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養老先生に遭遇

6月26日(火)

 いまからの、暑さ続けば、今夏また、猛暑なりうる、それまた困る。


6月25日(月)

 今日もまた、二度目の山を登る午後。


6月24日(日)

 またしても、スコールみたいな、雨が降る。
 この前の、「日曜休み」は、四月の中ごろ。


6月23日(土)

昨日の、スコールもどきは、どこへやら。

思いっきりよく晴れた空は、ほんとうに青々としている。青々とした空には、白い雲がよく似合う。木々の緑もよく似合う。
そんな晴天の日。
昼から稽古に行く。今日はさらに、稽古のあとにまた稽古である。
数年前、この「稽古のあとにまた稽古」が当たり前だった時期がある。合気道の稽古をして、移動してまた杖の稽古。今にして思えば、よく身体が持っていたものだ。というのも普段の週三回に加え、土曜日の稽古、続いてほとんど休むことなく、稽古をしていたからである。習性なのか何なのか、そのころから、ほとんどすべてを休むことなく顔を出していたから、我ながら、何ともかんとも、思わぬところで、気質も何も頑丈なところもあるようである。
もちろん、その間も毎日電車に揺られながら大学へと通っていた。一日の六分の一時間は軽く消耗(電車!あれは、あきらかに消耗だ)していた。家に帰るなり、即寝してしまったことも一度や二度ではない。起き出して、予習復習をし、また朝になると大学へ行く。無遅刻無欠席で講義に出、図書館に通い、本を読み、そしてまた稽古した。
それを思うと、今はなんと楽なことか!
稽古のあとの稽古なんて、身体がよくほぐされて心地よすぎる。全体的な稽古回数は、もしかしたらあの頃より減っているかもしれない。回数は減っても、今のほうが何をやっても断然身体が心地よい感覚がある。人間の真理のひとつひくまでもなく、時と共に身体に変化があるのは当然だ。それは、生きている限り、私たちが「死」の方向へと向かうという意味において。誰にも妨げられない事実である。なのに「楽だ」と感じることがあるのは、実際問題不思議な話だ。これには、稽古時間が減っている(かもしれない)ことも、もちろんあるだろうが、それ以上に身体がすこしずつ慣れてきたということでもあるのだろう。
あるいは、「教わる」立場と「教える」立場の両方を経験しつつあるいまだからこそ、感じる変化であるかもしれない。いかなる稽古をするか、言葉を使って表現すること、身体を使って確かめることなど、さまざまな方向に重きを置く方向付けのようなものが、あるときからおぼろげにではあるが、感じるようになってきたからかもしれない。少し前よりも、大きな変化を感じるいまの自分に出会うまで、身体も随分変化したのだろう。おそらく、きっと、この先も、まだまだわたしの身体は変化することだろう。稽古に励み、精進していきたい。

 唸るほど、今日も暑さに、変わりなく。


6月22日(金)

 金曜が憂鬱なのね、このところ。


6月21日(木)

 これでもか!流れるばかりは、汗ばかり。雨を忘れる梅雨ですね。


6月20日(水)

 流行の?「はしか」の話があるためか、本日、学内ざわつきはじむ。


6月19日(火)

 浜松のスーさん見えて、今日は晴れ。


6月18日(月)

 ついにきた。来たのは、わたしの「あたまいた」。


6月17日(日)

 京都へ。
 養老孟司京都国際マンガミュージアム館長の講演を聴く。
「マンガと解剖」と題された講演に聴衆なんと700人(くらい)。
養老先生のご尊顔を生(ナマ)で拝するのは、これが初めてである。雑誌やCM、テレビ番組等でお見かけしたことはあるので、知らないわけではないが、密かにそして随分手前勝手に声に期待し、興奮していた。
係の方の挨拶に続き、壇上に出て来られる養老先生。
話は、あるとき突然始まっていて、みるみるうちに会場の聴衆をその渦のなかに巻き込む。その声、しぐさ、動き、文字など全部をひっくるめた先生の動きに、誰も彼もが釘付けだ。
話はこちらの勉強不足もあって、初めて聞くものが多かった。たいへん興味深かったので、メモを取る手が止まらなかった。書きながら、耳を傾けながら、表情を追いながら、ホワイトボードの文字を見ながら等々、いくつかの動作を順番に、ときにいっせいに行いながらの、あっという間の九十分であった。ほんとうに質のよい落語を聴いているかのようで、あとからもずっと耳に心地よかった。落語ですよ。こりゃあ。すげー。

 ちょうど同じ日には、講演会場近くで学会も開催されていたので、初めはちょっと寄ってみようかとも思っていた。しかし、あまりに上質の、愉快な話に聞きほれてしまったあとには、そのまま電車に揺られるほうを身体が自然に選んでいた。


6月16日(土)

 内田先生がご不在のため、助教による稽古指導日となる。今日は、助教のひとりであるわたしが担当させていただくことになった。
道場に来ると、白帯の方が、ぐぐぐいっと多い。初心の方ばかりが、ぞろぞろと並んでいる。いやはやなんともすごい光景だ。袴の数のほうが少ないのだから。
その様子を見ただけで、珍しく頭の中にあった、ちょっとした構想を一気にかなぐり捨てた。構想を捨て、構造を組み替え、予定してみた稽古の内容を、ぐぐっと変換しなおす。
 袴を履いたひとたち、とくに学生さんたちの出足は、このところやけに早い。おかげで今日はとても助かった(ありがとうございます)。
また、最近やけにやる気になられている社会人の方々は、稽古開始時間には、道場に来られている。その他、相変わらずゆっくり登場される方もいる。なかには、普段は来るのが早いのに先生がご不在だと知った途端、出足が遅くなる方もいる。これってなんか変だ。ほんとに合気道が好きならば、どんな状況でも来るのではないか?と思うこともあるが、別に関係ないか。単にわたしが不器用なだけなのかもしれないけれど、わたしは正直に生きたい。


6月15日(金)

 昨日は、代稽古をさせていただく。先生は体調不良なのである。
 書いてすぐ訂正するのもなんだが、実は「代稽古」という呼称そのものに若干の抵抗を感じている。最初に書いてはみたものの、どこか、やはり座りが悪いのである。なぜなら、どう転んでも「代稽古」という響きが「(先生の)代わりの稽古」という意味合いに取れて、心苦しいからである。
代わりなんて恐れ多い。「代わり」なんて使うことすら憚られる。
しかし、どうやら、一般に、これ以外に呼びようはないものらしい。
それでも何かないものかと苦心惨憺、考え込んだ末、見つけたものは、「(代)稽古指導日」というものだ。せめて、このような言葉で捉えるのがよろしかろうと、最近ではそう思う。

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2007年6月27日 13:02に投稿されたエントリーのページです。

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