« 2005年11月 | メイン | 2006年1月 »

2005年12月 アーカイブ

2005年12月 7日

冬!

12月6日(火)

 一昨日あたりから、冬!って感じがして、あっついなあと思いながら乗っていた電車の暖房も必要だなあと感じられるようになった。思うより、感じる方がいいね。こういうところでも。


12月5日(月)

 いろんな動きが難しい。なかなかうまく動くことができません。でも、どの動きがいまは、一番難しいのかは秘密よん。


12月4日(日)

 す、す、す、すごい雨です、雷です。


12月3日(土)

 同志社大学前の「わびすけ」にて、「いもねぎ」を食す。
 本願寺出版社のフジモトさん曰く、「同志社大学の前で、いもねぎを食べましたよと言えば、同志社では誰もが反応してくれます」というくらい、巷では有名な食べ物らしい。(現にM先生はご存知であった)。
 わたしは、「いもねぎ」なるものは初めて食べた。
じゃがいも、たまねぎ、卵、ミンチといった至ってシンプルな素材を使って、フライパンぐらいの大きさに混ぜ込んで焼いたものである。じゃがいもは3ミリほどのスライス、たまねぎは5ミリほどのぶつ切り、ミンチはみりんと醤油と砂糖で薄味に甘く煮込んであるのか、円の中央にかけるようにして添えられている。それに、ごはんとおつゆとおつけものでいただく。食後にはコーヒー。生憎食品の撮影をしていないので観賞は実際に食していただく以外に手はないが、素朴な色合いと素朴な味付けであったことはお伝えできる。ときおり欲する種類の味だと思われる。うちに帰ったら、きっと真似てつくってみるだろう。(ということで、翌日の昼は早速自前で即席「いもねぎ」を再現)。
 どういう理由かはよくわからない。ネーミングに惹かれるのか、喫茶店の渋さや佇まいに惹かれるのか、あるいは「場所」がよいのか、次から次へと客が来る。わたしも、できれば、そのままずっとそこに座って、本を読んでいたいくらいに景色も心地もよかった。京都の静けさと独特の雰囲気を思う。京都はやっぱりいい。

 同志社大学も同志社女子大学も紅葉が翳り行く季節であり、クリスマスが近づく頃である。どちらもきれいな校舎や清閑な佇まいがある。
いくらか散策しながら、日本イスラエル文化研究会研究例会の会場となる同志社女子大学のほうに行く。こっそりと誰にも気づかれないようにそっと会場に入ってみたのだが、すぐに誰にでも気づかれた。さほどにわかりやすい顔なのだろうか。着ていた赤いセーターの制だと思いたい。

報告は山本尚志さんの「カスペ事件再考・ハルピン昭和8年のピアニスト誘拐殺害事件」、内田先生の「レヴィナス『時間と他者』を読む」。踊るような内田先生のご報告を拝聴するうち、何だか身体が動いてしまっていた。複素的身体のあたり以降。
 研究会終了後、通称イス研の会員のみなさまに混ぜていただき、打ち上げへ。実に暖かな実り多き会だった。暖かい場所だった。
帰り際、ユダヤ研究の大家であられる宮澤先生にご案内いただいた同志社大学のクリスマスツリーイルミネーションを拝見し、実に壮大な雰囲気を味あわせていただいた。拝見しながら、すごく大きな木の下にすっぽりとおさまる。まるで星の中にいるみたいな気分になった。今日一日、ずっと夢の中にいるような気分だった。

Photography by Fujimoto


12月2日(金)

 それはそれで金曜日だったわけさ。


12月1日(木)

 今日は木曜日だ。あいやー、そして12月だ。
 そんなこたあ、わかってるってさ。また、そういうわかりえたことを言うだねえ、おめえさんは。

夜からの朝カルに駆けつけるべく、たらりっと一日の仕事を調子よく素早く切り上げる。
そして会場に向かう。会場までは、講演者の先生とご一緒させていただいた。なんとも不思議なものである。歩いていると、「あれ?」といった具合に行き先が一緒のところに出会ったのである。
先生にとっては、今度の講演は、3回目の使いまわしのネタで、「何度も同じ話を使い回しているから『芝浜』」ということらしい。だが、わたしにとってもまた、過去2回の会場に足を運んだわけではないので、初めて聞く話である。ということで、久しぶりの朝カルは誠に新鮮かつ斬新なアイデアで満ち溢れていた。際どい指摘に驚いた。
夜風が急に厳しく冷たくなっている。そろそろ本格的な冬支度が必要だな。


11月30日(水)

 先週から、“The Royal Ballet School of Antwerp/Belgium”(ベルギー/アントワープ・ロイヤルバレエスクール)つまりは、ベルギー王立バレエ学校から、14名のバレエダンサーが来ている。
夜は、そのダンサーたちのコンテンポラリーダンスを観に行く。
とてもしなやかな動きのなかに、足と手と腰と腕と頭と首とがある。
 すべてが連動し且つ離れている。忘れることなく全体且つ部分が動いている。
 どこにもゴツゴツしたものがない。身体って不思議だ。
 いろんな高揚感と躍動感を感じた。ほかにもさまざまなコンテンポラリーダンス。身体には際限がない。これが第1部。
 
第2部は、集約すれば「コトコリサイタル」だった。紅白歌合戦にやってきた急なゲスト(といっても予め入念な打ち合わせがしてあるが、あたかもそうであるかのように登場するあのゲスト)が、後ろのドアからいきなり登場して第2部が始まるように、あるいは、火曜日に放送されるNHK歌謡コンサートに喜ぶ地方会場の抽選に当たった視聴者であるかのような錯覚を起こさせる歌い手の登場に、驚いた。コンサートは、たいへんにおもしろかった。ある意味ファンになった。


11月29日(火)

 ナマ痛い足である。


11月28日(月)

 疲れがピークに達して倒れる前に、ちょっと立ち止まって、ひと休み。


11月27日(日)

 携帯の画面が突然消える。そんな状況がここしばらく続いている。
携帯を始終手にしているものでもないし(まるで不携帯)、常にメールや電話をしているわけではないが、携帯は必要だから持っている。1日24時間のうち、トータル30分も触っていればいいほうだ。
持っている少ない時間に限って画面が消える。別に携帯を蔑ろにして、電話に無理難題を吹っかけているわけでも、圧力をかけているわけでもないのだが。至って普通に穏やかに使っているのだが。
携帯電話で主に使っているのはメールと電話、それぐらいだ。
数年前、今、使っている機種変更にするとき、電話とメール、それだけの機能があれば充分と思い、携帯電話コーナーを見ていた。何気なく手に取ったものに、文字が大きく、機能がシンプルな機種があった。気に入って、すぐさま店の人に「この文字の大きいのにします」と言ったら、「お客様、それは…」と言って止められた。聞けば、それは老人用に作られたもので、画面の文字が大きく写り、機能も至ってシンプルにしてあるタイプの機種だったらしい。「お若い方なのですから、ちょっとそれは・・・」というのが店の人の言い分だった。でも、却ってその方がいいのにと思った。目も悪いのだし、字が大きいくらいがちょうどよかったのだ。

結局今、使っているのがその時に変更した機種だが、電話とメール以外にもいろいろな機能がついている(インターネット機能、カメラ、ムービー録画など)。そうである。大きい文字のものは、買わせてもらえなかったのだ。
機種の機能をほとんど把握せぬまま、使わぬままに時が経ち、ふと気づけば、電話するために電話帳を繰っているだけで、画面が突然落ちるようになった。メールでも同じような症状(不具合)が起きていた。通信文を打っていると、急にプツンッと画面が消えていくのである。テレビのチャンネルは、リモコンではなく、テレビに付いたダイヤルを「回して」変えていた時代があった。そのテレビ画面を消した後、さっきまで見ていた番組の残像がぼんやりとブラウン管に残るような感じがあった。携帯の消えゆく画面は、その残像ととてもよく似ている。

携帯画面が勝手に消えるといった事態は、実は非常にストレスフルな状況だ。
 それは、何かをしようとしていて、そのしていた何かを途中でナニモノかによって遮られ、見えない魔の手によって切られてしまうからだ。それでもせめて電話がなんとか復帰したあと、履歴や途中状況が電話のどこかにでも保存されてあればまだしも、さっきまでの操作は何もなかったことのように、この世から消えている。
 たかが携帯されど携帯。塵も積もれば山となる。
このなんでもないストレスだが、数が集まればそれなりに大きな負担となる。そんな日々の負担から解放されるため、今日、思い切って携帯機種変更したのである。

それでも最初は、修理に出そうと店には相談に行ったのだ。
修理には電話を預かってから最低2週間、その間代用の電話を持たされる。修理に出しても、場合によっては原因がわからないまま電話が戻ってくることがある。その場合はそのまま返却になるというのが今度の説明だった。「そんなに待つくらいなら、いっそ変えよう。今のも結構長いのだし」と思い直し、修理はやめた。
機種は、最近値下がりしたばかりだとかで手ごろな値段になっていた上、これまで使っていた年月のポイントが発生し、そのポイントが電話受話器代から割引にしてもらえたので、案外安く変更できた。
 しばらくは、新しくなった携帯で遊んでみることもあるかもしれない。だが、せいぜい「着うた」をいじるくらいのことだろう。それ以外はあんまり使わないと思う。できれば、携帯はもっとシンプルなものになればいいのにと思う。


11月26日(土)

 “The Royal Ballet School of Antwerp/Belgium”(ベルギー/アントワープ・ロイヤルバレエスクール)つまりは、ベルギー王立バレエ学校から、14名のバレエダンサーが来ている。
本業はバレエ。滞在中の公演以外に、ほかにもいろいろと日本の文化や芸術、身体運用(ついでに紅葉)なども見学していくのだそうで、今日は、その人たち対象にした「合気道のワークショップ」が行われた。
 朝、新しくできた「ミリアム館」というところに行く。(「ミリアム」とは、聖書の出エジプト記15章20節に登場するモーセの姉の名前。何でもこの人、イスラエルのエジプト脱出を祝して、タンバリンを叩きながらイスラエルを励ます踊りをしたのだとか。実際に見たことがないので、聞いた(読んだ)話しでは、そうなってます。来年度から、この大学に音楽学部に舞踊専攻ができるので、そこが使うレッスン場のある建物の名前になったようです。なお、似たようなことばに「ミレニアム」がありますが、これとはあんまり関係ありません)。
 そのミリアム館で、内田先生によるフランス語による合気道の講習を受ける。
 日頃、日本語で説明されている用語や構造や事柄や身体の使い方を、フランス語の音の中で聴いていると、なんとも言えない穏やかな気分になる。
フランス語もまた、音としておもしろいものなのだ。染み入る感じではないが、響きが悪くない。シャンソンの世界だからなあ。
わたしは、「ろくでなし」は歌えても、フランス語では歌えず、フランス語も、そして、ときどき日本語もうまく話せない。
しかし、そんなことは、ワークショップで組んだバレエダンサーにとっては、まるで知らないこっちゃの話だ。一緒に組んだなかには、ひたすらフランス語で尋ねたり話したりするひとがいる。
日本語で答えようかとも思ったが、国際的にそんなことしても何もいいことがないので、仕方なく一度だけ、フランス語で「わたしはフランス語が話せません」と言ってみた。(Je ne peux pas parler français.)
しかし、これを言うときに話しているのは、いったい何語なんだろう思ってしまった。
「話せない」ことを説明しているのは、その話せないはずの当の言語だからだ。もちろん「話せる」レヴェルを考慮すれば、「話せない」ということしか「話せない」レヴェルでは、「話せる」とはいえないのはわかる。でも、なんか変だ。中学で習った「わたしは英語が話せません」(I am not able to speak English.)を覚えたときと同じような印象を受けた。ところが、これがイタリア語になると、さほど不思議な印象は受けないのである。
Non posso parlare francese.
ん?使っているのが、イタリア語だから当然か。


11月25日(金)

 「会議に懐疑」に1000点。更に倍してドン。


11月24日(木)

 なんだか疲れた。笑うのも疲れる。


11月23日(水・祝)

 ほぼ慢性的な風邪気味で、身体がだるい。
 きょうはいちにち「ダウン」しておく。

2005年12月26日

年の瀬に風邪をひく

12月25日(日)

 ケーキを食べ過ぎた。食べ過ぎて初めて、今日がクリスマスなのだと気づいた。メリークリスマス。


12月24日(土)

 合気道をすれば風邪は治ると言うけれど、それはある程度までのことかもしれない。ある程度の限界を超えると(閾値なるものがあるのだろうか)、そう簡単には、風邪も治るものでもないだろう。実際40℃の熱を出して、鼻水垂らしまり、咳とくしゃみでくしゃくしゃになった顔を抑えて、朦朧としたまま頭痛をおして稽古に来た人を見たことがないので判断しようがないが、微熱辺りまでが限度ではないかと思う。

 言葉というのは、実に人に影響与えやすいものだ。誰かが発した言葉の場合、音声が伴うので、耳から伝わった響きと共に言葉は文字と音がセットになって伝わってくる。文章化されたものとして、言葉を読む場合、視覚情報と黙読した場合の無声の音なるものがセットになっている。どちらの言葉が人に影響を及ぼし、影響を与えるのかは、その身体次第であるだろう。わたしは、言葉が身体に刻み込まれ、それとは知らぬ間に無意識に、浸透しているイメージは、視覚の方が強いような気がするが、実際はどうなのだろう。はっとしたり、ぐわっと腹のあたりを、胸の何かをえぐりとられるかのように残っているような言葉がある。それは普段は気づいていないのだけれど、ふと十年前のことが蘇ったり、数時間前の出来事が思い出されたり、一年の同じ頃に同じ場所で同じ時間を過ごしたりするときに出て来ることがある。何かを食べていて、誰かの行動を見て、スズメの鳴き声を聴いて、ある場所を通ると、といった具合に何かの言葉を思い出すというのもある。ほかにも見える景色が言葉を引っ張って来ることがある。それだけに言葉は、繊細かつ豪快であることが必要だ。それは響きとしての言葉という意味において。


12月23日(金)

 ようやく、少しずつよくなってきたらしい。眠りから少しずつ解放される。起きている時間が増えた。


12月22日(木)

 締め切った窓とカーテンからは、表の白は、はっきりと見えなかった。雪が降っているなどという想像は意識のどこにもない。受話器をとる。午前中に病院に行くことを告げるため、電話する。「雪が降っていますよ」といった受話器の向こうの声で、表の寒さを知らされる。午前中は休ませてもらう旨を伝え、受話器を置く。すぐさま慌てて開けたカーテンと窓の外は、真っ白な世界だった。

 夕べは、自分の咳で何度となく目が覚めた。一度咳が出ると、出終わるまでおさまらない。我慢しても静まるものではなく、じわっと喉の奥から痒みのような、空気のような、痰のような、何か得体の知れないものがこみ上げてくる。それを我慢するより前に口が勝手に開いている。咳をすると、腹を使う。腹式呼吸をしているような気分になる。実際腹式呼吸なのだろうか。

先日の風邪の二次感染はすこし落ち着きを取り戻し、今度は咳だけが残っている。処方される薬は、咳止めに力を入れたものに変わった。大嫌いな咳止め薬(水薬)も渡された。「必要になったら使ってください」ということだった。必要なことがないようにありたい。必要がないというのは、考えようによれば、よくなる=治るということでもあるのだから。早くよくなればいい。よくなりたい。

 この時期、雪道を歩くのは久しぶりだ。こどもの頃から、まっさらな雪の道の上を歩くのが快感だった。今日もまた、すこし底の分厚い靴を履いて歩く。病院までの道のりをきゅっきゅっと足音をいつもより丁寧に立てながら歩く。歩くと、歩いてきた足跡が残る。それは、「わたしがいる」場所であり、「わたしがいた」場所である。軌跡だ。どちらもしっかりとした足跡が残っている。そしていつしか消えて行く。なんだかおもしろい。

 お粥を食べて、薬を飲み、眠る。眠る。眠る。
ここ数日、食べる、薬を飲む、眠る、その繰り返しだ。眠ることで体力が回復し、身体がよき方向へと回復していく。薬の作用で身体のウィルスをやっつけて、食事によってエネルギーを確保する。
睡眠ほど身体の調子を整えるものもないのだろうか。フライング気味に倒れた12月の朝。気づいたのは、今月に入った辺りから原因不明のまま大分ひどく荒れていた肌が、何事もなかったかのように元のようになり、荒れ具合がひいていたことである。

 夕方頃、何度目かの眠りから起きだし、再びカーテンと窓を開ける。もう、ほとんどの雪が解けてなくなっている。乾いた屋根や道路や道や家が見えた。見たことのある風景が戻っていた。今日は冬至。寒く短い冬だ。
わずかに残った雪で、雪だるまを作る。小さく座っただるまはぎこちなくもしっかり足取りで大地を踏みしめていた(って足はないけど)みしっと音を立てながら、その短い命を精一杯生きているかのように見えた。


12月21日(水)

 寝込んで早くも三日目になる。
 それでも昨日と一昨日は、「仕事に行かなーくちゃ」という最後の志が働いて、薬を飲み、正常とは思いにくい量の咳をしながら、悩めるほどの頭痛を抱え、出かけたと聞く。
それが良かったのか悪かったのか誰にもわからない。たぶん数時間で「早退」を判断したのは間違ってなかっただろう。そう思う。だって、咳をすることで、周りの人にうつす可能性があるし、咳も遠慮しがちになる。咳は遠慮しがちにできるものでも、努力して止められるものでもない。咳が出たら最後だ。むせて咳をする以外に手はない。それに当の本人が薬と熱のせいで、頭がうまく働かず、ほとんど仕事にならないだろう。あと喉が痛いので話をしにくい。しかしまあ、こんなときに限って遊びに行ったものだから、結局は、あのジョンがウッキーの世話をすることになったってわけだ。

 ウッキーの声は、心もとない声というより、だみ声、あ、いや、違った。ハスキーボイスってやつだった。だから、かなり渋い声で迎えてくれた。今だから言うけれど、一瞬、部屋を間違ったかなと思ったんだよね。出てきた顔が何度も見たあの丸顔だったから、まあ、よかったけれど。

 ちょっと前の竹内まりやの歌詞にこんなのがあった。ジョンは犬だが何でも知っている。だって、この世界はおもしろいのだから。
歌詞というのは、これ。「瞳と瞳が合って指が触れ合うその時 すべての謎は解けるのよ」というやつだ。すこし前ドラマの主題歌になった。見てなかったけれどね。
哀れなウッキーの様子をこれに当てはめると、瞳と瞳が合うとよろよろしていたし、指に触れると熱っぽかった。すべての謎が一瞬にして解けるかのように、症状がかなり重いことが察知できた。風邪如きでは、竹内まりやの歌のようには、そうそうロマンチックにもなれない。(しかしあの歌に登場する女の人はかなり都合がいいね)。

それにしても。いつもバカみたいに騒いで元気なヤツが風邪をひくと、こうまで極端に体力が落ちるのかい?それともボクが知らないだけで、風邪をひくと大概のウッキーは、こうやってよれよれになってしまうかい?

 風邪は十月の半ばからずっと引き続けているらしい。この十二月になってもまだしばらく続いていたようだ。それでも十一月の終わり頃、回復を見せ始め、ようやく本調子になり始めた。それが先週の半ば頃から、今度は深く突き刺さるような喉の痛みを覚えるようになったのだという。平熱が低いとはいえ、今回は熱も上がり、何かにつけて正気ではなくなり、ぼんやりとしてしまうらしかった。幼い頃から喉はよく腫らすのだそうだ。「扁桃腺」とは、腫らすために腫らすものかと思えるくらい、よく腫らしていて、実際生まれたときよりも随分免疫力が向上しているかもしれないというのが、ウッキー本人の独断的推測だった。喉を腫らしていても食欲がある。食欲があるから、よく食べるし、薬を飲んでも使うエネルギーをすぐに補充することができる、だからわたしは回復が早い、と言うのを聞いたことがある。今回もそう言っていた。だが、これをだみ声で言われても、どこか説得力に欠ける。そう、風邪をひいたウッキーからの話す声はすべてだみ声なのだ。

さて、こんな症状の中、訪ねたジョンは結構感謝された。急な来訪者が病人に感謝されるのも申し訳ない気がしたが、感謝されるのは悪い気はしない。でも、不器用で何にも食べ物を作ってあげることができないものだから、とりあえず困ってみた。そして、とりあえずレンジで暖めてすぐ食べられるようなインスタント食品をいくらか買い込んできた。リゾットとパスタ。それからブランデーケーキとスープ。あとは、水分をよく摂るようにと、みかん、清涼飲料水、紅茶、コーヒーといったものを用意した。思えばこれまで、ほとんど一緒に食事をしたことがなかった。だから、ウッキーの味覚がどういうものかは知らなかったけれど、あてずっぽうに選んだリゾットを「おいしい」と言ってくれたとき、ジョンはとてもうれしかったんだ。


12月20日(火)

 風邪につき再び早退。


12月19日(月)

 風邪につき早退。


12月18日(日)

謡うに謡えない。実際、声が出ないのだ。
 熱も徐々に上がってきて、身体の不調や闇が一気に毒出しているようである。
 まだ肌荒れが治らず、喉の痛みは引かない。咳は出る、頭痛がする。眠気がする。吐き下して、寒気を感じる。食欲だけがかろうじて少しあるが、いったい、いつ治るというのだろう。このままでは年末には、倒れてしまいそうだ。


12月17日(土)

 本日の予定は、本年の稽古納め→甲野先生の講習会→懇親会兼納会。
 前日から今日にかけては、仕事→クリスマス礼拝→帰宅→年末恒例の会合。
この会合とは、知る人ぞ知るあの「裏演劇部」が活動する年に一度のパーティのこと。
恒例どおり夜中まで騒いで(上演されて)いたので、風邪など治るはずもなく、勢い声は低くなる。終演頃、遂にはオクターブ下のハスキーボイス現象が起こる。つまり、喉がかれたということ。いや、実際本格的な風邪をひいているんだが。時が経つほどに低くなる声。そして、時が経つほどに盛り上がりを見せる会合。夜中の3時半が「早かったね」というみんなの挨拶になるのだから、以前はいったい何時だったのだ?といった疑問を抱かせてしまうだろう。最高記録は、「朝日を見る前」としておこう。
さて、こうなってくると、ほんとうに、声の低さをテノールだなんだと喜んでいるわけにもいかない。次はバリトンかなどと目標を定めて楽しんでいる場合でもない。声が低くなると話をしても、電話しても、「わたしがうっきーである」とわかってもらいにくい。説明しても、その説明する声が低いのだから、誰か別人のように聞こえるからだ。それはまた難儀な話しである。
 明日はおそらく倒れるだろう。喉はいつ治るだろう。風邪は。


12月16日(金)

 クリスマス礼拝に行く。
 夜の礼拝は人気があって、チケットは抽選制になっている。
幼い頃からかなりくじ運の悪いわたしは、かなり競争率の高いとされるチケット入手など簡単にできるはずもない。
行きたいけど、行けないなあの年月を何度となく涙を飲んで過ごしてきた。
今年は、チケットが当たったけれど、行けない人に偶然にも譲ってもらうことができた。かなりうれしそうに礼拝に出かける。
 荘厳だった。礼拝とは。生演奏だし、音楽はやはり心を豊かにしてくれると思う。


12月15日(木)

 遂に風邪を引きました。
これまでの3ヶ月ずっと引き続けている風邪とは、また違う喉の痛みがあります。深く痛みます。痒いです。本格的な痛さです。扁桃腺でしょう。痛すぎで、話すのも億劫になってきます。


12月14日(水)

 討ち入り。やあー!


12月13日(火)

 ことしも出るぞ、音楽隊。ことしも吹くぞ、リコーダー。やっぱり忘れてならぬのは、いつでもどこでもアルトなのだ。声もアルト、吹くのもアルト、あるとないとは大違い。
でも、実はテノールなのですよ、この声。わわわわわー。

かつて、これでも聖歌隊に所属しておりまして、クリスマスシーズンになると老人ホームや施設、ホテル、イベントなど、各地にクリスマスキャロルと共に、それこそ駆け回っていました。かなり真っ直ぐな暖かな気持ちで、「クリスマスおめでとう」という気持ちを込めて、冬の時代を過ごしていたのです。
イベントシーズンが近づくと、歌の練習も過熱してきます。連日夜遅くまで熱心に歌の稽古を詰めていきます。各パートも如何にして、荘厳な響きを出すか、聴かせどころはどこなのか、いろいろと工夫も凝らしていくわけです。
時には、指揮が大層お好きな先生が歌の指導に来てくださいました。学内の先生です。その先生は、学生時代に自らグリークラブで所属されていたこともあるらしく、大学進学にあたっては、指揮者をめざすほどに熱心に歌の世界に邁進されていたとうかがったことがあります。指揮者といっても、今流行の千秋慎一くん(@『のだめカンタービレ』)のようなイメージではなく、もうすこし柔らかなイメージですので、誤解なきようお願いします。その先生の指揮は、やはり情感たっぷりに、実にわかりやすく指揮してくださるものでした。
あるとき、その先生が指導しながらわたしに、とあることを注文されました。「ちょっと、この音出してみて」と言われるのです。そう言われながら先生が叩いた鍵盤は、鍵盤のかなり左の方、つまり、かなり音が低い音でした。わたしは鍵盤の音に合わせて声を出しました。そのまま先生は、どんどん叩く音を下げていきます。わたしは、その音に合わせてどんどん声を出していきます。五線譜に音符を書いたときなら、五線譜の一番下の線は通り越し、「ド」が一番高いくらいの音になっていたのはたしかです。先生の叩く鍵盤の音を聴いては、わたしは声を出しました。ある程度の音を出し、声を出すと、先生は言われました。「君、テノールや。これは売り物になるぞ」と。(先生がその後、続けざまに「僕より低いなあ」と、ぼそっとしかし確実に言われたことをわたしが聞き逃すはずはなく、しっかりと記憶してしまいました)。
道理で、それまで同じパートと思ってきたアルトの人たちがいつも、いつでも、かなり苦しそうに歌っていたはずです。時には、音が出ないと言って、自暴自棄になり、歌うのを飛ばしている人もいました。なんで出ないのかと、わたしにとっては不思議だったのですが、これで謎がすべて解けました。わたしがアルトだと思って歌っていた部分は、テノールの音で、アルトはその上にかかれた旋律だったのです(ごめんね)。出ないのは当然といえば、当然のことでした。ふつうは。
こうして、その後、わたしのパートは、わたしだけが歌う部分となってしまい、ひとりテノール時代が始まるのです。あとは、ふつうに、ソプラノ、メゾソプラノ、アルトを歌っていました。考えてみれば、この聖歌隊は、女子大の学生が形成するわりに、一時期、混声合唱になっていたわけですね。

 わたしの音声話はこれくらいにして、その「テノールだ」と言われた先生にお声をかけていただき、今年も学科別クリスマス担当礼拝に出ました。今年で何年になるでしょうか。毎年出ているので、それが自然のようになってきて、今年もこの季節が来たなあと思って過ごしています。毎年同じ時期に同じことをするのは大好きですね。しつこいかもしれませんが。
それでも礼拝は、ちょっとだけ厳かな気分になれるから、いいものです。


12月12日(月)

 胃の痛みが治まらぬまま、不貞寝。胃のすべてが痛い。身体もぎしぎし言うようだ。


12月11日(日)

 原因不明の胃の痛みに襲われる。
 常備していた胃薬を飲んで、一時の難を逃れるが、また何時再発するかわからない痛みである。ストレスだろうか。


12月10日(土)

 もうお肌か荒れる、荒れる。やんなっちゃう。
もしかしてストレス?これ?ストレス?もしかして~。


12月9日(金)

 真面目にこつこつ生きました。ほとんど笑うこともなく。ああ無表情。


12月8日(木)♪いまーじん おーる ざっ ぴーっぽーおおおおお~

 成道会ですってさ。今日は。
久しぶりに読もうかな、『ブッダ』なんて思いつつ、手に取るのはやっぱり『アドルフに告ぐ』の方がいいよねと思って本棚を見たら、なぜか見当たらなかったので(わーん、どこにいったの!)結局読むのは『ルードヴィッヒ・B』なんだよね、これが。だって、この前の研究会で話題になって、ちょっと質問に窮したからなあ。ちっちっちっ。


12月7日(水)

 大雪ですってさ、今日は。
 「おっかあ、おら、だいこんが食いてえ。『だいこんめし』じゃなくってさああ」

About 2005年12月

2005年12月にブログ「ウッキーの浮き憂き日録」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2005年11月です。

次のアーカイブは2006年1月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。