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武術的晩秋

11月21日(火)

非常によく動き捲った気がする。移動が電車だったり、自転車だったり、走りだったり、歩きだったりするが。
非常によく喋り捲った気もする。喋ったのは道場だったり、電話だったり、仕事場だったりもするが。
気づけば日付も変わっていて、それでも作業は進行したりしなかったり。少しずつでも、少しずつでも山を切り崩していかなければ。そんな焦りもあるものの、焦りが焦りとなる前に、遅々としても前を向いて行こうという思いのほうが強いわけで。結構気分がよろしい。
ああー、山の向こうに何がある~。


11月20日(月)

授業とは常にライブ感がつきもので~。


11月19日(日)

興福寺に行ってきたのだ。あー、きれいだ。仏さんにうっとり。めざせ大仏!
書きたいことは多々あるけれど、今は時間がないので、日を改めて。


11月18日(土)濃いー週末。

合気道の稽古のあと、「武術的立場」の対談を聴きに、朝日カルチャーセンター大阪に行く。これは朝カルの単発的な企画物である。「徹子」役となられた内田先生が、月一回対談者と身体における語らいをするというものである。第一回目のゲストは、四国は丸亀の呉服屋若旦那であり、韓氏意拳の日本分館世話人の守伸二郎さん。盛況のうちに第一回は終了し、本日は第二回目。ゲストスピーカーは、びわこ成蹊スポーツ大学の高橋佳三さんである(来月は神鋼コベルコスティーラーズの平尾剛さん)。

対談は「語らい」と言ったが、今回は身体を使った実技もの満載だった。メモをとるべく机の上にはペンとノートを用意していたが、多くの時間は話に引き込まれ、その出番は少なかった。代わりに高橋さんによる動きや姿に見とれ、考え、内田先生の言葉を体感することに費やされた。フト気づくと、完全に目の前の出来事に釘付け、あるいは耳付けの状態が続いた。

それでもなんとか、おぼろげなる記憶のなかには、いくつかの単語が示されている。股関節、肩甲骨、斬り、言葉、身体の内部、外部、ヒンジ運動、脳と言葉、比喩、例え話など説明のつく事柄からつかないことまで、身体についてのあらゆる出来事、言葉と動き、ツールとあり方進め方関わり方について。また指導者について、身体の皮膚感覚、接触する外部と内部、「円」についての話、鉛直方向などなど、多岐に渡る事柄が、サマザマナモノが、頭のなかを渦巻いる。散乱し、まとめることができない、あらゆる謎とヒントに満ち溢れる。そんな時間を過ごした。
 
ところで、今回の高橋さんは、かつて甲野先生の講習会が大学であったときに、先生とご一緒に来られた。おそらくそのときにお会いしたのが初めてだろうと思う。あの頃から随分と時間が経ったこともあるだろうが、今日また実際にすごく「大きな」方であるとの印象を持った。これは単純に身体が大きいとか、身の丈が大きいとか、体重があるということではない。たしかに183cm・86㌔(11/18現在)と伺えば、現代人の感覚でも体格は大きい方であるかも知れない(私事で申し訳ないが、親戚連中にこれぐらいの体格の者が大勢いるので、子どもの頃から大人はこれくらいに大きくなるものだと信じて疑わなかった。実際はそうではないと知ったのは中学に上がった頃)。

話は逸れたが、ここで言いたいのは単なる体格の話ではない。はっきり言えば、大きくても邪魔にならない(ってすごく稚拙な言い方でスミマセン)ということだ。体格が何かを物語っているような気がしたと同時に、言葉足らずで申し訳ないが、何と言うか、懐が大きいというか、(それもまたちっぽけな言い方で足りないのだが)、大きさ全てがありのままに、実にやんわりとしているのだ。動きも言葉も説明も体格もきちんと、カチッとされているのに、カチッと凝り固まっていないのである。ふと見ると来月のラガーマン平尾さん。この方も高橋さんと同じくらいの身の丈、同じくらいのカサだと伺った。これまた同じように大きい方のはずなのに、まったくその大きさが悪くないのである。いや、悪いなんて失礼な言葉は到底当てはまることはなく、むしろいい感じにすべての生き様に作用しているのである。最初の守さんだって、おそらく大きい方だ。いわば讃岐富士のような方である(度々稚拙な礼で申し訳ないですが)。

というわけで、この「武術的立場」に通いながら、なんていうか体格が大きいとされる方で、こういうふうに感じのいい方たちを続けざまに見ているうち、やっぱり体格がときに何かを物語ることがあるなあと思ったりする。大きいからいいのではなく、大きく見えるこということがいいのである。いいなあ。こういうふうに大きいのは。体格は「懐」と言った単純なものではないけれど、身体の大きさがそのまま器の大きさとなって、人間としてのスケールにも匹敵するようなことに繋がっておられる気がする。生き方そのものが、姿かたちに現れているのだと感じる。生き様そのものが、ときに身体を大きくも小さくも見せるだろうか。これはとても簡単なことで、とても大事なことかもしれない。そして、とにかくこういう滅多にない素晴らしい方々にご縁を頂いたことに、とにかく深く感謝しています。ありがとうございます。来月もとても楽しみである。


11月17日(金)

さあ、金曜日だ。今日は狂言を鑑賞。茂山千作さんを見る機会を逸してはと思って結構真面目に見始めたのが数年前。それまでは、結構たらりっと見ていただけでしたから。
笑いの質が違いますね。忠三郎さんとの掛け合いもなかなか見られないもので、いいものを拝見しました。
もちろん、マスヤくんもいい感じである。


11月16日(木)

ワインを飲んでもいいんだってさ。でも、このごろはコンビニでも売ってるよ。万人受けせんとするかのようにあちこち手軽に出回るのもいいけでど、なんだか味気ないよね。こういうの。


11月15日(水)

水曜日。大過なく。
事なきを経て、静かに過ごす水曜日。葛根湯が欲しくなる。


11月14日(火)

大阪は梅田、「越後屋」改め「ゑびす屋」ご謹製プレビューに参らせてもらう。講義後、内田先生とご一緒させていただき、梅田を歩いた。なんともひとが多い。平日のこんな夕方に歩くことも少ないので、余計にそういう主観的な感触が多いのだろう。帰宅ラッシュの軍勢があちこちで、波打っている。時間帯が夕食時と重なり、おでんや揚げ物、煮物の臭いがところかしこから漂ってくる。お昼もそこそこだったので、ついついその香りに鼻が寄せられる。
いつ見ても越後屋改めゑびす屋さまセレクトは素晴らしい。こういったご縁をいただけたことにもまた感謝。


11月13日(月)

『眠りすぎて疲れるこどものために』なーんて、本はないだろうか。


11月12日(日)

異常な深さを導く睡眠に襲われている。木曜辺りから続く喉の痛みが、身体中を蝕むかのように、思考停止を指示してきたのが遠因だろうか。異常に深く導く睡眠のため、頭は僅かなことも考えられない状態である。こういうときは大事なことはしない。単純作業に専念するのみ。そして洗濯機を回す。しかし、それだけのことが、とても難しい問題に思えてくる。

秋風も涼やかどころか寒さを帯びてきたので、そろそろコタツを出したいと思う。だが、今日はその気力すら失せた。とりあえず一日中休んでいると、いっそのことパジャマになった方が気持ちも楽だろうというような気になってくる。そして善は急げ。病気のとき以外で、初めて昼日中にパジャマで過ごしてみた。するとだんだんと世の中がわからなくなってきた。考えることがどうでもよくなってきた。すーっと眠たくなってきた。布団にももぐる。何事も形から入るのは大事だと実感したのは随分あとのことだ。

あまりにたくさん眠りすぎると、目の玉が溶けてしやしまわないだろうかと心配になってくる。目のことが心配になるのは、きっと韓流ドラマの見すぎだろう。そんなふうに自身を思い込ませながら、またもや布団にもぐりこむ。いったいどれくらい眠っただろう。それでもまだ足りぬ。いったいいつまで続く睡眠不足だ。

結局翌朝、訳のわからない夢で目が覚めるまで、ずーっと眠り続けていた。訳のわからない夢の記憶はわけがわからないので、説明のしようもなくて申し訳ないのだけれど、主観的には「わけがわからない」という感触だけがどこか遠い記憶の片隅を占領していた。


11月11日(土)

日録の更新が滞っているのには理由がある。大した理由ではないかもしれないが、じっくり書くための時間が取れないということも含めての理由が、最近はいくつかある。

一週間は七日ある。そのうち三日は合気道やら何やら武道を教えている。教えているのは、もしかしたら、一日のうちのすべての時間ではないかもしれない。だが、実際の場所に行き着くまでの物理的な時間、精神的な移動、準備に追われているうち、みるみる時間が経ってしまう。それ以外、わたしにも日常時間というものがある。睡眠に始まり食事、読書、娯楽も含めたものなどがそうだ。稽古も週に三日は堅い。ときには、それ以上になることもある。もちろん稽古日と指導日が重なる日もある。それはそれでその方がいいこともある。実践的に取り組みたい事柄をそのまま試してみることができるからだ。要するに、自分の稽古場ではそういうことができる。でも自分ひとりでは限界がある。相手がいないというのは、物事を考え、試すには、結構自由気ままで快適に過ごしやすいものだ。だが語る相手がいないというのは、物事が煮詰まってしまう状況を引き起こしかねない。どういうわけかわたしには、武道の世界において「同期」が、あまり存在しなかった。もちろん世の中は広い。「『同期』と思ってください」とか「『同期』だよ」と言ってくれるひとや実際の同期もさまざまにいる。けれど、ふと気づくと、なぜか目の前から消えていた。いまではどこに誰がいるのかもわからない。求めるときにそこに手を差し伸べたところで誰もいない。これは哀しいことだ。つまり、大それた言い方をしてしまえば、孤高である(そうなりたい!と思う)。哀しく言えば、ひとりである(そうなりたくもある!同時にこうも思う)。人間誰しも生まれついたときから結局はひとりですからね、何を今さら…ですか?

どこであれ稽古をしていると、先生がいないとうまくできない。先生がおられるからうまくできるということを感じることが多い。師はありがたく偉大な存在だと気づく。日に日にその切実さに重層性が帯びてくる。

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2006年11月22日 12:21に投稿されたエントリーのページです。

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