するピッチャーを応援していたように記憶する。星野監督はなぜか好きである。熱くて冷静だからだろうか。阪神タイガースに在住していてほしかったが、そのさっくりした去り際さえも輝かしい。
さて、今日は、朝から競泳の北島選手を見ようかとテレビをつける。各メディア予測やテレビ欄の告知どおり、彼は金メダルを取った。すごいことです。競泳後のインタビューで彼は落ち着いた表情で、「感謝します」のコメント。感謝できるその立場こそがすごいことなのだし、輝かしいことである。
しかし、泳いですぐに、よくコメントできるなあ、インタビュー慣れしているなあと思うのは素人判断だとしても、総じて今回のオリンピックでは(まだ終わってないのだが)、日本選手のメディア側のコメントは、各選手の「内面の充実」にポイントが置かれ、当の選手は、「感謝する」ということばに傾いている気がする。これもまた流行なのだろうか。
もちろんオリンピック出場選手の誰もが、そこにいることに「感謝」しているのだと思う(内面は見えないけれど)。だが、わざわざ、それを口に出して言うのが、今回矢鱈と目に付く、というか耳につくのである。準決勝に進んだバドミントンのひとたち(「スエマエ」のほうね)もそうだった。
毎朝運ばれてくる新聞(朝日新聞)のオリンピック関連記事を読んでいると、抜粋された部分のコメントなどは「親に感謝」とか「コーチに感謝」とか「応援してくださったみなさんに感謝」とかが多い。記事には、「心がよくなった」とか「内面が落ち着いた」といったことが書き連ねられる。
いずれの立場も、そりゃあそうであると納得できることであり、もっともなことなのだが、なんか変だ。感謝するのは当然だろうし、心も充実させて、その会場の波に、とって喰われないようにするのは大事なことだろう。だが、なんか変だ。誰もが、決まり文句みたいに、そのことばを諳んじて、発してはいやしないか。それこそ身体から発してないというか。テレビの向こうに映る姿だけの判断なので、なんとも言いがたいが、そんな感じがしてならないのだ(個人的な意見なので、あまり気になさらないでください)。
あるいは、朝日新聞の傾向なのだろうか?
そんな今日の朝日新聞の天声人語(2008年8月14日)。
悲喜こもごも届く北京五輪のニュースの中で、それは悲を超えて「泣」に近い衝撃だった。野口みずき選手(30)の欠場である。4年ごとの舞台に合わせ、ぎりぎりまで筋肉をいじめてくる一流ランナーの厳しさを思う▼北京の切符を手にした昨秋の東京国際女子マラソンを間近で見た。手を横に振り、弾むような大股で地をける。小遣い銭を握りしめ、菓子屋に急ぐ子どもに例えては失礼だろうか。小さな体が走る喜びを発散していた▼女子マラソンの系譜を顧みれば、有森裕子さんには禁欲的な美しさ、高橋尚子さんには精密機械のすごみがあった。野口さんには、荒野で鍛え抜いた脚力を感じる。跳んで弾んで「鳥の巣」へと独走する絵を見たかった。じっくり養生してほしい▼政治が絡む五輪には虚実が交じる。特に北京の開会式は「虚」の世界だった。千発もの「消雨弾」が雲に撃ち込まれ、花火の映像は一部CG、美少女の独唱は口パクだった。裏で歌ったのは、見た目は及ばぬが声は一番とされた別の少女である。音楽総監督は「国益を考えた」と明かした▼対照的に、野口さんの決断は「実」そのものだ。「今も走りたい、走ろうという思いは消えることはありません」。しかし、ここで無理すれば選手生命が危うい。肉体を駆使する仕事の、残酷なまでの正直さである▼北京では連日、研ぎ澄ました肉体と精神が正直にぶつかり合っている。北島康介選手の金も、谷亮子選手の銅も、あらゆる「虚」を排した実力勝負の結果だ。だから勝者は輝き、敗者もまた美しい。
ちゃいきんの、てんせいじんごは、おもちろくにゃあですね。
8月13日(水)
お盆です。
なかなかに暑い毎日である。
暑いのなら静かにしておればいいのだが、静かにじっとしていると、そこかしこに気が向いていく。今日はまた、散らかった部屋が気になって紙類を処分。どうして、こうも紙が多いのか。メールでの連絡が多くなった昨今とはいえ、それでも紙は必要であり、紙は消えることはない。いえ決して紙が消えてほしいのではなく、原因は「書類」という名のものたちだ。いわゆるA4用紙のお知らせや企画書みたいなものは必ず出てくる。それらのうち、終わったものをごっそり捨てる。
それに飽きると今度は、散らかった本を棚に戻す作業にとりかかる。
「いったい、オレたちゃ、いつまで横たわってりゃいいんだ、え?」(なぜかこういうとき、本の一人称は「オレ」)といった声が聞こえてきそうである。
だいたい片付けて、テーブルを使えるように元に戻す。
今度は洗濯を取り込み、畳む。
暑いので何をやっていても汗をかく。汗をかくとお風呂に入りたくなる。で、入る。シャワーを浴びる(♪シャワ~を浴びて~ ウォウウォ~)。また着替える。以下リフレイン。
ということを一日のうちに数回やっていると、着替える回数が半端でない。洗濯の回数も同じく。いったい何人で暮らしているのか。
それにも飽きると、今度はまたオリンピック。ハイライトも含めてぱらぱら見る。
おもしろくなくなってくると、先日いただいた『Heaven?』を読む(佐々木倫子、小学館、全6巻)。今日はそのうち4巻を読む。なぜかさらさらと読める。ベヴンならぬ気分で、読む速度も変わってくる。夏の夜長に合っているようだ。