1月15日(月)
お年玉つき年賀はがきの当選番号が発表された。ことしは、およそ100枚近くの年賀状をいただいた。そのうち当たったのは、たった1枚。それも切手シート(まあ、それしか当たったことはないが)。昨年はたしか、これよりもう少したくさんのはがきをいただき、さらに何一つ当たらなかったように思う。相変わらず、くじ運が相当に悪い。別のところで、どばーっと運が良くなって、当たってみたいものである。仕事とか。
あ、そうだ。おみくじ引かなくっちゃ。
1月14日(日)
よく晴れた日曜日。朝起きて顔を洗う。天気がいいので、掃除をして、洗濯をして、さっきまで包まっていた布団を干した。その間、部屋の片付けと模様替えをした。きちんと過ごそうと思う。
昼過ぎになり、朝から何も食べていなかったことに気づく。ちょうどひと段落ついたところだったので、冷蔵庫を開けて、中を見た。中は、買い物に出るのが面倒だと物語るに等しい状態だった。この状態に決して満足したわけではないが、あっさり何が使えるかという方向に話を切り替えて覗き込んだ。その矢先、目の合ったのが明太子。明太子を使ってパスタを作ることにした。
パスタ用の鍋で湯を沸かし、パスタを茹でる。その間、明太子をほぐして、酒とバターで味付けしておいた。茹で上がったパスタを鍋からあげると、兼ねて用意しておいた赤いのと混ぜ合わせた。思ったよりいい香りがしてきている。
程よい日差しが窓から差し込んできた。日曜日の昼の光は、どうしていつも違ったふうに見えるのだろう。窓から差し込む光は、さらにまっすぐにパスタの方へ進んでゆく。こんなときの光は、いつもより、ほんの少しだけ、それをうまそうに見せる。
1月13日(土)
「WE WILL ROCK YOU」を観させていただく(いつもありがとうございます)。
ひとは故人になると、その者が亡きがゆえに偉大だと評されることがある。生前から伝説的な人物であれば、死後はさらに伝説に拍車がかかることもある。もちろんそうでない場合-生前から伝説的に語られすぎていたために、亡き後はもはや生前のような輝きを放たない場合-もある。生前から伝説化され重宝がられるか、亡き後に功績を褒め称えられ、伝説化されるのか。果たしてどちらが不幸だろうか。あるいはどちらが幸せだろうか。そして実際は、当の本人の思いはどこらへんに寄り添うものなのだろう。そんなことを思う。
さて、この度の結論いや感想を述べよう。ロックはロックとして、ロックのままに大切に聴きたい。ロックとはいえ、音楽は大事にしようではないか。フレディ・マーキュリーは、おそらく偉大な人物だったのだから。
1月12日(金)
今日はね、ムラカミさんの誕生日だったってよ。
十年ぶりくらいに読み返している、『ノルウェイの森』を手に取りながら、気づいた。
1月11日(木)
初出勤なのか初登校なのか。ようやく大学が賑わう。おいおい。
1月10日(水)
やや休日ボケの日である。
1月9日(火)
道場の新年初稽古と鏡開き。
ほんの少しの時間だったが、共食(ともぐいではない)とは、人類にとって、実に大事であると実感した次第。本年も無事に稽古できますようにと祈りを込める。
1月8日(月・祝)
「成人の日は1月15日」というのがつい数年前までの決まりだったが、近頃はそうではない。この「そうではない」といった感触にもそろそろ慣れなければならないのだろうね。ようやくそんなふうに思うようになってきた。このところの成人の日は、1998年改正、2000年(あら前世紀!)に制定された祝日法に基づいている。いつまでも感慨深く、あるいはいつまでもいじらしく「昔はこうだったのになあ」としがみついているわけではないが、何かしらの謂れがあって定められた日は、あまりいじらずそのままにして、変更しない方がいいのではないかと、ときおりジジイのようなことを思うのである。もちろん振袖を着るお嬢さん方、羽織袴で集まるお坊ちゃんたちにとっては、成人式が執り行われることが多い成人の日というのは、日曜日と連続していた方が何かと都合がいいのかもしれない。しかし、肝心の成人式の枠に該当する人々は、当然ながら毎年変わるわけで、毎年出るものでもないから、どの曜日が良いも悪いもないのかもしれない。ただただ一生に一回のこと。結局はどの日でもいいのかもしれない。
気になって調べてみると、そもそも成人の日は、1948年に制定されたものらしい。
「1月15日は、大人になったことを自覚し、自ら生き抜こうとする青年を祝い励ます日」と法律で定められたそうである。随分立派な明文である。立派だと思うと同時に、なあんだ。制定されたものだったのかとも思う。のちに、これが先ほども挙げた2000年制定の祝日法(いわゆるハッピーマンデー法ですね)に基づき、1月の第2月曜日に改正される。それにしても、ハッピーマンデーの「ハッピー」ということばには、どの程度の幸せが含まれているのだろうかということの方が、最近では気になる問題である。