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killer street に雨が降る

10月5日(水)KILLER STREET

CDを買った。その名も“KILLER STREET”
CDなんて買ったのは久しぶりだ。
随分前から予約していたので、今日という日をすっかり忘れていたが夕方までには思い出した。
ジャケットからして、音の感じからして、ビートルズ好きには、たまらないサザンである。
今回はさらに個人的志向にとても寄り添った楽曲タイトルがあってうれしい!(気になるひとは買いましょうね)。
生後すぐからレコードプレーヤーの上が特等席。
そこで聴いていたビートルズをはじめとする音楽全般(洋楽から邦楽まで)は、いまでも身体の奥深くに染み渡っている。


10月4日(火)

 今何時?そうね、だいたいねー。
 身体、めちゃくちゃおかしいらしいねえ。
どうなっちゃうんだろうねえ。
 やあんなっちゃうねえ。
週末は合宿行くってのにねえ。
大丈夫かねえ。
大丈夫だよ。きっと。わんわん。


10月3日(月)

 靴下を履いたままでは滑ります。
 秋の夜長に束の間稽古。


10月2日(日)

 「ことばじゃ言えな~い」ことは、世の中にたくさんある。
 誰かの発することばを受けての感想もそうだし、なんということなく観た映画の感触もそうだ。予定なく食べた蕎麦の味だって、うまく表現できることもあれば、永遠に感触をつかめないまま、記憶のかなたに消えていくことだってある。
聞いたもの、観たもの、食べたものの「良い感じ」を身体のどこかで感じても、ことばにした瞬間、感じたはずのものとはまったく違う感触になることがある。
「あれれ?うーん、いやあ、そうじゃなくてさ」
かと思えば、ことばにしてみることで、思ったよりも簡単に説明できるじゃないのと知ることがある。
「そうそう、それが言いたかったんだ!」
でも、心身ともに思っていることや感じていることがぴたりと一致するなんて、あんまりないような気がする。それは心と身体のどちらかが先走るからだと思う。
結局物事に対する言い足らなさと言い過ぎが身体の中で常に曖昧に同居している。この同居する感触が、「表現のできにくさ」につながるのだと思う。
表現のできにくさは、心身双方を含む身体というひとところにある。
 このときの身体は、ある意味制御されているようでされていないものだ。とてもぐちゃぐちゃしている。
発することばと内面にある感情とがあまりにズレると、無闇に不快感を覚え、不気味な感触を残す。それはあまりに辛い。
思っていることは、表には見えないし、誰の目にも映らない。
考えていることは、マンガの噴出しのようにそのままの形で表に出ることはない。
予定外のことを述べ、思ったとおりのことばには届かない。
ことばをうまく使えないが故に話す。
ことばを届けたいが故に、日々を書いている。
身体は大分マシになってきたのだろか。


10月1日(土)

 きょうも暑いね。
 最近とんとジョンを見かけなくなったのは、ドラえもんのせいだと思う。きっと。


9月30日(金)

 9月末の金曜日。
明日から10月が来る。
「いい女にはForever夏がまた来る」


9月29日(木)

 クニクノサク。


9月28日(水)

 くにゃくにゃ。


9月27日(火)

 雨の街はしずしずと。
結構雨の中もいいじゃん。
中華もおいしくっていいじゃん。
 おまけに氷割りができてうれしいじゃん。じゃん。

 仕事するのは嫌いじゃないが、無感動な事務作業はちょいと苦手だ。
 秩序だけが存在する無機質な体験。
なにひとつ「わたし」がいた形跡がなく、どこにも現れることのない世界の出来事。
客観や主観といったことばが存在することなど到底ありえない。それ以前の世界。そ冷戦の状態。状態が辺り一面に彷徨うのは、何もない世界。
誰もおらず誰も見えない。誰かがいたこともなければ、この先もまた誰かが来ることもない世界なのかもしれない。たとえ誰かが潜んでいても誰も姿を現すことはない。それは永遠と感じる以前に、永遠とわかる前よりもさらに前に、検討もつかないくらい長い長いあいだの何もない世界なのだ。


9月26日(月)

 すこしは大きくなりたいちびっこ。

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2005年10月 6日 09:21に投稿されたエントリーのページです。

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